2話 前の会社の同期が現れて私の過去を踏み荒らそうとしたら、怖い先輩が無言で隣に立って全部ひっくり返した件
以前3話に分けて投稿していた「黒崎と篠原」シリーズを、一作にまとめました。
クロスロードに来て、三ヶ月が経った。
篠原悠は、ようやく自分の席がここにあると思えるようになっていた。
提案書を出せば「篠原案」として扱われる。深夜まで作り直した数字は、そのまま資料に残る。
ミスをすれば自分の名前でフォローし、結果を出せば自分の名前で評価される。
ただそれだけのことが、前の会社では三年間なかった。
チームリーダーの黒崎颯は相変わらず口数が少なく、必要なこと以外はあまりしゃべらない。
それでも昼食を一緒に取ることが増えていたし、悠が残業していると何も言わずにコーヒーを置いていくことも、なんとなく習慣になっていた。
距離が縮まっているのか、これが黒崎の平常運転なのか、悠にはまだよくわからなかった。
その日の昼、悠は一人でビルの一階ロビーを歩いていた。
黒崎は午前中から外出していて、今日の昼は別々だった。
コンビニで適当に済ませようと思っていたところで、声をかけられた。
「あれ、篠原さんじゃん」
振り返った瞬間、胃が重くなった。
田中だった。
前の会社の同期。縁故採用で入ってきて、悠が半年かけて作ったプレゼン資料を「経験を積ませたい」という理由で横から引き継ぎ、評価も報酬もそのまま持っていった男。
「久しぶりー。こっちのビル、得意先あってさ」
田中は気まずそうな顔一つせず、スーツのポケットに手を入れてにこにこしていた。
「……うん、久しぶり」
逃げるわけにもいかず、悠は当たり障りなく返した。
「転職したんだ? でもまあ、あの会社じゃ篠原さんには限界あったよねー。コミュ力とか、お客さんへの見せ方とか」
あっさりした口調だった。悪意があるのかどうかもわからない。
ただ、言葉のひとつひとつが、じわじわと古傷の上に乗ってくる感じがした。
「俺さ、あのプレゼン評価されてさ。先月昇進したんだよね」
「……そう」
「篠原さんが作った土台があったからだと思うけど」
フォローのつもりなのだろう、という顔をしていた。
ありがとうと言うべきなのか、それとも笑っておくべきなのか。
悠が言葉を探していると、後ろから足音がした。
「篠原」
低い声だった。
振り返ると、黒崎が立っていた。外回りから戻ってきたのか、ジャケットのボタンをまだ留めたままで、悠と田中を交互に見ていた。
「……知り合いか」
「前の会社の同期で」
「田中です」と田中が愛想よく手を差し出した。
「篠原さんとは同期で。お世話になりました」
黒崎は手を取らなかった。
握手を無視されても、田中はさほど気にした様子もなく、「えーと、黒崎さんはどういう関係ですか?」と続けた。
「同じチーム」
「へえ、篠原さんって今どんなお仕事してるんですか? あの会社にいたころって、ちょっと地味な仕事ばっかりだったじゃないですか。企画とか、裏方とか」
田中は悠に話しかけているようで、どこか黒崎に向けて言っているようだった。
悠は答えようとしたが、先に声が出た。
「裏方」と黒崎が繰り返した。
「お前が発表したプレゼン、誰が作ったと思ってるんだ」
田中の表情が、少し固まった。
「いや、それは……一緒に作ったというか——」
「篠原が半年かけて作って、お前が名前だけ借りた、だろ」
静かな声だった。怒鳴っているわけでも、詰め寄っているわけでもない。
ただ事実を確認するような、それでいて一切の余地を与えない言い方だった。
「……そういう言い方はどうかと思いますけど」
「どういう言い方が正しい」
田中は口を開いたが、何も言えなかった。
