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第十五片 純潔の不浄と、無菌の鍵

 夜の底が深くなると、一階から響く喧騒の質が、夜の深まりと共に変質していく。

 賑やかな怒号が波のように引き、代わりに、粘り気のある低い笑い声や、、ひどく内緒話めいた囁きが、床板の隙間から這い上がってくるようになる。


 冷たいシーツにくるまりながら、わたしは暗闇の中でじっと目を凝らしていた。あの美しい銀髪の少女の姿が、まぶたの裏でちらちらと青い燐光のように明滅して消えないのだ。

 彼女が「性奴隷」として消費されるための商品なのだとしたら、この桔梗色をした見知らぬ世界において、性というものの価値観は、いったいどうなっているのだろう。

 わたしは暗い部屋のベッドの上で膝を抱えながら、そんな、自分には一生縁のないであろうひどく生々しい事象について、ぼんやりと思い巡らせていた。

 元の世界の、あの清潔でひどく窮屈な道徳とは違う、もっと生々しくて、泥にまみれたむき出しの欲望のやり取り。


 ひょっとしたら、とわたしは思う。

 あの、透き通ったガラス玉のような灰色の瞳をした、美しくて静かな女将さん。彼女だって、夜更けに酒場の分厚い木の扉に鍵を下ろしたあと、客の引いたカウンターの陰や、厨房の隅の湿った寝台で、馴染みの男たちを相手に、その身体を無造作に開いているのかもしれない。

 銀貨数枚の冷たい重みと引き換えに、すっぱい果実酒と獣の脂の匂いが染み付いた男たちの重い呼吸を受け入れている。あの凪いだ水面のような平坦な表情の裏側で、生活という名のひどく重たい修羅を飼い慣らしながら、汗にまみれて息を弾ませている彼女の姿を想像してみる。


 そして、その女将さんの足元をちょこちょこと走り回り、熱いシチューのどんぶりを運んでくれる、可愛らしいちいさな娘さんも。

 金剛石みたいにきらきらと笑うあの無邪気な瞳の奥には、もしかしたら、もうとっくに大人の欲望の泥が沈殿しているのかもしれない。清らかな純潔など、空腹を満たしてはくれないのだから。彼女のあの小鳥が囀るような愛らしい声も、屈託のない笑顔も、生き延びるために身につけたただの処世術で、その小さなからだは、とうの昔に誰かの手垢にまみれて、処女の膜なんてとっくに破り捨てられているのかもしれない。



 わたしは、シーツの下で自分の冷たい両足をすり合わせた。

 彼女たちの夜がどれほど汚れていて、どれほど残酷な仕組みのなかで回っていようと、それはけっして罪悪でも不浄でもない。ただの、すきとおったほんとうの生活のひとコマなのだと思う。

 むしろ、そうやって誰も彼もが泥のなかでもがきながら、銀貨の音と一緒にそれぞれの悲惨さを売り買いして生きているかもしれないという勝手な妄想は、わたしを奇妙なほどに安心させた。


 一方で、この世界が歪に、美少女というものを優遇する世界だからこそ、星めぐりの歌に出てくるような、どこまでも清らかで傷のない魂だって存在するのかもしれない。

 いや、何かをすり減らし、何かを奪われながら、ただ呼吸を繋ぐためだけに這いつくばっていてなお美しい魂だって。

 女将さんの夜の秘密も、娘さんの失われた純潔も、ただの当たり前の風景の一部として、わたしは尊いと思う。

 それに比べて、万能の能力を隠し持ちながら、上から目線でそんなことを思う私の醜さと言ったらない。


 ぎい、と、建物のどこかで古木が鳴る音がした。

 誰かがベッドを軋ませる音なのかもしれないし、ただ風が吹き抜けただけかもしれない。

 わたしはベッドから身を乗り出し、重い木の扉の鍵がしっかりと二重にかかっていることを、暗闇のなかで指先を這わせて再確認した。

 金属の冷たい感触が、わたしの閉じた世界を確かに守ってくれている。階下で誰が誰と絡み合い、どんなふうに銀貨が手渡されていようとも、この扉の内側だけは、完全に無菌で、完全に空っぽであるようにと。


 わたしは誰の体温も求めないし、誰の悲劇も買わない。

 ただ、自分のからだの輪郭だけを抱きしめて、この冷たくて静かな部屋のなかで、誰にも知られない路傍の石ころとして、透明な朝を待っている。

 いつか、自分という透明な現象が、誰の記憶にも染みを残さず消えますようにと息をひそめながら。

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