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第三十片 あかい星のめだまと、冷たいそらのめぐり

 夜の底がすっかり冷え切って、窓ガラスの縁にうっすらと白い霜が降りる頃。

 わたしは部屋の灯りもつけないまま、分厚い麻の毛布を頭からすっぽりと被って、少しだけ開けた窓の隙間から夜空を見上げていた。


 この世界の夜は、ほんとうに暗い。街を照らす有機交流電燈の青白い光も、深夜まで起きている建物のノイズもない。ただ、インクをこぼしたような深い桔梗いろの虚空が、圧倒的な質量をもって頭上に広がっているだけだ。その絶対的な暗闇のキャンバスには、無造作に叩きつけられた銀河の星屑たちが、凍りつくような冷たい光をちかちかと放っている。


 息を吐くたびに、白い煙がすきとおった風にさらわれて消えていく。わたしは、毛布の隙間からかじかんだ指先を少しだけ突き出して、夜空に浮かぶ星の連なりを、あてもなく指でなぞってみた。


 元の世界で見ていた星座と同じなのかどうかは、よくわからない。けれど、わたしの目には勝手に、見慣れた幻燈の形が重なって見えた。


 南の空の低いところで、ひどく不吉な赤色をまたたかせている、あかいめだまのさそり。その少し上には、暗闇を切り裂くようにひろげた鷲のつばさのような星の並びがあり、さらに東へ目をやれば、青白い燐光を放つあをいめだまの小いぬや、ひかりのへびのとぐろが、静かにこの世界の夜の時間を支配している。


 遠くで、オリオンは高くうたひ、この眠る辺境の街の屋根へ、見えないつゆとしもとを静かにおとしていく。


 もし、わたしが意識の奥底にあるあの理不尽な回路の南京錠を外し、虚空へ向かって手を伸ばしたなら。

 きっと、この指先はあの何万光年も先にある星の列にまで、いともたやすく届いてしまうのだろう。


 あかいめだまのさそりの心臓を指で摘み取ることや、アンドロメダのくもをさかなのくちのかたちから別のいびつなものへねじ曲げること。小熊のひたいのうへで冷たく光る、絶対的なそらのめぐりのめあて――天頂の星すらも、その軌道から引きずり下ろすことだって、きっとできてしまう。わたしの持つバグめいた力は、この果てしない銀河すらも、ちいさなガラス玉のように手のひらに収めてしまえるほどの、でたらめな質量を持っているからだ。


 けれど、それはわたしにとって、ひどく恐ろしく、吐き気のする想像だった。


 もし空の星すらも自分の手の届く範囲の「おもちゃ」になってしまったら、わたしをすっぽりと包み込んでくれているこの絶対的な「世界の広さ」が、音を立てて崩れ去ってしまう。空がただの低い天井に成り下がり、無限の距離が失われる。わたしは、自分がちっぽけな路傍の石ころでいられるほどの、途方もなく巨大で、決して手の届かない圧倒的な無関心の下にこそ隠れていたいのだ。


 だから、わたしは突き出していた指先をゆっくりと折り曲げて、あたたかい毛布の中へそっと引っ込めた。


 星の配置にまで手が届くか確かめるなんて、絶対にできない。どんなに強大な力を持っていようとも、空の形を侵すようなことはしたくない。あの気高いよだかの星のように、誰かのために夜空で燃え上がることもない。ただ、この薄暗い三階の部屋から、遠くて冷たい光を傍観しているだけの、ひもじくて臆病な石ころのままでいるのだ。


 星たちは、地上の人間の悲劇にも、路地裏で震える奴隷の少女の涙にも、わたしのこのみっともない自己弁護にも、いっさい干渉しない。ただ、決められた冷たい軌道を、何億年ものあいだ無言で回り続けているだけ。その徹底した無関心と、物理法則にだけ従うすきとおっためぐりが、いまのわたしにはどうしようもなく心地よく、そして何よりも頼もしかった。


「……寒っ」


 誰に聞こえるわけでもない小さな呟きが、白く濁って夜の空気に溶けた。肺の奥まで冷え切ってしまう前に、わたしは軋む窓をぴたりと閉ざし、重い木の雨戸にしっかりと二重の鍵をかける。


 そらのめぐりのめあては、明日もきっと変わらずにあそこにある。わたし抜きで勝手に回っていく、この巨大で冷たくて、どうしようもなく広い世界。その片隅の、完全に無菌で真っ暗な部屋のベッドに丸まりながら、わたしはゆっくりと目を閉じる。

 息をひそめながら、待ち続ける。網膜に焼き付いた遠い星の青白い明滅が、毛布の下のなめらかな暗闇にゆっくりと溶けて完全に消え去るのを。


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