23.天使にラブコール(1)
夕暮れが迫るころ、穴あきセーターの彼はPCを静かに閉め、専用のバックにしまった。
それは、『ハンプティ』での穏やかな時間が終わることを意味していた。
PCバックを持ち、テーブルに置かれた伝票をつかむと、テーブルの間を抜けてレジへと近づいてくる。
実香はレジで彼が来るのを待っていた。
「ごちそうさま」
彼はかつてと同じように、伝票を置くと穏やかな笑顔で「ごちそうさま」と言葉を掛けてくれる。
もちろん、他の客も同じように言葉を掛けてくれるのだが、彼の言葉だけは別のような気がした。
小銭入れから数枚の百円玉を出しながら、彼は照れたように言葉を繋げた。
「珈琲一杯で、三時間も粘ってしまって、申し訳ないです。でも、どうしてもここの珈琲が飲みたくて。それに、ここがとても落ち着くんです。なんでなのか分からないんだけど」
そう言いながら鼻の頭を掻いてみせる。
これが彼の癖なのかと頬が緩む。
「構いませんよ。どうせ暇な時間帯です。好きなだけいてください。
逆に一人でもお客がいたら、他の客が入りやすくなる」
カウンターの向こうから、店長が大きな声で彼に話しかけた。
確かに暇なのだから、一人でも客がいれば開けている意味があるというものだ。
「そう言ってもらえると助かります」
そう言うと、彼が笑顔を浮かべたままドアへと向かう。
その時、一体何が起こったのか、実香にも店長にも、もちろん連にも分からない。
ただ、何の考えもしないまま体だけが動いていた。
そして、その行動に誰もが驚きを隠せず、しばらく誰もが言葉を発することができなかった。
たった一人、彼だけがちょっと驚いたような顔をしただけで、静かに「ありがとう」と言っただけだった。
「それってどういうことよ!」
電話の向こうから、鼓膜を破るような勢いで、三オクターブほど高い音が声となって響いてきた。
「どうって……」
電話の相手はいわずと知れた菜都芽だ。
できることなら、菜都芽だけでなく咲枝にも話してしまいたいところだが、さすがにオムツマンや怪獣チビラの世話で忙しいだろう。
「だから、なんでそうなったのよ!」
いつもは上から目線で、定職に着かないからと人を馬鹿にしている菜都芽だが、さすがに今日のことは上から見下している場合ではないようだ。
「知らないわよ。どうしてだか、そうなったんだもの」
「ちょっと! ちゃんと一から話しなさいよ! いや、今から行くから!」
そういうと電話が切れた。




