36.プチ記憶喪失(2)
「あー、実香さん。思い出し笑いして、いやらしいですよ」
連が騒ぐが、実香はチラッと連をみただけで、ナプキンを折る手を休めることはなかった。
「おい連、遊んでもらえなくて残念だな」
今度は店長が連にちょっかいを出している。
どこまでも暇な二人だ。
会話が途絶えることなく続いているとき、店のドアが開いた。
「いらっしゃませー」
連が最初に客を招きいれると、
「実香さん、お客さんですよー」
という。
実香としては、水を持って行くくらい連がすればいいのにという思いで、トレーに水を乗せホールに体を向けた。
すると目に入ったのは、いつもの席にいる天馬だった。
連を見るとニヤニヤと妙な笑みを浮かべている。
実香は軽く連を睨んで、歩き出した。
天馬の座るテーブルが近づいてくるにしたがって、頬が緩み口角が上がる。
これが愛される幸せであり、愛する幸せなのだろう。
自然と笑みがこぼれるのだ。
「お帰りなさい」
つい、「いらっしゃいませ」と言うべき言葉が「お帰りなさい」になってしまった。
恥ずかしそうに、水をテーブルに置き、分かってはいるもののいつもの癖で「ご注文は?」と聞いている。
他の客なら普通のことだが、相手が天馬なのだから「珈琲」に決まっているのだ。
天馬はにっこりと微笑むと、
「珈琲と……実香さんが欲しい」
そういうと、テーブルに小さな花をあしらったリングを置いた。
それはどう見ても安物で、路地に店を広げている若者が売っているようなものだった。
「ごめんね。こんなものしかプレゼントできなくて。でも、いつか必ず本物をプレゼントするからね」
実香はじっとテーブルに置かれたリングを見つめていた。
「気に入らなかったかな」
そう言って、鼻をぽりぽり。
(あ! これだ。この仕草。私が待っていたのは、この仕草だったんだ)
実香は胸が熱くなるのを感じていた。
「そんなことない。気に入らないだなんて」
トレーを胸に抱き、首を左右に振った。
確かに自分の趣味とは違う。
だが、それが何だというのだろう。
今の実香にとって、テーブルに置かれているそれは、どんな高価な宝石よりも価値があると思えた。
かつて、何人もの男性から幾多のプレゼントをもらったことだろう。
その度に、自分の趣味と違っていたり、安物だったりしたら、一応「ありがとう」と言うだけで、そのまま引き出しの奥深くに眠ってしまうのが常だった。
ところが今の実香は、金額でもなければ、自分の趣味と合うかどうかが問題な訳ではなかった。
それは、天馬が一生懸命働いたお金で、顔を赤らめながら選んでくれたであろうことが嬉しかったのだ。
そして、なによりも実香を驚かせたのは、今まで敬語でしか話さなかった天馬の口から敬語ではなく、普通の言葉が出ていることだった。
「天馬さん、敬語……じゃないの?」
天馬が楽しそうに笑う。
「実香さんに怒られたから」
「え? 私が怒った?」
「昨日の電話で怒ってましたよ。天馬のバカァって」
「え……」
覚えていない。と言うより、完全に記憶がないのだ。
「うそ……」
「嘘は言いません。昨日、実香さんに連絡もしないで音信不通になったことを責められました。本当に悪かったと思っています。……思って……る」
敬語以外で話すことが非常に難しいらしい。
「そんなこと言ったの? 私……」
顔が真っ赤になるのが分かる。
カウンターの方から「へぇ~。それで、二日酔いになったのかぁ」と連の感想が聞こえてくる。
内心(人の会話を聞くな!)と思っても、口には出せない。
「あれから良く眠れた? かなり酔っていたようだけど」
テーブルに頬杖をついて、実香を見つめる天馬。
その目はただ一人、実香だけを見つめている。
「え……、あ、はい。良く……」
朝、目が覚めたときは、ケイタイが開いたままベッドに転がっていたのだ。
どうしてその状態で転がっていたのか、全く分からなかったが、今やっと謎が解けた気がした。
(電話しながら寝たのか……。良く壊れなかったなぁ)
「ケイタイ、壊れなかった?」
やはり考えることは同じようだ。
しかし、そんなことを話している天馬は、かなり楽しそうだ。
「本当に、急にいなくなって、ごめんね。許してくれる?」
じっと実香だけを見つめる天馬の瞳に、許さないなんて言えるはずはないのだ。
実香は大きく首を上下に動かし、にっこりと笑った。
「よかった、会って謝れって言われて、怖かったよ~」
「えー! そんなこと言ったのー?!」
最後のセリフは聞きたくなかった実香さんだった。




