第三片 青い胡桃と、小さな修羅
街の広場を抜けるとき、わたしはいつも少しだけ息を止めるようにして歩く。行き交う人々の、汗と、すり切れた麻布と、夕飯の獣肉を焼く匂いが、ひどく生々しく渦を巻いているからだ。わたしはこの世界の誰とも繋がっていないし、進んで関わりを持とうなんて、これっぽっちも思っていない。
それなのに、不意に足元へ、ころころと乾いた音を立てて何かが転がってきた。
視線を落とすと、青い胡桃のような、小さな固い果実だった。顔を上げると、少し先で、荷台から木箱を落としてしまったらしい若い娘が、泣きそうな顔で道に散らばった果実を拾い集めている。行き交う人々は、足早にそれを避けて通るだけで、誰も立ち止まろうとはしない。
わたしもそのまま通り過ぎようとした。
わたしという現象は、この世界において、限りなく透明に近い傍観者であるべきだ。誰の物語にも干渉せず、誰の記憶にも残らない。それが、わたしがわたしに課したルールのひとつであるはずだから。
けれど、靴の先に当たって止まったその青い果実を見下ろしていると、胸の奥で、かすかにざわざわと小さな修羅が波立ってしまう。
ここでわたしが背を向けて、あの埃っぽい自分の部屋に帰り着いたとしよう。きっとわたしは、ぬるくなった白湯を飲みながら、今のあの娘の泣きそうな顔を思い出すのだろう。助けなかった自分の冷たさを責めるわけじゃない。ただ、あのまま立ち去ったという事実が、ほんのわずかなささくれとなって、わたしの静かな夜の網目を引き攣らせてしまう。そんなわかりきった未来を思うと、ひどく億劫になる。
正義感や、同情心から動くような、きらきらとした立派な魂なんて持ち合わせていない。ただ、見て見ぬふりをしたあとにやってくる、あの舌の根に残る灰のような後味が、どうしても我慢できないだけ。ひどく身勝手で臆病な、潔癖症。
小さく息を吐いて、わたしはしゃがみ込む。
奥底に眠る大層な力は一欠片も使わずに、自分の両手で、石畳に転がる青い果実をいくつか拾い集める。それは、さっきまで森の奥で触れていた土とは違う、人の手が育てた確かな重さを持っていた。
「……これ」
しゃがみ込んでいた娘の目の前に、拾った果実を差し出す。娘が驚いたように顔を上げ、ほんの少しだけ目を丸くした。その瞳の奥に、銀河の星屑みたいな安堵の光が点るのを待たずに、わたしは果実を彼女の抱えた木箱に放り込み、そそくさと立ち上がった。
「あ、あの、ありがとう……」
背中越しに聞こえたその声には、一切振り向かない。足早に、逃げるようにしてその場を離れる。誰かに感謝されたかったわけじゃない。わたしはただ、自分の平穏な夜を守るために、彼女の落とし物を拾っただけなのだから。
宿屋に向かって歩きながら、少しだけ埃で汚れた自分の指先をこすり合わせる。
関わってしまったことに少しだけ後悔している自分と、胸の奥の小さなつかえが溶けているのを感じている自分がいる。わたしはなんて中途半端で、不器用な生き物なんだろう。こんなことなら、いっそ心を持たない、ただ明滅するだけの青白い燐光にでもなってしまえればよかったのに。
ほんとうは、冷たいのだと思う。わたしは、底なしに冷たいのだ。
世界がどうなろうと知ったことではないと言いながら、目の前の小さな石ころ一つを見て見ぬ振りできない、ひどく中途半端な臆病者。
空を見上げると、天の川の端くれが、青白く、すきとおった冷たい火を燃やして広がっていた。サウザンクロスへ向かう列車も、切符を持った友人も、この空にはいない。
わたしはポケットの中で、今日稼いだ硬貨の手触りを確かめる。冷たくて、硬い。その重みだけが、わたしがこの街で今日も生きて、他人の不運をやり過ごしながら、自分のためだけに呼吸をしているという事実を証明していた。
宿屋の粗末なランプの灯りが、遠くでぽつりと滲んでいる。早くあの部屋に帰って、窓をきっちりと閉めてしまおうと思った。誰の悲しい顔も、もう見なくて済むように。




