42.菜都芽の涙(2)
「どんなに頑張ったところで……ね」
何度ここから飛び降りようと思ったことだろう。
「でもさ、こんなことで飛び降りてたら、命がいくつあっても足りないよね」
「別れよう。妻を泣かせたくないんだ」
最低な別れの言葉だった。
運命のいたずらなのか、人生のひずみなのか。
どちらにしても、菜都芽が選んだ愛は辛いものだった。
「私は泣かせてもいいの? 私なら、泣いてもいいの?」
涙を堪えながら、狩野に詰め寄る。
「君は強い女性だ。仕事もできる。これから先の未来も輝いている。しかし、妻には私しかいない」
そう言うと、すまないと頭を下げ一センチほどの厚みのある封筒を差し出した。
「これが精一杯の私の気持ちだ。これ以上はできないが、君を愛してきたことに嘘はなかった」
全てが過去形。
「そんなに奥さんが大事なら、なぜ私を愛したの! どうして、部下の私と寝たのよ!」
「すまない……」
公園の中に点在する東屋で繰り広げられる別れ話。
狩野はひたすらテーブルに額がつくほどに謝り続けるだけだった。
「分かっていたことじゃない! 奥さんがそういう人だって分かっていたくせに!
遊んだ挙句に飽きたから奥さんに戻るわけ? 結構なご身分よね」
「何とでも言ってくれ。罵倒された方が気が楽だ。だが、私が愛したことは本当だ。妻と君をはかりに掛けることはできないんだよ」
「はかりにかけることはできなくても、両手に乗せることはできたわけでしょ! 最低な男! 散々愛してるって言っておいて。こんな……こんな、はした金で……私をどれだけ見下せば気が済むのよ!」
あれほど仕事に夢中になり、これからの自分を飛躍させようと頑張ってきたというのに、結局はこういう結末しかないのか。
菜都芽は目の前の、みすぼらしくうなだれている中年男に一度でも本気で惚れたことを後悔していた。
(もういい! もう、二度と本気になどならない。男なんて、男なんて結局こんなものなんだ!)
「殴ってくれてもいい。君の好きにしてくれ。俺はこれしか、君に謝る術がないんだ」
そう言いながら、菜都芽がこれ以上何もしないことを承知しているのだ。
だからこそ、安心して言える言葉。
あるいは、所詮女に殴られたところで、大して痛みはないと高をくくっているのか。
(泣かない。泣いてたまるか。こんなくだらない男のために、私の涙を流してたまるもんか)
「他に方法が無い? 甘ったれないでよ。方法ならいくらでもあるわ」
狩野が頭を上げ、『どんなことがあるんだ』と言う目で菜都芽を見た。
空がどんよりと曇りだし、泣き出しそうだ。
「……本当に悪いと思うなら…………死んでよ」
「……」
「あなたの奥さんに本当のことを話してよ」
「それは……」
「社内の全てのパソコンに、あなたと私の秘密の写真を送信しましょうか?」
「菜都芽……そんなことをしたら、君も破滅するぞ」
「破滅? これだけのことをされて、いまさら何が怖いと思うの?
仕事を失ったところで、私はまだ再就職ができるわ。あなたはどう?
再就職できても、奥さんには呆れられ、職場では新入社員よ。
給料は最低賃金になって、その歳で一からのスタート。みじめよね」
「た・頼む。そんな、馬鹿なこと……考えないでくれ。そんなことをしたら、君の人生も終わるんだ。俺だけじゃない、君も辛い思いをすることになる」
雨が降り出した。
東屋の屋根に当たる雨音が、ぽつぽつと響き、大きな雨音に変わって行った。
菜都芽が立ち上がると、男の視線が菜都芽を追う。
その目は怯えているように見えた。
「……大丈夫よ。私はバカじゃない。あなたのようなバカじゃない」
この雨が硫酸だったら、目の前の男を溶かしてくれたら、どんなに爽快な気分だろう。
菜都芽は無表情に男を見下ろしていた。
「バカなのは私よね」
あれから数日、入社して始めて仕事を休んだ。
風邪を引いたから、熱があるから。
そんな嘘を並べ立てた。
「私はこんなにも苦しんでいるのに、こんなにも苦しい恋ばかりなのに」
あの日、鷲づかみにして持ってきた封筒をバックから取り出した。
お金が欲しかったわけではない、そのまま叩きつけてもよかった。
しかし、そんなことをしても自分がその場から離れた後、ほっとしながら拾い集める男の姿が思い浮かんだのだ。
これで全てが終わった、お金も戻ってきたと、ほっとしながら拾い集める狩野の姿が……。
「私は一生懸命に働いてきたのに、それなのにこんなに辛い恋ばかり。
ところがどう? 大学を出てから、自分の好きなことばかりして、定職にもつかない実香が、実香だけを見つめてくれる優しい愛を手に入れるって、不公平じゃない!」
ビリビリと封筒の封を切る。歩道橋の下を通る車が巻き起こす風が、一万円札を躍らせ地に落ちそうになると舞い上がらせる。
一枚、また一枚と風が運ぶ紙幣と共に、菜都芽の瞳から涙がこぼれた。
泣くまいと、こんなことで泣いてたまるかと、じっと耐えてきた涙が、頬を伝って流れ落ちる。
歩道橋の下では、舞散る紙幣に気がついた通行人が、紙幣をつかもうと両手を天にかざしていた。




