猿人の恋
草原を走る君はまるで、春の喜びを全身にあふれさせる子馬のようだった。こっちを見て無邪気に笑うと、急に恥ずかしくなったらしく、頬を染めてプイとあっちを向いた。
そんな君に、僕の心は一瞬で奪われたんだ。
***
夜の森を抜けた。木立は少しまばらになって、昨日よりも丸くなった月が葉の隙間に見えては隠れた。この辺りには広葉樹が多くて、だから並んで歩く僕らの足は時折、落ち始めの枯れ葉を踏んだ。その乾いた音は、季節が変わりつつあることを僕らに教えた。
また僕らの足元で音がした。月は辺りを照らしたから、落ち葉を避けて歩くことはたやすかった。けれども僕らは僕らの歩みを変えなかった。踏まれた落ち葉は細かく砕けて、小さな絶望に似た音で果てた。僕はその音を君に聞かせたかった。そして君はそれを拒まなかった。そして僕も、君が多分わざと立てている足元の小さな叫び声を拒まなかった。
しっかりと手を繋いだまま、月を背にして僕らは歩いた。
****
僕らの影法師はやがて、僕らの左に回り込んだ。いつか僕らは湖のそばを歩いていた。それでようやく僕は、君がわざと遠回りしたことに気づいた。
「見て」
僕らは立ち止まり、君が指差す彼方を見た。湖はざわめきを忘れて、ただ彼女の指差す彼方にだけ、月の光がちらちらと輝いていた。それを見て僕は一瞬、思い出してしまった。
(夏の光、その強さと熱さ)
(水しぶき)
(ひやりとした水中の)
(その中にゆらめく、君の肌の白)
(笑い声)
(僕と、君の)
でもその思い出に色はなく、まるで遠い山の向こうからの音のようで、おぼろげな響きだけが僕に届いたのだ。
夜の湖はただ広かった。対岸は月の光の下に伏して、黒々と黙っていた。しかしそのどこかには、いくつかの注ぎ込む流れがあり、それを辿って遡れば、源流である、名状しがたい神々の眠る青白き山脈までゆけるに違いない。
(いっそ、そこまで行ってしまえ。そしたらきっと)
僕は君の手をきつく握った。君が僕を見た。その瞳の深い青。それは僕の刹那の表情を見て、むしろ身を引くように翳った。反射的に僕は君を抱きしめようとした。僕は僕の思いついた蛮勇が本物であることを君に示したかった。けれども君は。
「だめ」
ああ、いくら眺めても飽きなかった、君のたおやかな手。それが今は僕を阻む。
その手は思いのほか力強くて、押し返されて思わずたたらを踏んだ僕は、君の意志の強さと僕の弱さを知って衝撃を受けた。そして君もまた、僕を拒絶してしまった自分自身に傷ついているのがわかった。
激情がほとばしり、僕は叫んでしまう。僕らの未来、それを決める権利は僕らにしかないはずだ。
だけど、そんな風に詰めよる僕に君は、僕らが結局超えられなかった壁を、もう一度思い出させる。
「だって、あなたは猿人だから」
僕の醜く曲がった体、筋肉質でごつごつとした手足、毛むくじゃらの顔。
僕はぽろぽろと涙をこぼす。
ああ、僕は結局、野原を駆ける君のしなやかな後ろ姿に追いつくことはできなかった。こんな絶望が訪れるのなら、いっそあの嵐の日に、船と一緒に海の底深くに沈んでしまえばよかった。
***
けれども僕らはわかっていたのだ。想いならとうの昔に断ち切られていた。僕のこの激情はただ、熾火が最後の瞬間に激しくゆらめくのと同じだということを。
だけど僕は君の友愛を決して疑わない。君は僕に、名残を全て灰にさせて、この世界を諦める決別をつけさせてくれたのだ。そう、今、おとぎ話の環は閉じた。そして僕に対して、もう二度と開かれることはない。
だけど、もう少しだけ、悲しませてくれないか。
月が少し傾き、
肩に回された君の手はどこまでも温かで、
並んで歩く僕らは、やがて湖のほとりを離れた。
***
浜辺で長たちが僕らを待っていた。未明の海は満潮に近く、いく本も掲げられた松明の火は海風に揺れた。長たちの影は砂の上で長く短く動いた。けれども並び立つ姿はどれも厳しく、揺るぎもしなかった。
だけど彼らは、遅れた僕らを咎めなかった。
(別れの時をくれたのだ)
僕は黙って頭を下げた。長たちの表情は少し柔らかくなった。
それが合図になった。君の温もりが急に離れて、はっとした僕が振り返るのも待たず、君は身を翻すと、今出てきたばかりの森の道へと駆け戻っていった。それはあんまり素早くて、僕は君の最後の表情を見ることができなかった。ただ、そのしなやかで白い姿が、震えるようにして暗い木立の中に消えるのを、どうしようもなく見守るだけだった。
