1話 三年間手柄を横取りされ続けた私が会社を辞めたら、転職先の怖い先輩が私の代わりに激怒して溺愛してきた件
以前3話に分けて投稿していた「黒崎と篠原」シリーズを、一作にまとめました。
篠原悠が前の会社を辞めたのは、「もう限界です」と泣きながら訴えたからでも、「私の仕事を返せ」と叫んだからでもなかった。
ただ、課長に呼ばれて「今回の件、後輩の田中くんへの引き継ぎが不十分だったね」と言われたとき、何も感じなかったからだ。
怒りも、悔しさも、驚きも。
何も出てこなかった。
その「田中くん」が先週の役員プレゼンで発表した資料は、悠が半年かけて作ったものだった。
悠が取ったアポで、悠が足を運んで集めたデータで、悠が三回作り直した企画書だった。
でも最後のプレゼンだけ「田中くんに経験を積ませたい」という理由で差し替えられて、評価も報酬も全部田中のものになった。
田中が役員の縁故採用だと、悠はずっと後になってから知った。
それが初めてではなかった。
入社一年目。初めて単独でまとめた新規顧客向けの提案書は、「まだ若いから名前を出すと先方が不安がる」という理由で課長名義で提出された。受注した。悠の名前はどこにもなかった。
二年目。残業百時間超えで仕上げたキャンペーン企画は、「細かい修正は俺がやっておいたから」という一言で課長の実績になった。修正の跡は一行もなかった。
三年目。クライアントから直接「篠原さんのおかげです」と感謝メールが届いたとき、課長はそのメールをチーム全体に転送して「みんなのおかげだよね」と締めた。
そして今回だった。
辞表を出した日、課長は困ったように笑って「君には地道な仕事が向いてると思ってたんだけどね」と言った。
最後まで自分の仕事じゃないみたいに上手く言う人だと、悠はぼんやり思った。
コンサルティング会社「クロスロード」の初日、悠は壁際の席に案内された。
「篠原さん? 黒崎です、よろしく」
長身の男が手を差し伸べていた。黒崎颯。整った顔に、射るような目つき。
第一印象は「面倒くさそう」だった。
二週間後、悠が出した企画書が役員会で通った。
メールに「篠原案、全会一致で承認」と書いてあった。自分の名前が、そのまま書いてあった。
それだけのことが、妙に落ち着かなかった。
間違えてないか確認したくなるくらい、見慣れない光景だった。
「前の会社でもこういうの作ってたのか」
帰り際、黒崎が横に並んできた。
「……似たようなのは、作ってました」
「なんで辞めたんだ」
直球すぎる聞き方が少し可笑しくて、悠は気づいたら話していた。
最初は短くまとめるつもりだった。でも黒崎が黙って聞いているうちに、するすると出てきてしまった。
一年目のこと、二年目のこと、田中くんのプレゼンのこと、「地道な仕事が向いてる」という最後の言葉のこと。
「……まあ、よくある話だと思うんですけど」
悠がそう締めくくったとき、隣が静かになった。
黒崎の顔を見て、悠は少し驚いた。
笑っていない。笑うどころか、見たことのない顔をしていた。
「……黒崎さん?」
「一年目から、ずっとか」
声が低かった。
「は、まあ……でも最初は私も、経験積ませてもらってると思って——」
「三年間」黒崎は前を向いたまま、噛み締めるように言った。
「三年間、全部持っていかれて、最後に『地道な仕事が向いてる』」
「そうなりますね」
「は?」
振り返った黒崎の目が、剣呑に細くなっていた。
「何が『そうなりますね』だ。お前、自分が何をされてたかわかってるか」
「……横取り、ですよね」
「横取りじゃない」低い声が、はっきりと言い切った。
「搾取だ。三年間タダ働きさせて、最後に能力まで否定した。犯罪だ。いや、犯罪で済む話じゃない」
悠は少しの間、黙った。
横取り、という言葉は自分でも使ったことがあった。でも「搾取」とは思っていなかった。
なんとなく、自分が気づかなかった、自分が主張しなかった、自分がうまくやれなかったせいだと、どこかで思っていた。
「……私が、もっとうまく立ち回ってれば」
「何で被害者がそれを言うんだ」
遮られた。
「お前が半年かけて作った資料を、縁故の人間に横から発表させて、お前の評価をゼロにした。それのどこにお前の落ち度がある」
「でも——」
「ない」
断言だった。一切の余地のない、静かな断言。
