第五片 真空の槌と、静かな逃走
湿った腐葉土の匂いと、羊歯の葉の裏に隠れた小さな薬草の冷たさ。
私はそれを指先でそっと摘み取り、目の粗い麻袋に放り込む。今日は奥底の力を一切使わずに、自分の二つの足だけで森の奥まで歩いた。木漏れ日がぽつぽつと斑模様を作っていて、遠くで名も知らぬ鳥が啼いている。世界はこんなにも静かで、わたしはまるで、透明な硝子でできた箱の中にいるみたいに安らかであるように錯覚してしまう。
そのとき、木立の向こうから、びりびりと空気を引き裂くような音が聞こえてくる。
いななく馬の声。車輪が嫌な音を立てて砕ける重い響き。そして、ひどく甲高く、絶望に引き攣ったような誰かの悲鳴。
わたしはしゃがみ込んだまま、ゆっくりと、長く息を吐き出した。
見たくない。関わりたくない。このまま両耳を塞いで、息をひそめて、やり過ごしてしまえばいい。あの騒ぎが収まるまで岩陰でうずくまり、来た道をこっそりと引き返せば、夕暮れにはあの宿屋の硬いベッドの上に帰れるのに。
けれど、音のした方角へ無意識に向いてしまったわたしの視線は、木々の隙間から、その光景をすでに捉えてしまっていた。
ひっくり返った豪奢な馬車。それを囲む、四つん這いの巨大な獣たち。刃物のように尖った背びれと、飢えに血走った赤い眼球。地面にはすでに黒々とした染みが広がっていて、横倒しになった馬車の陰では、胸当てをつけた護衛らしい男が、折れた剣を構えたままがたがたと震えている。その背後には、顔を覆って泣き叫ぶ人影があった。
ああとんびや、たくさんの虫たちが、毎日どこかで殺されている。誰かが食べられ、誰かが生き残る。それはこの見知らぬ世界でも、わたしのいた世界でも同じことだ。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないなんて、そんな壮大で恐ろしい呪いを、わたしは絶対に信じない。わたしはわたしの、この半径数メートルの冷たい幸福だけを守り抜いてさえいればいい。
そう、心の中で何度も反芻したのに。
網膜に焼き付いた絶望の鳴き声が、わたしの喉の奥に、ひどくざらざらとした鉛のような苦味をせり上がらせている。
このまま背を向けて逃げ帰ったとして、わたしはきっと今日の夜、窓辺で冷めた白湯を口にするたび、あの男の絶望に満ちた瞳を思い出す。瞼を閉じるたびに、暗闇のキャンバスに有機交流電燈のひとつの青い照明のように、彼らの死に顔がちかちかと焼き付いて離れないだろう。
けっして、彼らを哀れんでいるわけじゃない。
ただ、わたしの精神の衛生を、これ以上汚染されたくない。自分の平穏な夜の眠りを守るためなら、わたしはどんな偽善でもしなければいけないのだ。
ため息をこぼすには、わたしのこころはこわばりすぎていた。魔物たちを蹂躙することはきっとできる。ただ、それを誰にも知られずに成立させなければいけないという強迫観念がわたしのこころをかき乱す。
わたしは太い楢ノ木の陰に身を隠したまま、採取用の手袋をゆっくりと外した。前に出るつもりはない。名乗るつもりもない。誰かの物語に通りすがりの恩人として登場することはあってはならない。
虚空に向けて、白く冷たい指先をほんのわずかに持ち上げる。いかりのにがさまた青さを帯びたような、静かで残酷な、底知れないわたしの力。彼我の距離も、物理的な質量も関係ない。普段は絶対に触れないシステムの深層に、ほんのわずかだけ思考を繋ぐ。ただ、そこにあるものを、なくす。と、頭の片隅で思い描くだけ。
魔物たちの頭上に、不可視の真空の圧が落ちる。
馬車に飛びかかろうとしていた灰色の獣たちは、空中で見えない槌に殴られたように首を奇妙な角度にへし折られ、どさりと地面に落ちた。痙攣すらなく、まるで最初から命などなかったぬいぐるみのように、ただの肉の塊へと変わる。光の矢が降り注ぐわけでも、大地が割れるわけでもない。ただ、ぽつんとスイッチを切るように、物理法則のバグが彼らの命を刈り取った。
護衛の男たちは、血を流したまま呆然と立ち尽くしている。
剣を振り下ろす先で、勝手に敵が死んだのだ。彼らは震える手で周囲を見回し、「神の加護か」「森の精霊の気まぐれか」と、都合の良い解釈を口走っている。
馬車の中から、おそるおそる母親らしい女性が顔を出した。男が泣き崩れるのを、わたしはもう見なかった。
音を立てないようにゆっくりと後ろを向き、わたしはふたたび苔むした斜面を登り始める。
何もしていない。わたしはただ、石ころをどけただけだ。神様でも、聖女でもない。カンパネルラのように、誰かのために暗い川へ飛び込むような勇気など、わたしは持っていない。ただ自分の平穏を邪魔されたくなくて、安全な岸辺から、石を投げて水面を揺らしただけの、ひどく傲慢で冷たい生き物。
宿屋への帰り道、手のひらにはまだ、ちぎり取った青い薬草の匂いがこびりついていた。
早く帰ろうと思った。しっかりと二重の鍵をかけて、助けたことすら認識されずに、毛布を頭から被ってただ息を潜めていたいと、震えが残る身体で、そう思った。




