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第六片 琥珀のシチューと、ふたごの星

 宿屋の一階は、夜になるといつも冒険者たちの熱気と、すっぱい果実酒の匂いで満ちている。わたしは普段、その喧騒のなかへ自ら飛び込むようなことはせず、壁際の暗がりを縫うようにして三階の部屋へと急ぐのだけれど、採取依頼を連日でこなし、銅貨を少しだけ余分に稼いだ日には、厨房に面したカウンターの一番端っこに、そっと腰を下ろすことがある。


 そこには、この宿を切り盛りしている女将さんがいる。透き通ったガラス玉のような、すこし色素の薄い灰色の瞳をした、とても静かで美しい人だ。彼女は、わたしがどれだけ薄汚れた外套を羽織っていようと、何日も口をきかずに上の部屋に引きこもっていようと、決して余計な詮索をしてこない。ただそこにあるのが当たり前の風景のひとつのように、無駄のない手つきで、カウンターの木目を布で拭き上げている。その、干渉も拒絶もしない、ただの宿の主人と客というひどく事務的で、だからこそ凪いだ水面のような平坦な距離感。ひとりで暗い隅っこに居たいと思いながらも、ついときどき、そんな温度のある場処に滞在しようと思ってしまうわたしの矛盾。


 そして、その女将さんの足元を、ちょこちょこと行き交うちいさな影がひとつある。

 彼女の娘だ。まだ十にも満たないくらいの少女は、母親譲りの灰色の瞳をいつも金剛石みたいにきらきらとさせて、自分よりも大きなお盆を両手で抱えながら、荒くれ者たちの座るテーブルの間をひらひらと縫うように歩き回っている。


 おまちどうさま。

 春の小鳥が囀るような声と一緒に、ことり、と目の前に木製のどんぶりが置かれる。

 いつもは部屋で硬い黒パンを囓ってやり過ごすわたしだけれど、ここから立ち上る湯気の誘惑には、どうしても抗いきれないのだ。


 今日の献立は、歪な形をした根菜と、骨付きの肉をくたくたになるまで煮込んだシチューだった。

 湯気と一緒に、微かに鼻をくすぐる香草と獣の脂の匂い。それは、森の奥でひとり嗅いでいたあの冷たくて生々しい土の匂いとは違う。誰かの手が時間をかけて火の番をし、灰汁をすくい、丹念に作り出したという、ひどく穏やかで安全な生活の匂いだった。


 少女は、わたしがカウンターに銅貨を数枚置くと、はにかむように笑って、また厨房の奥へと小走りに駆けていく。わたしはその後ろ姿をほんの一瞥だけ見送り、すぐに目の前のどんぶりに視線を落とす。彼女の屈託のない笑顔は、わたしにはすこしばかり眩しすぎて、直視していると、自分の内側にある透明な虚無が、ひどく冷たくて輪郭のはっきりしたものに感じられてしまうからだ。


 木のスプーンで、とろとろになった琥珀色のスープをすくって口に運ぶ。

 熱い液体が喉の奥を通って胃の腑に落ちていくと、冷え切っていたからだの芯が、内側からじんわりと解けていくのがわかる。ほろほろと崩れる肉の旨味と、甘みを増した野菜の泥が、舌の上でゆっくりと混ざり合う。それはまるで、冷たい真空の宇宙をたったひとりで漂っていたからだに、ぽつりと落とされた、あたたかな星の欠片のようだった。


 美味しい、と思う。

 この世界の人々は、明日魔物に襲われて死ぬかもしれないし、冬の寒さであっけなく凍えるかもしれないのに、とても丁寧に食事を作る。女将さんの手が刻んだ野菜も、娘がこぼさないように一段一段運んできたこのスープの温かさも、きっとこの世界をかたちづくるかけがえのないものなのだろうなと思う。

 カウンターの向こう側で、女将さんがふわりとまなじりを下げて、戻ってきた娘の頭を優しく撫でているのが視界の端に映った。

 それは、夜の暗闇にふたつ並んで瞬く、ふたごの星のような光景。わたしが決して手に入れることのない、そして手に入れようとも思わない、他者とのあたたかく強固な結びつき。


 わたしはただ、ひとさじ、またひとさじと、無言でシチューをすくい続ける。

 彼女たちの光の輪の中に入ることはない。わたしはあくまで、この宿の三階に棲みつく、名前もよく知られない影法師のままでいい。それでも、この温かいスープがからだの隅々まで行き渡る間だけは、わたしもこの世界の、このささやかで優しい営みの端っこに、そっと触れさせてもらっているような気がしてしまう。


 どんぶりの底に残った最後の一滴まできれいに掬いとり、わたしは静かに席を立つ。

 ごちそうさまという言葉すら口に出さず、ただ女将さんに向けて軽く会釈だけをして、背を向ける。彼女もまた、言葉を返す代わりに、静かに一度だけ頷きを返してくれた。


 軋む木の階段を上り、いつもの埃っぽい部屋に入って、重い鍵をふたつ閉める。

 窓をすこしだけ開けると、そらにはつめたい夜風が満ちていて、苹果の匂いがした。遠くの塔の尖端が月光を浴びて青白く光っている。胃袋のなかにある、あのシチューの確かな重みと温もりにだけ意識を向けながら、わたしは厚い毛布にくるまる。今日の夢は、元の世界の暗い地下鉄のトンネルではなく、あたたかい湯気の向こうで回る、ちいさな灰色の瞳の幻燈かもしれない。

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