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第二十七片 ひび割れた皮膚と、卑小な免罪符

 部屋の隅に置かれた木のたらい。そこに張った冷たい井戸水に両手を沈めると、びり、と微かに電気が走ったような鋭い痛みが指先を駆け抜けた。


 わたしは小さく息を呑んで、水の中から自分の両手を引き上げる。

 窓からの乏しい光に透かして見ると、そこには、かつての元の世界にいた頃のひよわな少女の手は、もうどこにもなかった。


 毎日毎日、森の奥で湿った土を掘り返し、刃のこぼれた真鍮の鋏を握りしめているせいで、手のひらには硬い豆がいくつもできている。指の腹はやすりのようにざらつき、爪の周りの皮膚はひどくささくれ立って、ところどころ赤くひび割れていた。爪の奥に入り込んだ黒い土の染みは、もう完全に皮膚の一部として定着してしまっている。


 麻のシャツの袖を通すときも、ごわごわとした生地にささくれが引っかかって、ちくりと嫌な痛みを主張するようになった。


 これが、わたしが望んだ「ほんとうの生活」の痕跡だ。

 底に眠る理不尽な魔法を使わず、自分の肉体だけをすり減らして、この世界の泥にまみれて生きるという誓いの証。傷つき、汚れ、老いていくという、ごく当たり前の代謝の証明。

 わたしはこの荒れ果てた両手を誇りに思い、愛おしく撫でさすって、痛みを甘んじて受け入れるべきなのだろう。


 でも。

 わたしは、水滴の滴る自分のひび割れた指先をじっと見つめながら、ひどく重たい、泥のようなため息を吐き出した。


 痛いのは、嫌だ。

 生活の証だとか、透明な現象としての正しい在り方だとか、そんな立派な理屈を並べ立ててみたところで、結局のところ、ひび割れた皮膚が空気に触れてひりひりとするこの不快感には、どうしても耐えられそうになかった。


 わたしは、ほんとうに、どこまでも救いようのない偽善者だ。

 意識のずっと奥底にある、分厚い扉と重い南京錠で封印したはずの冷たい石室。その鍵穴に、わたしはそっと自分の意識を滑り込ませた。

 世界をまるごとひっくり返すような暴虐の回路を、ほんの数ミリだけ、針の穴を通すようにしてわずかに開く。有機交流電燈の青白い光が、血液に乗ってわたしの両手へと流れ込んでいくのを、確かな熱として感じた。


 声には出さず、ただ脳髄の裏側で治癒を念じる。

 わたしの両手から淡い燐光がこぼれ落ち、ひび割れていた皮膚の細胞が、まるで時間を巻き戻すかのように凄まじい速度で書き換えられていく。


 痛みは一瞬にして消え去った。

 指の腹を覆っていた硬い角質は雪解けのように溶け去り、血の滲んでいたささくれは跡形もなく塞がる。指紋の奥にこびりついていた土の染みすらも、不可視の真空に吸い込まれるようにして完全に漂白されてしまった。


 ものの数秒で、わたしの両手は傷ひとつない、透き通るような完璧な形を取り戻していた。赤ん坊の肌のように滑らかで、泥の匂いなど微塵もしない、ひかりの素足のように無垢な肌。


 たらいの水面には、そんな不気味なほどに美しい自分の両手が、冷たく反射している。


 わたしは、そのすきとおった完璧な指先をゆっくりと曲げ伸ばししてみた。関節の軋みひとつない。

 快適だった。何の痛みもなく、何のひっかかりもない。

 けれど、胸の奥では、ちいさな修羅が「ずるい、ずるい」とわたしを嘲笑って、苦い唾液を吐き散らす。


 わたしが求めていた清貧や、泥にまみれた生活なんて、結局はこの程度のものなのだ。

 「ほんとう」を生きる人たちはこの痛む手で明日も明後日も働き続けているというのに。

 なのにわたしは、少しでも痛みが自分の許容量を超えれば、こうしていとも簡単に、神様の力という絶対的な免罪符を使って、その苦痛からするりと逃げ出してしまう。


 貧しさを気取った、ただの悪趣味な観光客。

 いざとなればいつでも安全な無菌室へ帰ることができる、ひどく傲慢で卑小な偽物。


 わたしは、治りたての美しすぎる両手で自分の顔を覆い、硬いベッドの上に崩れ落ちた。

 自分のこのどうしようもない弱さと狡猾さが、たまらなく嫌だった。それでも、もう一度あの痛む指先に戻りたいかと言われれば、絶対に嫌だと拒絶する自分がいる。


 窓の外では、またいつものように荷馬車の車輪が石畳を叩く音がしている。

 この世界は、わたしのこんなちいさな自己嫌悪なんてちっとも気にかけてはくれない。わたしは明日もまた、この完璧に修復された偽物の両手で刃のこぼれた鋏を握り、いけしゃあしゃあと弱い石ころのふりをして森の草を刈る。


 手のひらに残る、身に余る力を使ってしまったあとの微かな魔力の冷え。

 それすらも、時間が経てばすぐに消えてしまう。わたしは両手をきつく握りしめ、自分だけが知っているこの醜い妥協の味を、冷めかけた白湯と一緒に、胃の腑の底へゆっくりと飲み込んだ。

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