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三年間手柄を横取りされ続けた私が転職したら、怖い先輩が私の代わりに激怒して溺愛してきた件シリーズ  作者: makubes
第二章 今度は悠の番

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4話 彼氏に許嫁がいたと知って怒ったら、落ち込む彼の頭を私が撫でることになった件

 その日、私が受付に座っていたのはただの偶然だった。

 休憩中の担当者の代わりを頼まれて、不慣れな椅子に収まって十分も経たないうちに、その人は現れた。


 まるで別の時代から迷い込んできたようだった。淡い若草色の着物に、白い帯。

 エントランスの自動ドアをくぐるには場違いすぎる格好なのに、周囲の視線を集めながらも本人はまったく気にしていないようだった。


 乱れることのない所作、伏し目がちな瞳。

 綺麗な人だな、と私は思った。


 その人は真っ直ぐ受付に向かってきた。


「あの、少しよろしいでしょうか」


 声まで整っていた。私は思わず背筋を正す。


「黒崎颯さんのことをお伺いしたくて。こちらにいらっしゃると聞いたのですが」


 その名前が出た瞬間、私の中で何かがざわりと動いた。


「黒崎の、知り合いですか」


「はい。九条薫子と申します。黒崎とは、幼い頃から」


 にっこりと笑う。悪意のかけらもない、透き通った笑顔だった。

 だからこそ、胸の奥がじわりと痛んだ。幼い頃から。


 その言葉が、頭の中で反響する。

 私は黒崎と付き合って八ヶ月になる。

 でもこの人のことは、一度も聞いたことがなかった。


 黒崎を呼んできます、と伝えて、私は足早にその場を離れた。

 廊下を歩きながら、さっきの笑顔が頭から離れなかった。


 綺麗だった。浮世離れしていて、触れたら壊れそうなのに、どこか芯のある佇まいだった。

 幼い頃から、という言葉の重さを、私はうまく処理できないまま営業部のフロアに戻った。


 颯の姿を探す。いつもの場所、窓際のデスクで書類を確認していた彼は、私の顔を見た瞬間に眉をわずかに寄せた。


「どうした」


「あの、ロビーにお客様が。九条薫子さん、という方が黒崎に会いたいと」


 一拍だった。颯の表情が、ほんの少しだけ固まった。

 それだけで私には十分だった。この人が何かを知っている、と。


「わかった」


 それだけ言って、颯は立ち上がった。私に何も説明しないまま。

 いつものことだと思おうとした。この人はいつもそうだ。

 全部自分の中で処理して、必要なことだけを伝える。


 それが黒崎颯という人間だと、八ヶ月かけて分かってきたつもりだった。

 でも今日は、いつも通りにはなれなかった。

 幼い頃から、という言葉が、ずっと胸に刺さったままだった。


 あの綺麗な人と、颯の間にある時間の長さを、私は何も知らない。

 それがひどく、落ち着かなかった。



 黒崎から話を聞いたのは、その日の夕方だった。

 会議室に二人で残って、颯は珍しく言葉を選ぶように黙った後、口を開いた。


「九条家とは、昔から付き合いがある。うちは……まあ、そういう家だ」


 そういう家、という言葉を、颯は静かに使った。

 黒崎の実家が名家であることは知っていた。

 でも颯はそのことをほとんど話さなかったし、私も深く聞いたことがなかった。


「九条とは、子どもの頃から何度も会っていた。両家の間で、将来的な話が出ていたのは事実だ」


「将来的な話、というのは」


「婚約だ」


 颯はまっすぐ私を見て言った。目を逸らさなかった。

 それがこの人の誠実さだと分かっていても、胸がきつく締まった。


「五年前に、完全に消えた話だ。九条家の当主と父の間で一度決着がついた。だから俺はもう存在しないものとして扱っていた」


「なぜ今」


「九条家が事業に失敗した。焦っているんだろう。うちとの縁を復活させれば、立て直しの足がかりになると思っている」


 淡々とした説明だった。颯にとってはそれだけのことなのかもしれない。

 でも私には、その言葉の一つひとつが重かった。


 幼い頃から決まっていた相手。家同士の力学。

 そういうものの中で生きてきた颯のことを、私はどれだけ知っているのだろう。


「言っていなかったのは、終わった話だと思っていたからだ。お前を巻き込むつもりはない」


 巻き込むつもりはない。

 その言葉で、何かが弾けた。


「颯」


 颯が目を細める。私は続けた。


「怒っていいですか」


「……どうぞ」


「私を巻き込むつもりはない、って言いましたよね。私はあなたの彼女です。巻き込まれる権利くらいあると思うんですけど」


「……」


「ひとりで全部抱えようとするの、やめてください。私がいる意味がないじゃないですか」


 颯は何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ視線を落とした。

 それがこの人なりの、応答だということは分かっていた。


 建物の裏手に、小さなベンチがある。

 煙草を吸う人が使うような場所で、この時間はいつも誰もいない。

 私はそこに腰を下ろして、颯に声をかけた。


「颯、おいで」


 颯は一拍置いてから、隣に座った。いつもより静かな横顔だった。

 私は少し躊躇ってから、口を開いた。


「……膝、貸しましょうか」


 颯はこちらを見た。何を言われたのか測るような、短い沈黙だった。


「いい」


「強がらなくていいですよ」


「強がっていない」


「颯」


 私が名前を呼んだだけで、颯は小さく息を吐いた。それからゆっくりと、観念したように身を傾けた。

 私の膝に、重さが落ちてくる。

 颯はしばらく天を向くように空を見ていた。視線の置き場を探しているみたいだった。


「慣れてないんですね、こういうの」


「……うるさい」


 私は少し笑って、颯の髪にそっと触れた。固まった。でも、逃げなかった。

 ゆっくりと手を動かす。ただそこにいるということを、それだけを伝えるように。


「私がいるから、大丈夫ですよ」


 颯は、小さく笑った。

 やがて颯は、ゆっくりと息を吐いた。


「面倒な家に生まれたと思ってきた」


 ぽつりと、独り言のような声だった。私は手を止めずに、続きを待った。


「だが今は、そうでもない」


「どうして」


「お前がいるから」


 颯はこちらを見なかった。視線は夕暮れの空の端に向いていて、それでもその横顔は、いつもより少しだけ柔らかかった。

 私の胸が、静かにあたたかくなる。


「良い子ね、颯」


「……子ども扱いするな」


 低い声だったが、目を閉じた。抵抗する気はないらしかった。

 私はもう一度だけ、その髪をそっと撫でた。颯はもう、固まらなかった。


 颯はもう一度、小さく笑った。

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