第十六片 緑の香草と、沈黙のスプーン
いつものように、一階の喧騒から逃れるようにして厨房に面したカウンターのいちばん端っこに座っていた。
「おまちどうさま」
春の小鳥が囀るような、あの耳馴染んだ声。それと同時に、目の前にことりと木製のどんぶりが置かれた。視線を落とすと、今日の琥珀色のシチューの表面には、いつもは入っていないはずの、細かく刻まれた鮮やかな緑色の香草がぱらぱらと散らしてあった。熱い湯気に乗って、すこしだけツンとするような、でもどこか甘みのある清涼な匂いが鼻をくすぐる。
ふと顔を上げると、十にも満たないはずの娘が、お盆を胸に抱えたまま、内緒話でもするみたいに少しだけ身を乗り出していた。彼女の灰色の瞳が、いたずらっぽく細められる。
「今日は、すこしだけおまけね」
声には出さず、唇の動きと表情だけでそう告げて、彼女はえへへとはにかんだ。
その瞬間、わたしの胸の奥で、心臓がどきりと嫌な跳ね方をした。
昨日、冷たいシーツのなかで暗闇を見つめながら、この街の泥にまみれた性や、彼女たちの夜の顔について勝手な想像を巡らせてしまったせいだろうか。目の前で笑う彼女のその表情が、ただの無邪気な子供のものではなく、ひどく艶めいた、何かを知り尽くした大人の女のように錯覚してしまったのだ。
細められたまなじりの角度、ふわりと持ち上がった唇の端。そこには、ただの「宿の娘」という役割を超えた、明確なわたしという個人に対する親愛の情と、微かな媚態のようなものが混じっているように見えた。
気のせいかもしれない。わたしの歪んだレンズが勝手に作り出した、ただの青い幻燈のノイズなのかもしれない。
それでも、わたしはこの不意に差し出された「特別扱い」の前に、どうしようもなく狼狽していた。
嬉しい、という感情のさざ波がなかったわけではない。
この広くて冷たい異世界で、誰かがわたしの顔を覚え、好意を持って、ほんのわずかでも器の中を豊かにしてくれようとした。そのささやかな熱は、確かにわたしのひもじい心を撫でた。
けれど、それ以上に。
この香草の散ったスープを笑顔で受け入れてしまえば、わたしたちの間に、ただの「客と宿屋」という透明な境界線を越えた、何か新しい名前のつく関係性が生まれてしまう。
「いつも来てくれる、無口だけど優しいお客さん」と「特別にサービスをしてあげるお気に入りの娘」。そういう、あたたかくて重たい網目の中に組み込まれてしまうこと。
それはわたしにとって、重い鉄の輪を首にはめられることと同じくらい息苦しいことだった。
他者の人生の端っこに、自分の居場所を作ってはいけない。
一度でも名前のある関係を結んでしまえば、次からは挨拶を返さなければならなくなる。彼女が悲しそうな顔をしていれば理由を聞かなければならなくなるし、もし彼女の身に危険が迫れば、奥底に眠る力を使ってでも助けなければならないという強迫観念に駆られてしまうだろう。
だから、今ここで明確に拒絶すればいいのだろう。
「余計な真似はしないで」「頼んでもいないものを入れてほしくない」と、冷たい声で突き放し、銅貨を叩きつけて席を立てば、彼女は傷つき、二度とわたしに近づこうとはしなくなる。わたしの完璧な透明さは守られる。
なのに、わたしは木のスプーンを握りしめたまま、微動だにできやしない。
他人を傷つけ、明確に拒絶の意思を示すこと。そんなことにだって、途方もない感情のカロリーとストレスが必要だから。
彼女の灰色の瞳に浮かぶであろう困惑や、傷ついたような怯えの光。それを真正面から受け止めて、波風の立った空気を背中に浴びながら階段を上る勇気が、わたしにはない。悪者になることすら億劫で、ただ流されるままに他人の厚意を胃袋に収め、ずるずるとこの居心地の良いぬるま湯に浸かり続けるだけの、どうしようもなく怠惰で臆病な生き物。
結局、わたしは何も言えなかった。
突き放すことも、ありがとうと微笑み返すこともできず、ただ曖昧に目を伏せて、ぎこちなく小さく一度だけ会釈をした。
彼女はそれを見て、嬉しそうにぱたぱたと足音を立てて厨房の奥へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、わたしはゆっくりと、緑の香草が浮いたシチューを口に運ぶ。口の中に広がる風味は確かにいつもよりずっと複雑で、美味しかった。けれど、その美味しさと同じくらい、胃の腑に落ちていく重たい鉛のような感覚があった。
拒絶するエネルギーすら持ち合わせないわたしは、こうして誰かの小さな好意を、ただ流されるままに飲み込んでいく。
そうやって、少しずつ、少しずつ、この世界の粘り気のある生活という泥に絡め取られていくのだろう。無敵の力を隠し持ちながら、ただの少女の笑顔ひとつ突き放せない自分の弱さが、ひどく滑稽で、哀しかった。
それでも、わたしは無言でどんぶりを空にする。どんぶりの底には、ほんの少しの香草の欠片が、星屑のようにへばりついて残っていた。




