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第十七片 歪な箱庭と、確かな代謝

 宿屋の廊下の突き当たりにある、薄暗い厠の板戸を押し開ける。

 冷たい隙間風が、足首をひやりと撫でていった。窓のない石造りの床と、ぽっかりと口を開けた深い木の穴。そこには、微かに鼻をつく石灰とアンモニアの匂いが淀んでいて、ここが人間の肉体の果てを受け止めるための、ただの物理的な終着点であることを容赦なく告げている。


 麻のローブをたくし上げ、下着を下ろして、冷たい木の縁にしゃがみ込む。

 そのとき、指先に触れた下着の生地の、あまりにも滑らかで繊細な感触に、わたしはいつも奇妙な違和感を覚える。


 この世界は、どこかひどく歪な形をしている。

 裏庭の井戸から汲み上げる水は、白雲母の板を通したように透き通って清潔だし、街の飾り窓に並ぶ装飾品の細工は、それこそ天の川の星屑を繋ぎ合わせたかのように精巧だ。道ゆく娘たちの纏う衣服の意匠は無駄に洗練されていて、昨日すれ違った書物を抱えた娘などは、よく似合う細い銀縁眼鏡をかけていた。


 そもそも宿の窓ガラスの存在だってそうだ。まるで、誰かの見ている青い幻燈のなかで、可憐な少女たちをより美しく舞台の上に立たせるためだけに、特定の技術だけが異様な速度で発達してしまったような、ひどく都合のいい箱庭。


 それなのに、この薄暗い厠には、元の世界にあったような、陶器でできた白い便座も、あたたかい水で柔らかな粘膜を洗い流してくれる機械も存在しない。あるのはただ、底知れない暗い穴と、身を屈めるための粗末な木の板だけだ。

 可憐な美少女たちも、威厳ある魔法使いも、みんな等しくこの薄暗がりで裾を捲り上げ、ひどい臭いをさせながら汚物を穴の底へ落としている。そのアンバランスな光景を想像すると、わたしはなんだか少しだけおかしくなってしまうのだ。


 冷たい空気に肌をさらしながら、ほう、と白い息を吐く。

 からだの奥底で、昨日食べた硬い黒パンや、あの塩気の強い琥珀のシチューが、途方もない時間をかけてどろどろに溶かされ、不要なカスとなって体外へ排出されていく。その、ひどく生々しくて、すこしばかり嫌な音を伴う生命の営みが、しんと静まり返った狭い空間に落ちていく。


 わたしは、排泄をしている。

 奥底に眠る能力を持ち、指先ひとつで世界の理すら書き換えられるはずのわたしが、こうして毎日、冷たい木の板の上にしゃがみ込み、自分のからだからひり出される汚物と向き合っている。

 力を解放して、胃袋の中身をまるごと真空の彼方へ消し去ることも、あるいは食事という行為そのものを不要な、水晶や瑪瑙のような永遠のからだに作り変えることだって、きっとできるだろうに。ただこうして、食べたものを消化し、腐敗させ、排泄するという泥臭い管としての機能を、ひどく律儀に繰り返している。


 それはつまり、わたしの中で「代謝」が起きているという、揺るぎない事実だ。

 細胞が古いものから新しいものへと入れ替わり、心臓が血液を送り出し、酸素を燃やして灰を作る。わたしの時間は、この魔法に満ちた異世界にあっても、決して止まってはいない。髪は少しずつ伸び、爪は硬くなり、そして、ほんのわずかながら、確実に「老い」に向かって進んでいる。


 世界の恩恵という名のチートをすべて切って森を歩けば、背中にじっとりと嫌な汗をかく。

 食事をとらなければお腹が減り、飲み込んだ水は形を変えて排泄される。

 わたしという現象は、この見知らぬ世界の泥臭い物質を絶えず取り込み、そして吐き出し続けている、ただの有機的な管にすぎない。

 ひどく当たり前で、重力に縛られた事実の連なりに、わたしも当てはまっている。


 暗い穴の底へ落ちていく自分の残滓の音を聞きながら、わたしは自分の膝をきつく抱え込んだ。

 都合よく歪められた箱庭の世界で、美しく縁取られた下着を身につけたまま、ただの生物として確実に老いていく自分。その滑稽な矛盾が、どうしようもなくわたしを安心させる。

 なめとこ山の冷たい雪の上で、撃たれた熊が最後に静かに息を引き取ったように。

 わたしもまた、いつかは必ず土に還り、あのひどく美しい桔梗色の空気を構成する、ただのちいさな塵になれるのだ。システムのエラーでも、神様でもなく、ただの脆くて不完全な生き物のひとつとして、この世界の巨大で泥臭い循環の輪のなかに、きちんと回収してもらえる。


 粗末な紙で汚れを拭き取り、身支度を整えて、薄暗い厠を出る。

 廊下の小窓からは、月長石のように青白く光る月が、冷たい夜の街の屋根を照らしているのが見えた。胃の腑が空っぽになったからだは、すこしだけ軽く、そしてほんのすこしだけ冷えている。


 永遠に死ねない幽霊としてこの世界を漂うのではなく、ちゃんと寿命という名のすり減る靴を履いて、死へ向かって歩いているのだという確信を持って軋む階段を上る。

 そしてコップに一杯の冷たい水を飲んで、またあの硬いベッドの上に丸くなる。

 誰にも見つからない静寂のなかで、終わりの日までのながいながい時間つぶしを生きていく。

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