56.黒い液体(2)
話が進むにつれ、実香の頭は真っ白になり、何をどう理解してよいのか分からない状態だ。
それでも、話の最後には菜都芽が泣きながら、実香に申し訳ないと言っていたと聞き、実香の心が大きく揺れ、霧の中を漂っているようだった脳細胞が、目を覚ました。
まさかそんな展開があろうとは信じられない。
相手は天馬だ。
どんなに、自分がモーションをかけても全く反応しなかったほどの男が、菜都芽と二人になって狂ったと言うのだろうか。
「素面なら理性が勝るだろうけど、お酒が入るとタガが外れることもあるじゃない」
「そうだけど……」
「それに、もともとそういう男だったのかもね」
「そういうってどういうことよ」
「実香は本命だから、手を出さなかったんだろうけど。菜都芽は遊べる女、あるいは適当にやっちゃっても問題なしとふんだんじゃないの」
「そんなバカな! だって、そんなことしたら、私の耳に入って、私が怒るのは分かってるじゃない」
「そこが、お酒の力なんじゃないの? 全てを忘れてしまうくらいに、酔っていたとか」
「そう、菜都芽が言ってるの?」
「菜都芽が? まさか! あんなに意気消沈して、涙を堪えてる菜都芽が、そんな風に分析できると思う? あんたの彼氏にレイプされたのよ。菜都芽が可哀想だと思わないの? それとも、自分の彼氏だから、菜都芽が悪いとでも思ってるの?」
かなり本気で怒っているようで、声が大きい。
さすがに『レイプ』などという単語が飛び出しては、周囲の客たちも興味を惹かれたのか、実香たちのテーブルへ一斉に視線を向けた。
「そんなことないよ」
咲枝を黙らせるように、静かに言った。
「ただ、ちょっと。そう思っただけだよ。それが本当なら、ショックだけど、菜都芽には申し訳ないことをしたと思うよ」
「申し訳ないじゃ済まされないよ。菜都芽だって、あんたの彼氏とこんなことになって、申し訳ないって泣いてるんだから。自分がやられたっていうのに、あんたのために泣いてるんだよ」
「う……ん」
「女としてどうよ」
「そりゃ、辛いよね」
「辛いどころじゃないでしょ。菜都芽はあんたのためにそこまで頑張ったんだよ。
あの子の捨て身の精神を、このままにしていいの? 自分じゃあんたに言えないから、私を頼ってきたんだよ」
「このままでって、言われても」
「菜都芽をいたぶるような男と、なおも付き合い続けるの? それでいいの?」
「……」
「この先、そういう男は何度も同じことを繰り返すわよ。実香の傷が深くなる前に、別れたほうがいいんじゃないの?」
「……」
「菜都芽は、そう忠告したかったんじゃないかな。自分が辛いのに、友達のことを思って、泣きながら夕べのことを話してくれたのよ」
「……だったら、あんなメールしてこなくてもよかったのに」
「どんなメールよ」
実香がケイタイを咲枝の前に置いた。
そこには、菜都芽がホテルから送ったメールが映し出されていた。
「健気じゃないのぉ。辛いことがありながら、どうしていいかわからなくて、とりあえずそんなメールを送ったんでしょうよぉ」
本当に健気だといいながら、鼻をすすっているが、目の前に置かれたアイスティーはしっかり飲んでいるのだから、どこまでが本心なのか分からない。
木々の葉を揺らしながら、夏の風がテーブルの上を通過する。
蝉の鳴き声が、うるさいほどに良く響き、周囲の客たちの話し声が雑音となる。
誰もが夏の暑さを凌ごうと冷たいものを頼み、少しでも天然の風の中で過ごしやすさを求めている。
結局は、暑さに負けて店内に移動する人も多いのだが。
そんな中、実香はじっとコップの中で溶ける氷を眺めていた。
氷とその向こうに見える真っ黒な液体。
今まで、真っ黒な液体は甘く、心落ち着く香りを放っているものとばかり思っていた。
ところが今となっては、大事な友達の塩辛い涙の味しかしなかった。
「そうだね」
実香は顔を上げると、力強く頷いた。
「菜都芽がせっかく、教えてくれたんだもの。無駄にしたら、罰が当たるよね」
「そうだよ!」
咲枝も力強く頷いた。
実香は無言でケイタイを取ると、メールを送信した。その内容は、
『最低! 私の友達に酷いことをして、一体どうするつもりなの! もう、別れます。さよなら!』
蝉の鳴き声が、より大きく聞こえ出した。




