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第十二片 鉄の鎖と、碧色の瞳

 朝から、屋根を叩く細い雨の音が聞こえる。

 今日という一日を、わたしはこの軋むベッドの上で、丸まった毛布の海に沈んだまま消費することに決めた。冒険者ギルドで依頼の掲示板を眺めることも、泥まみれになって薬草を探すこともしない。ただ、冷たい部屋の空気を肺に出し入れしながら、薄暗い天井の木目をぼんやりと数え続ける。


 昨日、街の広場を横切ったときに見かけた光景が、まぶたの裏に青い幻燈のようにこびりついて離れない。


 みすぼらしいぼろ布を纏い、首には不釣り合いなほど太い鉄の輪を嵌められた、ひとりの少女。透きとおるような銀色の髪と、銀河の果ての星屑を砕いて集めたように透き通った碧色の瞳。泥にまみれた頬や、細く折れそうな手足すらも、彼女が本来持っているだろう圧倒的な美しさを隠しきれていなかった。

 誰かがわざわざ丹念に削り出したような、悲劇的で、完璧な「美少女奴隷」。いかにも、特別な力を持った何者かが手を差し伸べ、救い出し、そして彼女の世界のすべてを作り変えてあげるための、おあつらえ向きの舞台装置。


 この世界の主人公と呼ばれるような人間なら、きっと迷わず財布の底を叩くか、あるいはその理不尽な力を行使して、悪辣な商人を蹴散らし、彼女を買い取るのだろう。

 そしてこの埃っぽい三階の部屋に連れ帰り、あのあたたかいシチューを与え、柔らかい毛布で包み込んで、彼女が流す銀の涙を指先で優しく拭ってやる。

 彼女は首輪を外すことを拒み、わたしのための奴隷でありたいと懇願する。わたしのために働き、やがてはかけがえのない、たったひとりの同伴者になる。

 美しくて可憐な、絶対的に裏切らない従者。それはきっと、この孤独で退屈な日々を彩る、ひどく甘美な慰めとなるのだろう。


 その碧色の瞳と、ほんの一瞬だけ視線が交差した瞬間。喉の奥が引き攣り、気づいたときには、わたしはもう逃げていた。からだが勝手に路地の角へと向いていた。


 底なしの臆病者であるわたしにとって、誰かの人生を丸ごと背負い込むということがどれほど重くて恐ろしいことか。

 もし彼女を救い出してしまったら、この静かで湿った四角い部屋に、他者の呼吸が入り込んでしまう。わたしが息を吐くたびに、彼女が息を吸う。わたしの何気ない一言で、彼女の表情が揺れ動く。彼女の喜びも、悲しみも、そしてわたしへ向けられるであろうそのひどく重たい献身も、すべてを一心に背負わなければいけなくなる。

 そんな途方もない責任を、どうしてこのわたしが負えるだろう。わたしは、ほんとうの神様でもなければ、どこまでも一緒に銀河を旅してくれる切符を持ったカンパネルラでもなくて。ただ自分の痛みにしか敏感になれない、ちっぽけで臆病な石ころにすぎない。


 毛布の中で、自分の両腕をきつく抱きしめる。

 あの少女が今頃、冷たい檻の中でどれほど絶望していようと。誰かの暴力に怯え、声も出せずにひっそりと泣いていようと。わたしは、まっ赤な火を燃やして誰かの足元を照らすような、立派な星にはなれない。


 見殺しにすることへの微かな罪悪感は、たしかにある。後味の悪さを忌避して、隠れた親切というものを働いたことだって一度や二度ではない。そう思うと、悲劇の奴隷を救ったっていいじゃないかと、胸の奥で、ちいさな修羅がざわざわと苦い唾液を吐き出しはじめる。

 それでも、それでも。自分の精神の静寂が他者によって侵食される恐怖に比べれば、その程度の後味の悪さからは、いくらでも目を背けることが出来てしまう。

 わたしは誰かに救いの手を差しのべる清らかな聖女にはなれない。みんなのほんとうのさいわいのために、自分の身を燃やし尽くすこともできない。


 他人の物語の登場人物になるくらいなら、いっそ、誰の記憶からも欠落したまま、暗い石炭袋の底へひとりで沈んでいくほうがずっといい。


 遠くで、また微かに鎖の音がしたような気がした。

 幻聴だ。わたしは両手で耳をきつく塞ぎ、硬いベッドの軋む音だけを数える。彼女を待ち受ける地獄も、彼女を救うかもしれない誰かの英雄譚も、この静かな箱庭の外側で起きている、ただのノイズでしかないのだと言い聞かせて。


 世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない。むかし聞いたその壮大な呪いから逃げるように、わたしは耳を塞ぎ続ける。

 わたしがどこでどう生きようと、あの少女を見捨てようと、この巨大な異世界の歯車は、今日も何事もなかったように重々しく回り続けている。

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