41.菜都芽の涙(1)
菜都芽は一人歩道橋の上に佇んでいた。
歩道橋から見下ろすその景色は、途切れることのない車の流れと、行き交う人々。
誰もが俯きかげんに歩いている。
まっすぐ前を向いていたり、空を仰いで楽しそうに歩いているのは、恋人同士か子供くらいだろう。
大人になればなるほど、多くの悩みや苦しみを抱えて生きていくようになるものらしい。
菜都芽もまた、同じように俯いてばかりの日々を送っている。
「はぁ……」
深いため息が出る。
思い出されるのは実香の嬉しそうな、キラキラと輝いている笑顔。
天馬を見つめる瞳。
そして天馬の、実香しかこの世に存在していないとでも言いたげな眼差し。
「一体私は、何のためにあの二人に会ったのよ……」
今年の梅雨も雨が降らない。
こんなときくらい、土砂降りになってくれたら、菜都芽の心にたまった、ドロドロとした思いも流してくれるだろうに。
社会に出て、恋愛と呼べるような素晴らしい出会いは無いに等しい。
目にするのは、社内のくたびれた中年ばかりだ。
入社して最初の恋愛は、菜都芽より八歳年上の、仕事もバリバリこなす、働き盛りの男だった。
話も面白く、仕事をしている姿は光り輝いて見えた。
入社したてで、社会のことなどまるで分からない菜都芽に、いろいろな場面で声を掛けてくれたのが彼だった。
あっという間に恋に落ち、本気で愛していると思った。
ベッドの中で語り合う、未来への夢。
全てが現実になると思い込んでいたのだ。
しかし、それが自分だけの思い込みだと知るのに、一年という時間が必要だった。
次の新入社員が入る頃、彼の視線は菜都芽から他の女性へと移っていった。
だからといって、おおっぴらに行動を起こされたわけではない。
元々、菜都芽との関係ですら、社内には秘密だと教えられてきたのだ。
「いいか。大人の社会はね、社内恋愛はご法度なんだよ。社内恋愛がばれたら、どちらかが辞めるか、飛ばされる。そうはなりたくないだろう?」
そう言って、菜都芽を言い含めてきた。
そう言いながら、他の獲物に目を向けていた。
徐々に希薄になっていく彼との関係。
「逢いたいの」
何度メールを流しても、彼からは返信が無かった。
会社で会ったときに聞こうと思っても、社内恋愛ご法度だと教え込まれているだけに、なれなれしい態度は取れず、結局何も言えなかった。
ひざを抱えて、返ってこないメールの返事を待つ日が続いた。
ある日、同僚の女性から聞かされた事実は、彼が転勤すると言うものだった。
「どうして? どこへ?」
何も知らされていなかった。
恋人のはずの自分は、彼から何も聞かされていなかったのだ。
「海外よ。中国支社に転勤だって」
「まだ辞令が出てないのに、どうして知ってるの?」
彼女は、含んだように笑うと、
「恋人なら、相談されて当然でしょ。でも、中国じゃねぇ」
その言葉で全てが理解できた。
恋人だと思っていた自分は、単なる遊び相手。
他にも恋人だという相手がいた事実。
中国へと転勤していった彼は、単身だった。
影で泣いている女性が何人もいたようだが、菜都芽は泣かなかった。
(あんな男のために泣いてたまるものですか! 私は仕事に生きるのよ! そして、アイツを見返してやる!)
その通り、菜都芽は仕事に打ち込んだ。
何人もの男性から付き合って欲しいと言われたが、それらの全てを交わしてきた。
仕事のできない男や、疲れた男に興味など無かったのだ。
頼れるのは自分だけ。
同期入社した女子社員が次々と寿退社していくのを見るにつけ、余計に仕事への意欲が湧いていった。
(必ず、アイツより上に行って見せる)
それが、菜都芽の目標となった。
「どんなに頑張っても所詮女よね……」
歩道橋の欄干に両腕を乗せ、顔を埋める。
午後の一番暑い時間帯だ。
大きな灰色の雲に遮られているとはいえ、太陽に熱せられた空気が体を包む。
不快な汗が、菜都芽の額に筋を作る。
愛っていったいなんだろう……。
仕事に夢中になっている菜都芽の前に、人事異動で現れたのが狩野敬一郎だった。
三八歳という彼は、菜都芽の上司として赴任してきた。
その姿は、生き生きと仕事を楽しんでいるように見えた。
飲み会の席でチラつかせる妻の写真。
部下から「綺麗な奥さんですね~」と言われると嬉しそうに「そんなことはないさ」と謙遜して見せるが、妻を愛していることが伺える。
そんな狩野に徐々に惹かれていった。
今までの誰よりも高い能力を有する彼は、菜都芽の仕事に対する姿勢を高く評価し、あらゆることを教えてくれた。
仕事への姿勢、他社との関係、書類の作り方、果ては上層部との顔つなぎの場にすら同行させてくれたのだ。
もちろん異例中の異例と言ってよいだろう。
それほどまでに期待されて嬉しくないはずもなく、菜都芽は狩野の期待に応えるべく、今まで以上に働いた。
学校を卒業してから勉強などというものとは縁を切っていたはずだったが、社会でも勉強が必要だと始めて知った。
今までの社内の風潮が、《女性は腰掛程度の仕事しかしない》《いつか辞めていく》《結婚相手を探しに来ている》という考えの下にあった。
それゆえ仕事らしい仕事など、与えられることは無かったのだ。
「君のそのやる気を無駄にしてはダメだよ」
その言葉が狩野の口癖になった。




