第四片 暗い穴ぐらの、命の明滅
――だから、わたしは決して街の外れの地下迷宮になんてぜったいに近づかない。
街の北側に口を開ける、底なしの暗がり。魔物の脂と、錆びた鉄と、そして古い血の匂いが層を成して沈殿しているという地下迷宮。そこは、一攫千金を夢見る者たちが自ら進んで命をチップとしてテーブルに積む、ひどく生々しい死の生産工場だ。
もしもそんな場所に足を踏み入れてしまったら、わたしは必ず、致命的なエラーに遭遇してしまう。
毒に侵されて息も絶え絶えになっている新人冒険者や、罠にかかって足を失い、暗闇の中でただ声を殺して泣いている魔法使い。そういう、むき出しの絶望と遭遇したとき、わたしがそれを見なかったことにできるほど、器用に壊れてはいないことを、わたし自身が一番よく知っている。
助けを求める、枯れ葉のすれ違うような声。すがるような、光を失いかけた硝子の瞳。
街角で果物を落としただけの娘の涙目にすら、心のささくれを恐れて干渉してしまったわたしが、死にゆく人間の命の明滅を前にして、そのまま背を向けて通り過ぎることなんて、できるわけがない。
きっとわたしは、またあの舌の根に残る灰のような後味を激しく嫌悪して、足を止めてしまう。
そして、無意識のうちに力を使ってしまうのだ。ほんの少し、指先で奇跡の端っこを撫でるだけでいい。それだけで、千切れた臓腑は繋がり、石畳にこぼれた血は赤い花びらのようにからだへと戻っていく。そんな神様ごっこは、彼らを死の淵から、いともたやすく引きずり戻してしまうだろう。
その瞬間に、わたしの静寂は完全に終わる。
奇跡を目の当たりにした生存者は、狂乱して神を讃えるか、あるいはその異常な力に怯え、やがて欲深い大人たちを連れてくる。わたしの透明な輪郭はくっきりと縁取られ、望まない名前を与えられ、この世界の騒がしい舞台のど真ん中へと引きずり出されてしまう。あの、天気輪の柱がぐるぐると回るような、めまぐるしくて息の詰まる日々のなかへ。
けれどわたしは、誰かのために自分のからだを燃やして夜の闇を照らすような、まっ赤な蠍の火になることはできない。
誰かの運命に介入するということは、ひどく重たくて、粘り気のある責任を背負い込むということだ。感謝の言葉や、すがりつくような熱を帯びた眼差しは、わたしの静かな孤独を容赦なく食い破る。一度でも奇跡を見せてしまえば、彼らはまた次の奇跡を求めて、わたしの周りに群がり、わたしをこの世界の中心に引っ張り出そうとするだろう。
誰かの神様になるくらいなら、わたしはただの、路地裏の冷たい石ころでいたかった。
助けることの重圧と、見殺しにしたあとの舌の根に残るひどい苦味。
そのどちらも選びたくないから、わたしは最初から「見ない」という選択をする。見えない場所で流れている血は、わたしの世界には存在しないのと同じだ。そうやって目をそらし、耳を塞ぐ。ひどくずるくて、底なしに冷酷な、たったひとつの防衛線。
だから今日も、わたしはギルドの依頼書の中から、安全な森の入り口で完結する地味な採取だけを選び取る。北の空に広がる重たい雲の下、ダンジョンへと続く街道には絶対に目を向けない。
宿屋の三階、いつもの部屋に戻り、鍵をふたつ掛ける。ようやく肺の奥まで空気を吸い込むことが出来る。
ベッドに腰掛け、白湯を口にする。街の外れに黒々と横たわるダンジョンのことが脳裏に浮かぶ。あそこには、幾千もの悲鳴と、誰かの終わっていく物語が詰まっている。わたしは両耳を塞ぐように、カップを両手で包み込んだ。
黒く尖った夜の木々が、遠くで風に揺れている。
祈るような思いで目を伏せる。明日の朝も、わたしはいつも通り目を覚まし、誰の命も救わない、誰の運命も狂わせない、退屈で平穏な一日になりますようにと。
誰に祈っているのかは、わからないけれど。




