第二十八片 小さな砥石と、等価交換の祈り
森の入り口で、いつものように青い薬草を摘んでいたときのことだ。
いままで使っていた鋏の噛み合わせが、ひどく鈍くなっていることに気がついた。
さくっ、という小気味よい音は消え、ぐにゃりと植物のすきとおった繊維を押しつぶすような、ひどく不格好で暴力的な感触が指先に残る。使い込むうちに生じた見えない刃こぼれと、こびりついた草の汁のせいだ。
きっとほんとうなら、どんなに刃こぼれしていようが関係はない。わたしの力であれば、切れ味を強化することだってできるのだろう。
願うだけで、どんな硬い木の根でも豆腐のように切り裂く魔剣ができあがる。
けれど、わたしはその見えないスイッチからそっと指を離し、鈍くなった鋏をローブのポケットにしまい込んだ。
街へ戻る土の街道を歩きながら、わたしは二つの選択肢を頭の中で天秤にかけていた。
広場の端にある、あのむせ返るような熱気を放つ鍛冶屋に持ち込んで、職人の分厚い手にこれを委ねるか。それとも、自分でちいさな砥石を買って、あの三階の部屋でひっそりと研ぐか。
鍛冶屋の職人さんたちが発する、あの大きな槌の音と、熱気と、何より、お嬢ちゃん、見ない顔だな、などと話しかけられるのがひどく恐ろしかった。
ただでさえ、わたしはこの世界にしがみついているだけの宙に浮いたような存在なのに。これ以上、誰の記憶にも残りたくない。
お嬢ちゃんの手にその鋏が合ってないんだ、とか、そんなありふれた世間話から、誰かと目を合わせ、言葉を交わし、関係性の糸をほんのすこしでも紡いでしまうくらいなら、切れ味の悪い鋏で指を痛めるほうがずっとマシだった。
だからわたしは、金物屋の店先の端っこでひっそりと埃を被っていた、手のひらサイズの安い砥石を銅貨で買った。
逃げるような早足で帰りついた部屋。窓の外が、桔梗色から深い藍色へと沈んでいく時間。
縁の欠けた陶器の鉢に、冷たい井戸水を張る。灰色の砥石をその水に浸すと、ちいさな気泡がぷくぷくと浮かび上がる。乾いた石が水を吸い込む呼吸の音。
鋏の刃をいっぱいに開き、濡れた石のうえに斜めにあてがう。
ちいさく息を吐いてから、ゆっくりと腕を動かす。
しゃり、しゃり。
静寂に包まれた三階の部屋に音が響き始める。鉄と石がこすれ合う、ひどく冷たくて不器用な音。
へたくそなリズムのなかで、研ぎ汁が黒く濁り、指先には、血の匂いによく似たあの生々しい鉄の匂いがこびりついていく。
削られていく鉄の粉が、水の中で広がり微かに青い燐光のように見える。ただの泥水なのに、それは銀河の底の砂みたいに、きらきらと沈んでいった。
摩擦によって、硬い鉄の刃先がほんのわずかずつ削り取られ、なめらかで鋭い銀色の直線へと生まれ変わっていく。
同時に、砥石のほうもまた、鉄に削られてその身をすり減らしている。
削って、削られて、物質がすこしずつ消費されていく。その重力に縛られた等価交換の法則が、わたしにはたまらなく美しく、そして羨ましかった。
その気になれば永遠に削られることのない幽霊になってしまえるわたしにとっては、冷たい水に手を浸し、自分の手でちいさな道具をすり減らして手入れをしているこの時間でさえ、いつ失われるかわからない不確かなものだ。
わたしがこの世界の泥臭い物理法則に触れたくなるのは、鍵をかけた門の向こう側から、指先だけをなんとかこちら側の世界に突っ込んで、命の摩擦を確かめていたいからなのかもしれない。
指先の泥と鉄の匂いを嗅ぎながら、わたしは丁寧に刃の黒ずみを落としていく。
冷え切った部屋のなかに、すきとおった研磨の音だけが、ちいさな星の瞬きのように響いている。
階下から、女将さんが大鍋を洗う手際の良い音が響いてきた。もうすぐ、あの硝子色の瞳の娘が、夕食のトレイを持って軋む階段を上ってくるだろう。
わたしは研ぎ上がった鋏の刃先を麻の布で拭い、親指の腹でそっと切れ味を確かめてから、ちいさく息を吐いた。
明日、このすこしだけ鋭さを取り戻した鋏を持って森へ行こうと思った。
すり減って、いつかは使い物にならなくなるこのちいさな鉄の欠片と一緒に、わたし自身のながくて退屈な寿命も、ほんのわずかずつでいいから、この世界に削り取られていけばいいのにと、ひどく叶わぬことを祈りながら。