「お前は三年間、真面目にやってた。ただそれだけだ。悪いのは全部あっちだ」
悠は返せなかった。
怒ってもらったことがなかった。一度も。あの三年間、誰も怒ってくれなかった。
家族に話したら「社会なんてそんなもん」と言われた。
友人に話したら「転職すれば?」と言われた。悠自身も、いつの間にか怒ることをやめていた。
なのにこの男は、他人の三年前の話を、自分のことみたいに怒っている。
「…………なんで黒崎さんが怒ってるんですか」
気づいたら、笑っていた。
笑うつもりじゃなかった。でも、こんなに真剣に怒っている横顔が、なんだかおかしくて、あったかくて、目が少し滲んだ。
黒崎は悠の顔を見て、固まった。
笑った顔を、まじまじと見ていた。一秒か、二秒か。それからはっとしたように、まずい、と言いたげな色が一瞬だけ顔を横切った。
次の瞬間にはもう消えていて、いつもの厳しい顔に戻っていた。
それから低く言った。
「……俺が怒っていい話だろ、それは」
「なんで黒崎さんが」
「お前が俺のチームに来たからだ」
意味がわからなかった。でも黒崎は続けた。
「次に誰かがお前の仕事に手を出そうとしたら、俺がいる。覚えておけ」
三ヶ月後、悠の携帯に昔の同僚から連絡が来た。
長いメッセージだった。
悠が転職する直前、課長は次の大型プレゼンに向けて資料を作らせていた。
悠が途中まで仕上げて、そのまま退職した案件だ。
引き継ぎ資料も置いてきたが、正直なところ完成には程遠かった。
誰かがきちんと作り直すだろうと思っていた。
課長は、作り直さなかった。
プレゼン当日の朝、部長が課長を廊下に呼び出して言ったらしい。
「今日は役員も同席する。絶対に失敗は許されない」と。
課長は「もちろんです」と答えた。
その二時間後、課長は悠の作りかけの資料をそのまま役員の前で開いた。
数字は途中までしか埋まっていなかった。グラフは仮データのままだった。
結論のスライドには「※ここに締めの一文を入れる」というメモが残っていた。
役員が首を傾げた。部長の顔が青くなった。
課長は言ったらしい。「これは……前の部下が作ったものでして、引き継ぎが不十分で」
それが決定的だった。
役員のひとりが静かに言った。
「三年間あなたの実績として報告されていた資料は、その辞めた部下が作っていたということですか」
課長は答えられなかった。
その場で社内調査が決まった。掘り返してみると、課長に手柄を持っていかれていたのは悠だけではなかった。
悠が抜けてから課長の成果がぱたりと止まっていたのは、チームの誰もが薄々気づいていたことだったらしい。
同僚のメッセージの最後にはこう書いてあった。
「篠原さんのこと、ずっとおかしいと思ってたんだ。遅くなってごめん」
悠がそのメッセージを読んでいると、隣のデスクに何かがそっと置かれた。
コンビニの袋だった。缶コーヒーと、悠がいつも昼に買っているチョコレートが入っていた。
黒崎が心配そうにちらりと悠の顔を見た。
「何かあったか」
「……昔の話です。もう関係ない」
黒崎は一秒だけ悠の顔を見て、「そうか」と言った。
それからコンビニの袋を一度だけ目で示して、「冷めないうちに飲め」と言った。
オフィスの向こうで、同僚の田村が目を丸くしていた。
となりの中村が田村の袖を引いて、口だけ動かした。
——あの黒崎さんが。
そこへ、営業の坂本が近づいてきた。
「篠原さん、この前の件なんだけど——」
坂本が悠の隣に立ちかけた、その瞬間だった。
黒崎が音もなく立ち上がり、悠と坂本の間に割り込むように腰を下ろした。
椅子を引き寄せて、悠のデスクに肘をつく。坂本の存在を視界に入れることなく、悠だけを見た。
「その件、俺も聞く」
声は穏やかだった。でも坂本は一瞬で空気を読んで、「あ、じゃあ後で改めます」と退散した。
悠は黒崎を見た。
「……聞く必要ありましたか、あの話」
「なかった」
あっさりとした返答だった。黒崎は悠のデスクの上のコーヒー缶を一度だけ目で示して、「冷めないうちに飲め」と言った。
でも田村と中村がオフィスの端でこそこそしているのが見えて、悠は小さく笑った。
笑った顔を、黒崎がじっと見ていた。
鋭いような、やわらかいような、どちらとも取れない目だった。
悠がそちらを向くと、黒崎はすっと視線を画面に戻した。
悠はもう一度、小さく笑った。




