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第一片 三階の部屋と、桔梗いろの空

物語よ、どうか始まらないでと願いながらその手で白湯をあたためる。

――これはチート能力を持ちながらも、なにも始めない少女の日々です。

 わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。という言葉を覚えている。どこで覚えたのかは、忘れたけれど。前の世界の、国語の教科書だったか、図書室の隅の埃っぽい本だったか。

 いまのわたしはまさしくそれだった。この脈絡のない異世界に突然パチリと点灯させられた、規格外のワット数を持った、いびつで青い光。


 宿屋の三階、階段を上がって一番奥にある、少し埃っぽい匂いのする部屋。そこがわたしの世界のぜんぶだ。窓からは、見たこともない形をした塔や、馬車のようなものがひっきりなしに行き交う石畳の通りが見えるけれど、わたしはただ、それを上からぼんやりと眺めているだけ。


 指先を少しこすると、ぽっと小さな火が灯る。冷めてしまった白湯の入ったカップの底を、その火でそっと炙る。わたしには、この世界の人たちが一生かかっても手にできないような、途方もない力があるらしい。魔法というのか、スキルというのか、そういうもの。世界をひっくり返したり、魔王と呼ばれるような存在をあっさり消し飛ばしたりできるほどの超常のちから。でも、そんな大きな力を持っていたって、結局のところわたしがやりたいのは、こうして自分の白湯を温め直すことくらいなのだ。


 誰かと関わるのがこわかった。この力が誰かに見つかって、誰かの都合のいいように使われ、わたしがわたしでなくなってしまうのが嫌だった。だから、なるべく息をひそめて、空気みたいに透明になって、この小さな四角い部屋の中だけで生きていくことに決めた。


 夜になると、窓の向こうには桔梗いろの空が広がって、どこまでも透き通った風が吹いてくる。風が窓ガラスを揺らす音を聞きながら、わたしは毛布にくるまる。階下の酒場からは、冒険者たちの荒々しい笑い声や、ジョッキがぶつかる音が響いてくる。賑やかに笑うその声たちは、まるで別の水底の出来事みたいで、わたしにはとても遠い。


 ほんとうのさいわいは一体どこにあるんだろう、と時々考える。世界を救って英雄になることだろうか。たくさんの人に愛されて、囲まれて生きることだろうか。わたしにはわからない。ただ、そんなふうに誰かのために自分をすり減らして、ついには燃え尽きて夜空の星になってしまうよだかの姿を想像すると、胸の奥がぎゅっと苦しくなるのだ。わたしはそんなに立派にはなれないし、なりたくもない。


 朝起きて、顔を洗い、昨日と同じ硬いパンを囓る。宿の女将さんとも目を合わせずに銅貨を渡し、また部屋に戻って鍵をかける。その繰り返し。それはとても退屈で、ひどく無駄な日々に思えるかもしれない。でもわたしにとっては、この何事も起きない静けさこそが確かな生活であり、ひとつの楽園だった。


 雨にも負けず、風にも負けず、絶対に傷つかない丈夫なからだを持ちながら、東に病気の子供がいれば行って看病してやることもなく、西に疲れた母がいれば行ってその荷物を負うこともない。わたしはただ、誰からも褒められず、苦にもされず、この部屋の隅で石ころのようにひっそりと息をしている。


 ときどき、夢を見る。元の世界で、地下鉄に揺られながら見ていた暗いトンネルの景色。あの頃も、わたしはどこか遠くへ行きたいとばかり思っていた。そして今、こんなにも遠い別の世界にまで来てしまったのに、けっきょくわたしは、小さな部屋のベッドの上に丸まっている。いつだって、自分のいる場所以外が遠い場所なのだと気づくのは、ずっとあとのことだった。


 カップの底の、少し温まった白湯を飲み干す。湯気の立つ透明な温度が、胃の辺りに落ちてじんわりと染み渡っていく。今日は少しだけ、窓を大きく開けてみようかと思う。外の空気は冷たいけれど、銀河を流れる青い星の光が、もしかしたら、この暗い部屋の隅っこまで届いてくれるかもしれないから。


 明日もきっと、物語は起こらない。ただ静かに、この部屋で呼吸をしているいきものがいるだけの日々。それでも、わたしがここに生きているというただそれだけのことが、誰にも知られないままこの世界に透きとおっていけばいいなと、そんなふうに思っている。

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