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第二十四片 桔梗いろの境界と、夜の幻燈

 窓の隙間から入り込む風が、すこしずつその温度を下げていく。


 わたしは硬い木の窓枠に顎をのせて、空の色がゆっくりと移り変わっていくのを、ただぼんやりと眺めていた。西の山の端でくすぶっていた赤い燐光がやがて薄れていき、頭上からはインクを垂らしたような深い桔梗いろが、音もなく世界を塗り潰していく。


 この時間になると、眼下を通る石畳の通りは、急にその表情を変える。

 鍛冶屋の炉の火が落とされ、荷車を引く馬たちの蹄の音は、どこか家路を急ぐように早足になる。パン屋の煙突から立ち上っていた香ばしい匂いは、やがて湿った薪の燃える煙の匂いへとすり替わっていく。


 この世界の人々は、太陽が沈めば素直に活動を止める。

 わたしがかつていた元の世界のように、夜の底を白々と照らし出す有機交流電燈もなければ、深夜まで煌々と明かりの点いた箱のような建物のなかで、目を血走らせながら働き続ける習慣もない。ここでは、闇はただの休息のための分厚い毛布であり、夜は等しく全員の上に降り注ぐ、絶対的な停止の合図なのだ。


 ふと、思う。

 この街の泥にまみれて生きる人々は、この夕と夜のあいだの、ひどく美しくて曖昧な空の色を、一体どんな気持ちで見上げているのだろうか。


 一階の厨房で、明日の仕込みのために根菜の泥を落としているあの美しい女将さんは。あるいは、酒場で安いエールをあおりながら、今日の稼ぎと明日の命の保証を天秤にかけている荒くれ者の冒険者たちは。

 彼らは、この空が桔梗いろから完全な黒へと沈んでいくのを見て、ただ「今日も一日が終わった」という物理的な合図としてしか受け取っていないのだろうか。それとも、かつてのわたしが地下鉄のホームで暗いトンネルの先を見つめていたように、ほんのわずかな寂寥や、言い知れぬ不安を、この薄明のグラデーションのなかに透かし見ているのだろうか。


 きっと、誰かに尋ねてみることは一生ない。

 他人の心の内側に踏み込むことは、わたしにとって、自分のこの静かな水底の楽園を破壊する最も危険な行為なのだから。


 暗闇という隠れ蓑の中で、わたしはただ、安全な傍観者として空を見上げるのが好きなのだろう。

 夜が深くなればなるほど、わたしの輪郭はぼやけ、この世界の風景に完璧に溶け込んでいく。誰の目にも見えない透明な現象になれる。だからわたしは、部屋の灯りすらつけずに、ただ冷たい窓枠にしがみついたまま、夜という巨大な海に部屋ごと沈んでいく感覚を、ひっそりと楽しんでいる。


 やがて、完全に夜の帳が下りて、窓の外には銀河の星屑だけが冷たくちかちかと瞬き始める。

 そしてまた、気の遠くなるような数時間の沈黙のあと、今度は東の空から、瑪瑙のような淡い光が夜の端っこを溶かし始めるのだ。


 夜と朝のあいだ。

 空気は一日で最も冷たくなり、肺の底まで凍りつくような澄んだ匂いがする。わたしは薄い毛布を肩から羽織り直して、その光の誕生を待つ。

 まだ誰も起きていない街。馬車の音もしない、誰の笑い声も聞こえない、完全にわたしだけのものになったような錯覚に陥る、真空の時間。空が白み始め、最初の小鳥が鳴き声を上げるまでの、あの張り詰めたような静寂が、わたしはどうしようもなく好きなのだ。


 世界の境界線に立って、ただ呼吸だけをしている。

 誰の人生も背負わず、誰にも期待されず、ただ空の色が変わっていくのを見届けるための、ひどく無駄で、すきとおったぜいたく。


 窓ガラスに額をこすりつけると、その冷たさが、わたしがたしかにここにいるということを教えてくれた。

 明日もきっと、わたしはこの窓辺で、何ひとつ変わらない夕暮れと夜明けを待つ。その果てしない反復のなかにだけ、わたしのほんとうのさいわいは、ひっそりと息を潜めている。

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