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第二十六片 怠惰な奇跡と、見知らぬ水脈


 今日はどうしても、あの湿った腐葉土に指を突っ込んで、緑色の血を流す植物の茎と格闘する気になれなかった。


 朝からからだがひどく重くて、肺の底に冷たい泥が沈殿しているような、そんな怠惰な気分の朝。

 冒険者ギルドでいつものように薬草採取の依頼書を取って森へ向かったものの、木漏れ日の下でしゃがみ込むことすらどうも億劫に感じて、太い楢ノ木の幹に背中を預けてため息をつく。


 なんでか動く気になれない。

 だからわたしは、ほんの少しだけ、意識の奥底にある冷たい石室の南京錠を外してしまう。

 力に溺れたくないと忌避しつつ、都合の良い時だけ力を出し入れする欺瞞。


 青白い有機交流電燈の回路が、脳髄の裏側でちかちかと瞬く。

 虚空を思い念じれば、目的の存在だけを的確に捉える空間索敵が演算される。知覚した対象すべてに真空の刃が発動し、森のあちこちに隠れていた目当ての薬草たちだけが根本から切断される。

 そうして見えない網に引かれるようにふわりと宙を舞い、わたしの足元に広げた麻袋のなかへ、音もなく収穫されていった。


 たった数秒。

 刃のこぼれた真鍮の鋏も、爪の間に入り込む泥の感触も、ふくらはぎの鈍い疲労も、すべての過程をすっ飛ばして掠め取った、ひどく空虚で完璧な結果。


 空っぽになった地面を見下ろして、舌の根にひどく苦い後味が広がるのを感じる。

 楽をしたかったはずなのに、自分で自分の生活の手触りを消去してしまったような、みすぼらしい喪失感だけが残っている。


 ずっしりと重くなった麻袋を見下ろしながら、わたしはすぐに重い錠前を掛け直して、自分の底知れない力をふたたび暗闇へ押し込めた。


 依頼の達成とともに、わたしにどしんと落ちてくるのは、夕暮れまでの途方もなく長い余白。

 わたしは重い麻袋を背負い直し、森の木立を抜けて、街の外れをゆるやかに流れる名もなき川のほとりへと歩いた。


 緑を孕む風が、水面をなめらかに撫でていく。太陽の光が反射して、川面には無数のきらきらとした銀色の鱗が散らばっているようだった。

 わたしは、水辺に生い茂る柔らかい草むらの上に腰を下ろした。そして、ローブのポケットから、街の屋台で銅貨の端くれと交換してきた硬い木の実のパンと、革袋の水筒を取り出す。


 チートで掠め取った空っぽの時間で楽しむ、ひどく質素で孤独なピクニック。


 ごわごわとしたパンを囓り、咀嚼する。木の実の素朴な甘みと、少し焦げた麦の匂いが口の中に広がる。それを水筒の冷たい水で胃の腑へと流し込むと、からだのなかに、あの森での労働とは違う、ひどく怠惰で甘やかな重力が満ちていくのがわかった。


 ぽつり、ぽつりとパンの欠片をこぼしながら、わたしはずっと、目の前を流れていく川の水を眺めていた。


 この水は、どこか遠い北の冷たい山脈から生まれ、絶え間なく削り取った土や葉の欠片を巻き込みながら、わたしの目の前を通り過ぎ、そして南の見知らぬ海へと向かっていくのだろう。

 上流をずっとずっと遡っていけば、もしかしたら、白鳥の停車場のようなうつくしい泉や、水晶でできた竜の棲み処があるのかもしれない。あるいは、この水脈に沿って下流へ下っていけば、極彩色の旗がひるがえる巨大な都市や、見たこともない大きな海へと辿り着くのだろうか。


 この異世界という巨大な箱庭には、きっとわたしの想像もつかないような、きらびやかで恐ろしい物語の舞台が、無数に広がっているはずなのだ。

 もしわたしが、この無敵のチート能力を解放して、あの川の先へひかりの素足で踏み出していったなら。世界はたちまちその姿を現し、わたしを運命の濁流のど真ん中へ歓迎するだろう。


 わたしは固いパンの最後の一欠片を飲み込み、水筒の口をきゅっと固く閉める。


 目を伏せて、世界への興味を遮断する。

 上流になにがあろうと、下流になにが待っていようと、わたしには関係のないことだ。


 知らない世界があるということは、そこにわたしの知らない誰かの悲しみや、憎しみや、重たい因果の網目が張り巡らされているということ。そんなものに触れて、自分のこころの皮膚を削るくらいなら、わたしは一生、この見知らぬ水脈の果てを知らないままでいい。


 遠くで川の瀬が小さく鳴っている。

 その単調な水音を子守唄のように聞きながら、わたしは膝を抱えて、太陽が西の空へ傾くのをただひたすらに待つ。

 異世界を謳歌する誰かのようにはなれない。未知の冒険を思い出に重ねて日々を過ごすのではなく。この草むらの上で感じる冷たい風と、お尻に伝わる土の湿り気を感じながら時間をすり減らすのがわたしの日々。


 わたしの世界は、あの薄暗い宿屋の三階の部屋と、泥臭い森の斜面と、せいぜいこの小さな川辺の草むらだけで完結している。

 それ以上は望まない。誰の物語にも載らず、誰の記憶にも残らない、ただの透明な現象として。

 今日もまた、わたしは怠惰な奇跡で時間を殺し、この冷たい水辺で自分の輪郭だけをひっそりと抱きしめている。




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