第二十片 白樫の杖と、ただの歩み
街の端っこにある、すこし埃っぽい匂いのする魔法具店で、わたしはその杖を買った。
先端にくすんだ緑色をしたちいさな蛍石がはめ込まれている、白樫の木でできた初心者用の杖。冒険者ギルドで初めて魔法の才を認められた少年少女たちが、銀貨数枚を握りしめて買い求めるような、なんの変哲もない量産品。
なぜそんなものを買ったのかといえば、この桔梗色の空の下で暮らす人々が使っている「ほんとうの魔法」というものが、いったいどんな手触りをしているのか、すこしだけ知りたいと気になってしまったから。
自分の内側でどろどろと渦巻く、あのバグめいた底知れない力ではなく。
もっとささやかで、もっと不器用な、手のひらに載るくらいのちいさな熱や光の明滅。静かに息を整えるように、ゆっくりと魔力を練り上げて自然と対話する、そういうまっとうな回路の感覚を、この杖を握ればすこしは理解できるような気がした。
宿屋の部屋に持ち帰り、重い鍵を閉めてから、わたしは白樫の柄を両手でそっと握りしめた。
そして、この世界の魔法使いがそうするように、意識の表面に浮かんだごく僅かな魔力を、杖の先端の蛍石へ向かってゆっくりと流し込んでみる。
けれど、結果はひどくあっけないものだった。
わたしのからだの奥底にある巨大な青い照明の回路は、そのささやかな通り道を完全に無視して、ただそこにあるだけで杖の許容量をいともたやすく凌駕してしまったのだ。蛍石はかすかにきな臭い煙を上げ、ピキ、と乾いた音を立ててちいさなひび割れを作った。
これ以上力を込めれば、おそらくこの杖ごとわたしの右腕の先で、恐ろしい真空の爆発が起きてしまうと感じた。
反射的に手を離してしまう。冷たい床に杖が転がる。
結局のところ、わたしのからだの中にある力は、この世界の魔法使いたちが使うような、杖や触媒を介した繊細な回路とは、まったく別の何かなのだ。ちいさな火種を起こすこと、カップの白湯を温めることは素手ならできる。けれどそれは、この世界の『ふつうの魔法』ではなく、システムの深層から直接呼び出した、文字通りの「チート」なのだろう。
それ以来、その白樫の杖が魔法の媒介として使われることは、ただの一度もない。
けれど今、その変哲のない白樫の枝は、わたしの右手にしっかりと握られている。
薄暗い森の奥深く、前日の雨でぬかるんだ斜面を登るとき、苔むした岩に足を取られそうになったとき。
この杖を地面に強く突き立てて、自分のからだを支えている。
魔法の杖としてではなく、文字通り、ただ歩くための「ほんとうの意味での杖」としてこの杖が使われている。
奥底の能力を使わずに森を歩くとき、わたしのからだはひどく重たく、不自由な肉の塊になる。
息は上がり、ふくらはぎは悲鳴を上げ、すぐにでもつめたい土の上に座り込んでしまいたくなる。
めくらぶどうの蔓が這う斜面や、濡れた腐葉土に覆われた木の根を乗り越えるとき、この一本の木の棒が、どれほど頼りになることか。
体重をかけるたびに、杖の先端がずぼっ、と湿った泥に突き刺さる。蛍石はとうの昔に泥にまみれて濁りきり、魔法の回路なんてものは、物理的な衝撃ですっかり断線してしまっただろう。
でも、それでいいのだ。
魔法の触媒としての意味を完全に失ったこの木の棒は、いまやわたしとこの歪な異世界の引力とを繋ぐ、ひどく生々しくて優秀なアンテナになっている。
どん、どん、と地面を突くたびに、この見知らぬ星の土の硬さが、掌にできたちいさな豆を震わせて直接伝わってくる。
急な上り坂で息が切れ、ふくらはぎの筋肉がみしりと悲鳴を上げるとき、わたしはこの杖にすがりつき、ぜえぜえと肺に冷たい空気を送り込む。ごわごわとした麻紐の感触と、汗ばんだ掌の摩擦。
魔法使いの真似事をして買ったはずの小道具が、ただ重力に逆らうための物理的なつっかえ棒に成り下がっている。そのひどく無様で、すきとおった無意味さが、わたしという存在にたまらなく似合っていると思った。
なんでも思い通りにできる奥底のシステムよりも、泥に突き刺さる一本の木の棒のほうが、ずっと確かな重みを持ってわたしを支えてくれている。
西日が木立の隙間から差し込み、わたしと杖の長く不格好な影が、苔むした地面に伸びては揺れる。
背中の籠には、今日も青い薬草の束が重たく収まっている。ポケットのなかで、銅貨がちゃり、と冷たい音を立てた。
わたしは泥だらけのブーツを引きずりながら、もう一度、白樫の杖を地面に突く。
緑を孕んだ風が吹いて、頭上の羊歯の葉を揺らす。
わたしは杖に体重を預けながら、額の汗を手の甲で拭った。魔法の力を引き出すことはできなくても、泥だらけのこの杖は、わたしがこの世界の石ころとして生き延びるために、確かな摩擦と抵抗を与えてくれている。
身の丈に合わない膨大な力を奥底に沈めたまま、不器用な足取りで、ただ歩く。そんなことが、自分に課せられた使命のように思う。
そのまま杖を強く地面に突き立てて、重い足を引きずりながら、また一歩、光の届かない森の奥へと踏み出していった。