黒崎は三秒ほど田中を見てから、悠の方に向いた。
「行くぞ」
それだけ言って、先に歩き出した。
ビルを出て、いつもの定食屋に入るまで、二人とも何もしゃべらなかった。
席に着いて、お茶が来て、注文を終えてから、悠はようやく口を開いた。
「……ありがとうございました」
「謝るな」
「謝ってないです、お礼を言っただけで」
「お礼もいい」
黒崎はメニューを戻しながら、少しだけ眉を寄せた。
「お前が礼を言う話じゃない」
悠は何も言えなかった。
田中に会ったとき、最初に思ったのは「うまく切り上げなきゃ」だった。
感情より先に、波風を立てないことを考えていた。三年間、そうやってきたから。
黒崎は怒った。悠の代わりに。
「……黒崎さんって」と悠は言いかけて、止まった。
「何だ」
「いつもそうですよね。私の話を、私より怒る」
黒崎は少しの間、黙っていた。
窓の外に目をやって、それからまた悠を見た。
「当たり前だろ」
「……当たり前じゃないと思います、普通は」
「俺の話をしてる」
それだけ言って、黒崎は運ばれてきた定食に箸をつけた。
悠はしばらく自分の皿を見てから、同じように箸を取った。
胸の奥の、どこか古くなった部分が、静かにほぐれていくような感じがした。
帰り道、エレベーターを待っていると、黒崎が不意に言った。
「今夜、時間あるか」
悠は少し驚いて横を見た。
「……急にどうしたんですか」
「飲みに行く。お前が嫌なら別にいい」
「嫌じゃないですけど」
「じゃあ行くぞ」
黒崎は一度だけ悠を見て、それから視線をエレベーターの扉に戻した。
腕を組んで、また外した。口元は動いていないのに、どこかいつもより表情が柔らかかった。
エレベーターが来た。二人で乗り込んで、扉が閉まった。
悠はなんとなく前を向いた。嬉しいのか、と気づいたのはその後だった。黒崎が。
連れて行かれたのは、会社から三分ほど歩いた小さな居酒屋だった。
カウンターだけの店で、黒崎は迷わず奥の席に座った。常連らしかった。
生ビールが来て、二人で乾杯した。たったそれだけのことが、なんとなく非日常だった。
黒崎は最初の一杯を半分ほど飲んだところで、少し黙った。
「……飲めるんですか」
「弱い」
あっさり言った。
「じゃあなんでビールを」
「雰囲気だ」
悠は思わず笑った。黒崎は気にした様子もなく、グラスをカウンターに戻した。
二杯目を頼まなかったので、弱いというのは本当らしかった。
それでも頬がわずかに赤くなっていて、目の焦点もいつもより柔らかくなっていた。
「……今日の田中って奴」と黒崎が言った。
「ああいう奴、前の会社にいくらでもいたんだろ」
「まあ、そうですね」
「三年間か」
「三年間です」
黒崎はしばらく黙って、カウンターの木目を見ていた。
「心配だ」とつぶやいた。
「……何がですか」
「お前が」
悠は言葉に詰まった。
黒崎はこちらを見ないまま続けた。
「こんなことは今までなかったから、よくわからない」
「……何が、よくわからないんですか」
「誰かのことをここまで気にするのが」
静かな声だった。酔っているせいか、いつもより少しだけ言葉が素直だった。
「悠」
名前を呼ばれた。苗字ではなく、名前で。
「何かあったら、頼ってくれ」
悠はしばらく返事ができなかった。
頼ることに慣れていなかった。
三年間、誰かを頼るよりも先に諦めることを覚えてしまっていたから。
「……黒崎さん」
「何だ」
「頼ってもいいんだ」
自分でも気づかないうちに、ふっと力が抜けたように笑っていた。
黒崎は一瞬だけ目を丸くして、それからそっぽを向いた。
「……当たり前だろ」
二人だけの柔らかい沈黙が、居酒屋の喧騒とは別の世界を作っていた。




