6話 彼氏の許嫁の縁談をぶち壊しに乗り込んで、彼の顎を掴んでキスをして私のものだと宣言した件
麗子さんから連絡が来たのは、火曜日の昼過ぎだった。
「今週末、少し時間をもらえる?悠さんに話したいことがあって」
颯には知らせなくていいと、それだけ付け加えられていた。
理由は分からないまま、私は一人で黒崎家に向かった。
通された和室に、九条薫子さんがいた。
薫子さんは私を見た瞬間、すっと立ち上がった。
そのまま真っ直ぐ近づいてきて、私の手を両手で包んだ。
「先生」
目が、輝いていた。
「麗子さんに教えていただいて。ずっとお会いしたかったんです」
麗子が後ろで満足そうにお茶を注いでいた。
それから二時間、私たちは話した。
薫子さんがいつ作品に出会ったか、どの話が好きか、次はどんな展開を期待しているか。
薫子さんはお嬢様らしい丁寧な言葉遣いのまま、でも目だけがずっと子どものように輝いていた。
その日は、それだけで帰った。
翌週、薫子さんから連絡が来た。
「よろしければ、また会っていただけませんか」
二人で出かけた。駅前の小さなカフェに入ると、薫子さんは入り口で少し足を止めた。
「こういうお店、入ったことがなくて」
「怖くないですよ」
薫子さんは少し迷ってから、中に入った。メニューを開いて、また止まった。
パンケーキもクリームソーダも、知らないわけではないだろう。
でも自分で選んだことがないのだと、すぐに分かった。
「これ、おいしいですよ」と私が指さすと、薫子さんはそれを頼んだ。
運ばれてきたクリームソーダを、じっと見つめた。それから一口飲んで、嬉しそうに笑った。
それから、何度か会った。
商店街を歩いて、薫子さんが一度も入ったことのない定食屋で昼を食べて、私が好きな古本屋を冷やかした。
薫子さんはそのたびに目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
どこに行っても、何を食べても、同じ顔をした。
ある日の帰り道、並んで歩いていると薫子さんが少し声を落とした。
「あの、先生。少し、相談があって」
薫子さんは前を向いたまま話した。
今週末、ホテルで田中家のご子息との顔合わせの場が設けられていること。
父が決めたことで、自分には断る手立てがないこと。
話し終えてから、薫子さんは立ち止まって、私を見た。
「行きたくないんです。自分で、そう思っています」
以前の薫子さんなら、言えなかった言葉だと思った。
「助けていただけますか」
私は少し考えてから、口を開いた。
「麗子さんに知らせた方がいいと思うんですが」
薫子さんは一瞬だけ目を伏せて、それからうなずいた。
翌日、黒崎家から颯に連絡が入った。父親からの呼び出しだった。
麗子が話を通したのだと、すぐに分かった。
二人で黒崎家に向かうと、父親が広間で待っていた。麗子の姿はなかった。
父親は私たちを見て、穏やかに笑った。
「まあ、座りなさい」
お茶が運ばれてから、父親が口を開いた。
「九条家のことだが」
颯の表情が、わずかに変わった。
「田中家という家が九条家に近づいている。田中の息子が薫子さんとの縁談を望んでいるようだ。九条家も事業の立て直しのために乗り気でな」
「田中家」と颯が繰り返した。
「颯は知っているかね、田中誠司という男を」
一瞬、心臓が跳ねた。颯が私を見た。私はうなずいた。
「知っています」と私は言った。「前の会社で、一緒だった人間でしょうか」
父親は私を見て、静かにうなずいた。
「薫子さんが困っている。麗子も動くつもりでいるが……颯、お前はどうする」
颯はしばらく黙っていた。
「行きます」
父親はうなずいた。それから私を見て、にっこりと笑った。
「悠さんも、よろしくお願いしますよ」
週末、三人でホテルに向かった。
会場は広間だった。すでに九条のご両親と田中が揃っていた。
田中はスーツ姿で、愛想のいい顔をしていた。前に会ったときと何も変わっていない。
薫子さんが私たちの顔を見て、小さく息を吐いた。
麗子が九条のご両親の前に立った。
「九条家のご両親、少しよろしいかしら。黒崎家との縁談を再開していただくようお願いしておきながら、田中家との縁談も進めているというのは、どういうことかしら」
九条の父親が顔色を変えた。
「それは、薫子の幸せを思って——」
「薫子さんの意思は確認されましたか」
一言で封じた。九条の父親が口を開くたびに、麗子が静かに、でも確実に返していった。
苦しい言い訳が続いた。
颯はその横で、腕を組んで不機嫌そうに見ていた。
「薫子さん、まあそんな顔しないで。どうせ一緒になるんだから」
田中が手を伸ばした。
薫子さんの体が、静かに動いた。
次の瞬間、田中の体が宙を舞った。
音を立てて、田中が床に倒れた。
薫子さんは袖を直しながら、静かに言った。
「お断りします」
床の上で田中がこちらを見た。そのまま視線が私に止まった。
「……お前、なんでここにいるんだ」
九条のご両親も気づいた。
「あなたは、どちら様で」
颯が前に出た。私の一歩前に立った。
「この人は——」
「私が答えます」
私は颯の前に出た。
「私は颯の恋人です」
田中が床の上で鼻を鳴らした。
「お前如きが何を言って——」
私は颯の顎に手をかけて、手前に引き寄せた。颯の目が、わずかに見開かれた。
ゆっくりと、自分から、唇を重ねた。
颯の息が、一瞬だけ止まった。それから、そっと引き寄せられた。
広間の空気が、止まった。
どのくらいそうしていたか、分からない。顔を離してから、九条のご両親を見た。
「颯は私が予約済みです、縁談はご遠慮いただけますか」
沈黙が落ちた。
床の上の田中が、呆然とこちらを見ていた。
薫子さんの目が、きらきらと輝いていた。
麗子が小さく咳払いをして、それからにっこりと笑った。
私は颯の手を取った、当たり前のように。繋いだ手を、颯が少し強く握った。
そのまま、広間を後にした。
ホテルを出て、しばらく歩いてから颯が口を開いた。
「予約済み、とは」
「言葉の通りです」
颯はしばらく前を向いたまま黙っていた。
「……それは俺から言う言葉だ」
「先に言った者勝ちです」
颯は、小さく笑った。
それを見て、私も笑った。
夜風が緩く通り過ぎた。二人の間に、静かで温かい空気が流れていた。




