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第二十九片 重力の悪戯と、赤い滲み

 斜面は昨夜の雨をたっぷりと吸い込んでいて、一歩踏み出すごとにすり減った革靴の底がじゅわりと黒い土に沈み込んでいく。

 目当ての薬草を探して、大きな羊歯の葉を両手でかき分けたときだった。足元の腐葉土の下に隠れていた太い楢ノ木の根に、わたしの靴のつま先が見事に引っかかる。


 一瞬、世界が傾いた。

 意識の奥底にある冷たい石室で、分厚い南京錠をかけられた無敵の奇跡に反射的に手を伸ばしかける。

 「ただの無力な少女」のふりをしていたがるわたしのくだらないこだわりと、防衛本能がせめぎ合って硬直したわたしのからだは、けっきょくなんの防衛反射もしないまま湿った斜面の上へ無防備に投げ出された。


 右の膝が、土の下に埋まっていた硬い石か何かに激突し、続いて肩から泥のなかへ突っ込んだ。むせ返るような命の終わりの匂いと、冷たい泥の感触が顔のすぐ横をかすめる。肺の空気が一瞬だけ押し出されて、ひゅっ、と喉の奥で情けない音が鳴った。


 しんと冷たい土の匂いのなかでゆっくりと上体を起こすと、分厚い麻のローブの裾はべっとりと黒い泥にまみれ、無惨な有様になっていた。少し遅れてやってきたじんじんとする熱が、右の膝頭から脳髄へ向かって、ずきんと一気に駆け上がってくる。


 ローブをたくし上げて、恐る恐る膝を覗き込んだ。

 泥だらけになった皮膚が薄く剥がれ、すりむいた皮膚から、血が少しだけ滲んで、泥と混ざってひどく汚い色になっている。

 傷口を自覚すると、冷たい空気がそこに触れるたびに、びりびりとした鋭い痛みの主張が容赦なくなっていく。


 それがなんだか情けなくて、すこしだけ泣きそうになる。

 たかだか一度の転倒に、どうしてこんなに心が悪い方向に揺れ動いてしまうのだろう。


 元の世界にいた頃から、わたしは転んで怪我をするような活発な子供ではなかった。こんなふうにむき出しの肉体が乱暴に地面とこすれ合い、物理的な損傷を受けるという感覚そのものが、ひどく久しぶりで、そして恐ろしいほどに生々しかった。


 指先をほんの少しだけ動かして、あの青白い有機交流電燈の回路を開けばいい。そうすれば、この泥汚れも、ひりつく傷口も、なかったことのようにきれいに漂白されて、傷ひとつない完璧な肌を瞬時に取り戻すことができる。転倒という事象そのものを真空の彼方へ消し去って、涼しい顔で立ち上がることなど今のわたしにはたやすいだろうに。


 けれど、わたしは膝の上に伸ばしかけた泥まみれの手を止めてしまう。

 以前、鋏の使いすぎで荒れた手のひらをあっさりと癒やしてしまったときの、あの泥のような自己嫌悪が、まだ胃の腑の底に苦くへばりついていたからだ。痛いのが嫌で、すぐに奥底の力という絶対的な免罪符にすがってしまう、卑小で狡猾な自分。手荒れを直すくせに、膝の怪我をそのままにする欺瞞。


 手荒れと違って、我慢できる痛みだから、と誰に言い訳するでもない、どうしようもない自己弁護。

 わたしはローブの裾をゆっくりと下ろし、泥だらけの膝を隠した。立ち上がろうとして右足に体重をかけると、傷口がごわごわとした麻の布地にこすれて、思わず顔がきつく歪む。


 わたしはそのまま、すこしだけ足を引きずりながら歩き始める。


 半分ほど埋まった麻袋を背負い、白樫の杖を地面に強く突きながら、一歩、また一歩と暗い森を抜けていく。右足を踏み出すたびに、膝に走る鋭いひりつき。それはでたらめなシステムを持て余しているわたしが、この世界の引力にちゃんと捕まっているという錨だった。


 街へ戻り、ギルドの受付で銅貨を受け取るときも、宿屋の軋む階段を三階まで上るときも、わたしは分厚い布の下でひそかに血を流し続けていた。誰の目にも触れない、誰にも心配されない、わたしだけのちいさな痛覚。


 部屋に帰り、重い鍵を二つ閉めてから、たらいの冷たい水で傷口を洗う。

 泥と血が混ざった水が、ぽたぽたと床に滴り落ちた。使い古した手ぬぐいでそっと押さえると、まだ少しだけ赤い血がにじんでくる。


 痛いのは、やっぱり好きじゃない。

 でも、自分のからだが重力に引かれて土にぶつかり、血を流してかさぶたを作るという、誰にとっても当たり前で無様な代謝の連続。

 そこに浸っていたがるのもわたしの悪癖なのだろう。


 傷のない完璧な幽霊よりも、膝をすりむいて足を引きずる不格好な石ころのほうが、この桔梗いろの空の下では、ずっと正しく呼吸ができているような気がするから。

 わたしはちいさく息を吐き、ずきずきと脈打つ自分の膝を、冷たい両手でそっと包み込んだ。

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