第十四片 白紙の地図と、行き先のない自由
もしもこの街に、取り返しのつかない巨大な理不尽が押し寄せてきたら、わたしはどうするだろうか。
たとえば、空を覆い尽くすほどの魔物の群れが、黒い雲のようにこの辺境の街へなだれ込んできたら。あるいは、このひどく都合よく歪んだ箱庭を統べる権力者たちの醜い争いに、一階で琥珀色のシチューを煮込んでいるあの美しい女将さんと、金剛石のように目をきらきらさせた娘が巻き込まれてしまったとしたら。
この世界の「物語の主人公」であるならば、きっと迷わず立ち上がるはずだ。隠し持っていた圧倒的な能力を解放し、青白い有機交流電燈の眩い光で悪を薙ぎ払い、彼女たちを、そしてこの街を危機から救い出すのだろう。みんなのほんとうのさいわいのために、自分の身を挺して戦うはずだ。
けれど、わたしは世界を救う物語を紡ぐ位置には居ないから。
広場で重い鉄の輪に繋がれていた、あの碧色の瞳をした奴隷の少女すら、目を伏せて見捨てたわたしだ。胸の奥でちいさな修羅がどんなにざわざわと苦い唾液を吐き散らそうとも、わたしは他人の悲劇のために自分の平穏を差し出すことなんてできない。
だからわたしはきっと、誰にも気づかれないうちに、この埃っぽい三階の部屋に硬い黒パンの欠片を残したまま、部屋を飛び出して、街の外から魔物たちを全滅させて。
そしていとも簡単に、別の国へと立ち去ってしまうのだろう。
意識の奥底にある冷たい石室の南京錠を、ほんの数ミリだけ開く。「転移」と、脳髄の裏側で念じるだけでいい。それだけで、血と悲鳴の匂いが充満する凄惨な舞台から、瞬きする間に遠く離れた安全な場所へ、無傷のまま抜け出すことができる。残された人々がどうなろうと、絡み合った因果をあっさりと断ち切って、別の見知らぬ街の、似たような薄暗い宿屋のベッドの上へ転がり込むのだ。
ひどく薄情で、狡猾で、救いようのない臆病者。
けれど、ふと窓の外の桔梗いろの空を見上げて、気づく。
わたしは、この世界にやってきてからただの一度も、「地図」というものを見たことがない。
街の東に広がる森の、そのずっと奥に何があるのか。先日眺めていた川を下れば、どんな国境が引かれているのか。わたしはなにひとつ知らない。ただ自分の足元にある冷たい石畳と、毎日通う薄暗い斜面のことしか知らない。
わたしが隠し持っているこのバグめいた力は、元の世界でジョバンニが上着のポケットに忍ばせていたような、どこまででも行ける銀河の通行券だ。空間を飛び越え、時間を無視し、どんな理不尽な国境線すらもすり抜けてしまえる、絶対的で暴力的な片道切符。
なのに、わたしには向かうべき白鳥の停車場も、目指すべきサウザンクロスの美しい十字架も見えてはいない。
白紙の地図。
どこへでも逃げられる圧倒的な自由は、どこにも行く場所がないというひどく空虚な事実と、ぴったり背中合わせに張り付いている。わたしには、この世界で「ここではないどこか」を渇望するだけの理由も、守りたい故郷も存在しないのだから。
それでもいい、と思う。
わたしは、誰かの闇を照らす燃えるよだかの星にはなれないし、なりたくもない。ただ、自分のこのすきとおった輪郭を守るためだけに、見知らぬ国から見知らぬ国へ、白紙の地図の上を当てもなく漂う、みっともない路傍の石ころのままでいい。
いつものカップの底に残った白湯を、ゆっくりと喉に流し込む。
窓の外では、今日も昨日とまったく同じように、荷馬車の車輪が石畳を重く軋ませている。このひどく退屈で平和なノイズが続いている限り、わたしはこの部屋の隅で、行先の書かれていない切符を固く握りしめたまま、今日も誰にも知られない路傍の石ころとして息を潜めている。




