3話 三年間私の仕事を奪い続けた元課長が取引先の席に現れたら、怖い先輩が版管理データを取り出して黙らせた上に泣いた私にキスしてきた件
以前3話に分けて投稿していた「黒崎と篠原」シリーズを、一作にまとめました。
連絡が来たのは、金曜の昼だった。
差出人を見た瞬間、悠の指が止まった。
蛭田 克典。前の会社の課長。
開けなければよかったと思いながら、開けた。
内容は短かった。
「今度、取引先との会食でクロスロードの方もいると聞きました。久しぶりにご挨拶できれば」。
なんでもない文面だった。でも悠には、その文面の意味が分かった。
「俺のことを知っているお前が同席するなら、話を合わせてくれ」。そういうことだ。
三年間で覚えた読み方だった。
悠は一分ほどメールを見つめて、それから閉じた。
来週月曜の会食は、もともと決まっていた案件だった。
クロスロードが半年かけて進めていた大型案件の、最終確認を兼ねた食事の場。
向こうの担当者は悠が最初にアポを取って、提案書を作って、三度打ち合わせをした相手だった。
そこに蛭田が「同席する」と言っている。
彼がどんな立場でそこに来るのか、悠には想像がついた。
前の会社も同じ業界だ。向こうの担当者と接点を作って、実績を「共有」しようとしている。
自分がいかにこの案件に関わってきたかを語る気だろう。
悠がいれば、誰も否定しない。悠が黙っていれば、そういうことになる。
三年間、ずっとそうだった。
その週、黒崎は出張が続いていて、会食の前日まで戻らなかった。
戻ってきた金曜の夕方、悠は会議室で一人、月曜の資料を見直していた。
集中できていないのはわかっていた。ページを繰るたびに、蛭田の顔が浮かんだ。
ドアが開いた。
「戻ったぞ」
黒崎だった。出張鞄を片手に、いつもの顔で立っている。
「お帰りなさい」
「何かあったか」
悠は一瞬だけ迷った。
「……来週の会食、相手方に前の会社の人間が同席するらしくて」
「誰だ」
「課長、でした。今は前の会社を辞めて、コンサルで独立してるみたいです」
黒崎の顔が変わった。声には出さなかったが、目が変わった。
「蛭田克典か」
悠は驚いた。
「……なんで名前を」
「前に少し調べた」
何の説明もなく、それだけ言った。黒崎は鞄を置いて、悠の隣の席に座った。
「来週、俺も出る」
「黒崎さんはもとからメンバーに入ってないですよね」
「入れてもらう。問題ない」
有無を言わせない言い方だった。悠は何か返そうとして、やめた。
月曜の夜、会食は都内のレストランで始まった。
相手方の担当者は三人。そこに、蛭田が「業界の知人」という立場でいた。
久しぶりに見た蛭田は、痩せていて、目が少し血走っていた。
スーツだけが以前より高くなっていた。悠と目が合うと、「やあ」と片手を上げた。
馴れ馴れしい、いつもの笑顔だった。
悠は「お久しぶりです」とだけ言った。
黒崎は何も言わなかった。
料理が進むにつれて、蛭田は話し始めた。
相手方の担当者に向かって、「実は篠原さんとは前の会社で一緒でして」
「この案件、初期の段階から私も関わっていたんですよ」
「あの提案書は、若い子たちと一緒に作り込んだんです」。
「若い子たち」というのが、悠のことだとわかった。
相手方の担当者が「そうなんですか」と頷いた。蛭田が笑った。悠はグラスを持ったまま、動かなかった。
黒崎が口を開いた。
「その提案書」と静かな声で言った。「版管理データ、こちらにあるんですが」
蛭田の笑顔が、一拍ずれた。
「篠原が転職時に引き継ぎ資料として提出したものが原本で、作成者名と更新履歴が全件残っています。篠原の名前しかない」
テーブルが静かになった。
「あの提案書に関して、蛭田さんが何かお手伝いされた記録があれば、確認できますが」
蛭田は笑顔を保とうとしていた。でも保てていなかった。
「……いや、直接の作成はもちろん篠原くんがやってくれてたんですが、方向性は私が」
「方向性の話は結構です」黒崎の声は穏やかなまま続いた。
「初期の段階から関わっていたとおっしゃったので、具体的に何をされたか確認しているだけです」
相手方の担当者が、蛭田から黒崎に視線を移した。蛭田は口を開いて、閉じた。
それきり、蛭田は黙った。
会食が終わって、外に出た。
相手方は先に車に乗った。蛭田は悠に一度目を向けて、それから何も言わずに立ち去った。
夜の道に二人だけ残った。
悠はしばらく黙っていた。
「……版管理データ、本当にあったんですか」
「ある」
「どうして」
「お前の仕事だから」
それだけだった。それ以上の説明をするつもりがない、という言い方だった。
悠は前を向いたまま、目の端が熱くなった。こらえようとしたが、こらえきれなかった。
「泣いてるのか」
「違います」
「顔を見ろ」
振り返れなかった。振り返ったら、泣いていることがばれる。
ばれた。
黒崎が悠の顎を片手で持ち上げて、顔を向けさせた。乱暴ではなかった。ただ、有無を言わさなかった。
目が合った。
黒崎は悠の顔を見て、何かを言おうとして、止まった。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「お前は三年間、ちゃんとやってた」
低く、静かな声だった。
「誰も言わなかったなら俺が言う。お前の仕事は本物だった」
悠の目から、涙がこぼれた。
黒崎は目を細めた。しばらく悠の顔を見ていた。それから、ゆっくりと顔を近づけた。
悠は目を閉じた。
口が触れた。
長くはなかった。でも、離れなかった。
黒崎が額を悠の額に当てて、低く言った。
「帰るぞ」
悠は目を開けて、頷いた。
「はい」
夜風が通り過ぎた。黒崎の手が、悠の手に重なった。自然なように、当たり前のように。
颯と悠は歩き出した。




