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第二十三片 雨上がりの匂いと、銀色の水溜まり

 灰色の雨が降る日は、決まってこの三階の部屋から一歩も出ないと決めている。

 硬いベッドの上で毛布にくるまり、窓ガラスを叩く雨粒の音をひたすらに数える。誰の視線にも晒されず、ただ部屋の空気を肺に取り込んでは吐き出すだけ。それは外界とのつながりを完全に断ち切ってくれる、とても心地よい、なめらかな水底の泥のような時間だ。


 けれど今朝は、ふと目を覚ましたその瞬間に、いつもとは違う空気が部屋のなかに満ちているのを感じた。


 しとしとと窓を揺らしていたはずの風と雨の音はとうに止んでいて、代わりに軒先から、ぽたり、ぽたりと重たい雫がこぼれ落ちる音だけが、ひどく静かに響いている。

 わたしはのっそりと起き上がり、冷たい床を素足で歩いて、少しだけ窓の隙間を押し開けた。


 その途端、ひんやりとした湿った空気が、肺の奥のずっと深いところまで滑り込んできた。わたしは、その雨上がりの匂いを「聞いた」。

 濡れた石畳の土埃と、押し潰された青草の汁と、空の上から洗い流されたばかりの、冷たくてすきとおった水の、三重の声。

 まだ雲の切れ間から太陽は顔を出していないけれど、街全体が、まるで谷川の底にすっぽりと沈んでしまったみたいに静まり返っている。クラムボンたちが息をひそめて見上げている、あの青白い水の天井の下にいるような、不思議な明るさがあった。


 雨が降っていれば、わたしは堂々と引きこもる正当な理由を手に入れられる。

 でも、こうして雨上がりの匂いを聞いてしまうと、わたしの内側のひどく怠惰な部分が、ほんの少しだけ外の空気に触れてみたくなるという、厄介な矛盾を引き起こすのだ。


 奥底の力を使えば、泥はねを一切気にすることなく、空中に薄い膜を張って優雅な空中散歩を楽しむことだってできるのだろう。

 けれど、わたしはそんな途方もない力の恩恵から目を背けて、昨日も着ていたシャツを被り、底のすり減った革靴に足を入れた。


 部屋の鍵を閉め、軋む階段を降りて、一階の酒場を抜ける。

 まだ誰も起きていない薄暗い厨房の横を通り抜け、裏庭の木戸をそっと押し開けた。


 外に出ると、冷たい雨上がりの空気が、より一層濃密にからだを包み込んだ。

 裏庭の土はすっかり水分を吸って黒く沈み、ところどころにちいさな水溜まりができている。わたしはその水溜まりを避けるようにして、革靴の底が泥に沈む感触を確かめながら、静かに井戸へと向かった。


 ふと、足元のひとつの水溜まりに視線が落ちる。

 濁った泥水のはずなのに、そこには、まだ少しだけ鈍い灰色を残した空と、ひかりの素足のように差し込み始めた淡い朝焼けの光が、鏡のようにくっきりと映り込んでいた。

 それはまるで、地面のひび割れから覗く、もうひとつのちいさな銀河のようだった。わたしが足を踏み入れれば、たちまち波立って消えてしまう、ひどく脆くて薄っぺらい世界。


 わたしは、その銀色の水溜まりの縁でしゃがみ込み、ただじっとその水面を見つめた。


 わたしという現象も、きっとこの水溜まりと同じなのだと思う。

 底知れないバグめいた力を隠し持ちながら、ただこの辺境の街の裏庭で、誰にも気づかれないように空の端っこを反射しているだけ。やがて太陽が高く昇り、人々の生活の熱気が街を包めば、このちいさな水溜まりは誰の記憶にも残らずに干上がって消えていく。わたしもそれでいい。誰の物語にも干渉せず、ただ静かに蒸発していくように、このすきとおった時間をやり過ごせれば、それがいちばんのさいわいなのだ。


 木桶に井戸の冷たい水を汲み、重くなったそれを両手で抱え上げる。

 指先がじんわりとかじかむのを感じながら、わたしはもう一度、雨上がりの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


 泥と、水と、冷たい空気の匂い。

 今日が晴れであれ、雨であれ、わたしがわたしとして呼吸をするという事実は変わらない。ひどく退屈で、けれど誰にも侵されないこの透明な気持ちは、雨上がりの澄んだ空気がいちばん似合っていると思った。

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