僕は向き直った。それから並ぶ長たちの中にゆっくりと歩き入っていった。海はまだ暗く、波音ばかり繰り返した。砂は僕の歩みを覚束なくさせて、僕の影を一層貧相に揺らした。僕は見た。並ぶ長たちの、天を衝くようにそびえる騎馬武者のような出で立ちを。その姿は、今この時になってもなお僕を打ちのめす。
彼らの荘厳さ。そして猿人である僕の、醜さ、みすぼらしさ。
彼らは何も言わない。そして僕は、僕がこれからすべき事を知っている。もはや粛々と歩み寄るしかない。
それは、長たちの囲む只中にあって、打ち寄せる波を受けて揺れている。
僕の作った、手漕ぎの小舟。これで僕は、自分の世界に戻るのだ。
長たちの無言の声が僕の心を揺らす。そしてそれは再び、僕の目を濡らしたのだ。
・・・おおオデオン 我らは決して お前のことを嫌ってはいなかった
・・・我らを見るお前の目 そこに一点の曇りも無きこと 我らは知っていたのだ
・・・お前からの信は我らに心地よく お前からの愛は我らに有益であった
・・・お前と交わした杯 その無上の味わいを 我らは心から楽しんだのだ
・・・だがオデオン お前は我らと共に生きることあたわぬ
・・・我らは決して 猿人とは交わらぬ
・・・我らは決して 猿人とは交わらぬ
・・・我らを忘れよオデオン そしてお前の世界へと帰れ
・・・しかしオデオン お前と交わした杯の味 我らは決して忘れぬよ
長たちはそれぞれの胸の前で両の腕を重ねるようにした。それは彼らの誇りを示したもので、僕もそれにならって腕を重ねた。
彼らが教えてくれた、誇り高く生きること。元の世界に戻ってからも、僕はそれを守っていきたいと思う。
僕はそれから頭を下げた。猿人である僕の、猿人としての矜持。長たちも返礼をくれた。だから僕はもう、何も言うことができなかった。
***
小舟を出した。まだ海は暗くて、だけど満ちていた潮は今や引き始めていた。浜の松明は次第に遠くなり、それでも、なお動かずそこにあった。オールを漕ぎながら僕は、いつまでもいつまでもそれを見ていた。
それでも、月明かりに見えるオールを握る手が、僕の心を痛めた。僕が猿人でなければ。そんな思いは、彼らとの別れとともに消えてくれるわけではなかった。
首を回して、僕は進路を確かめた。湾の入り口の方、はるか先に小さな白い灯りが見えた。それは僕を迎えにきた船の灯りで、それを見て僕は、少しもほっとしなかったと言ったら嘘になる。
(もう環は閉じたのだ)
僕は灯りのある方にゆっくりと小舟を進めた。
***
救護船の彼女は僕を抱きしめてちょっと泣いて、それから僕の髭面を見て泣き笑いになった。
「なんでもっと早くビーコン(救助要請通信)を鳴らさなかったの? あなたが死んじゃったって思い始めてたんだから」
(猿人、猿人)
僕はその感情を彼女に見せないよう必死になった。幸い彼女は僕の硬い表情を疲れのためだと受け止めてくれた。
「・・・でも良かったわね、彼らのコミュニティーに受け入れてもらえて」
・・・彼らは決して私たちと交流しようとしないからね。
・・・とにかく、まずは早くうちに帰ろう?
・・・戻ったらゆっくり、彼らの暮らしについて話を聞かせてね。
そう言うと彼女は操縦席に戻った。そうしてすぐに船の底の方からエンジンが回り始める音が聞こえてきた。
僕はマップで現在地を確かめると、キャビンのソファーに深く身を横たえた。未明の海は凪いでいる。WIG(地面効果翼機)でもあるこの船だから、数時間もあれば一般航路に戻れるに違いない。僕らの世界の、僕らの日常に。
船は徐々にスピードを上げ、すぐに湾を抱くようにして伸びる岬に近づいた。
「あっ見て見て、ほら、岬の上」
ぼんやりとしていた僕は、彼女のはしゃいだ声にはっとした。それから跳ね起きると、キャビンの扉を体当たりするように開けてデッキに出た。
「・・・なんて綺麗なの、信じられない、初めて見たけど、うっとりしちゃう」
そう呟く彼女の声が背中越しに聞こえた。
僕は見た。今や夜は明けて、朝日が岬の先端に立つ君を白く輝かせた。
僕は君の名を叫ぶと、夢中で手を振った。
ああ、僕が愛した君は、確かにそこにいた。
美しい馬人が、泣きはらした顔で、いつまでも僕を見ていた。
(終)




