第二十五片 宙を打つ拳と、脆弱な血の巡り
朝の薄暗い部屋のなかで、ふと、唐突にからだを動かしてみようと思い立った。
別に、なにか立派な決意を抱いたわけではない。ただ、ベッドから抜け出して冷たい床に素足を下ろしたとき、自分の手足が冬の枯れ枝のようにひどく強張っていて、その頼りなさが少しだけ気になったのだ。
元の世界にいた頃なら、朝の光を浴びながらラジオ体操をしたり、入念にストレッチをしたりして筋肉をほぐしていたのかもしれない。けれど、いまのわたしが選んだのは、もっと不格好で、ひどく無軌道な動きだった。
足を軽く開き、両手を胸の前に構える。
そして、何もない虚空に向かって、しゅ、とへたくそな拳を突き出してみた。
空手というにはあまりにも腰が入っていないし、ボクササイズと呼ぶにはリズム感が絶望的に欠けている。ただの運動神経の鈍い少女が、部屋の冷たい空気を殴りつけているだけの、ひどく滑稽な素振り。
それでも、しゅっ、しゅっ、とわざとらしく息を吐きながら、右、左と拳を繰り出し、たまにバランスを崩しそうになりながら不格好な蹴りを放ってみる。
意識の奥底にある、あの底知れない魔法の回路とは無縁の、無害でひ弱な暴力。
ただむなしく空気をかき混ぜるだけの、埃ひとつ吹き飛ばすこともできないこぶしをふり回す。
厳密な時間は計っていないけれど、きっと五分どころか、息が上がるまで一分も保っていないと思う。
ふくらはぎの筋肉がぴくぴくと震え、額にはうっすらと汗がにじむ。そして、冷え切っていた指先や足の裏の毛細血管の隅々にまで、どくどくと熱い血が押し流されていくのが、手にとるようにわかった。
採取依頼で使っている筋肉とは、また違った箇所が使われたような疲労感。
ぜえ、ぜえと浅い呼吸を繰り返しながら、わたしはその場にへたり込む。
心臓が、肋骨の内側で早鐘のように鳴っている。
傷つかない無敵の鉱石ではなく、放っておけばすぐに錆びつき、少し動いただけでこんなにも苦しい悲鳴を上げる、ひどく脆弱で頼りない肉の塊。
血が巡り、酸素を欲して肺が大きく膨らむこの泥臭い代謝の連続が、いまのわたしにとっては、何よりも確かな生の手応えだった。
床に座り込んだまま、じんわりと熱を持った自分の両手のひらを、不思議なものを見るように見つめる。
この、血の巡るあたたかいからだを維持するために、毎朝こうして汗をかく習慣をつければ、きっとすこしは健康的な石ころになれるのだろう。
でも、わたしはすぐに、ふう、と長く息を吐いてその考えを捨てる。
たぶん、明日になればわたしはまた、この硬いベッドの上で毛布にくるまり、微動だにせずに窓の外の桔梗いろの空を眺めるだけの、怠惰ないきものに戻っているはずだ。
毎日続けるような勤勉さも、自分を律する気高さも、わたしは持ち合わせていない。今日のこの滑稽な素振りも、きっと数ヶ月に一度、思い出したようにやってくるだけの、ほんの気まぐれなのだ。
汗が冷えて、また少しずつからだが元の温度に戻っていく。
そのゆっくりとした熱の低下を味わいながら、わたしは冷たい床の上に大の字に寝転がり、天井の木目をただぼんやりと数え始めた。健康にも、英雄にもなれない、このすきとおった無駄な時間のなかにこそ、わたしのほんとうの呼吸がある。




