第9話 小事件
その日は、朝から空気が重かった。
雲が低く垂れ込め、街全体が薄い膜に包まれているような感覚。音がくぐもり、人の声もどこか遠い。嫌な予感、というほど強いものではない。ただ、落ち着かない。
ギルドに入ると、いつもより人が多かった。
「……何かあったんですか」
受付に向かう途中で、思わず呟く。
リーナが、すぐに気づいて声をかけてきた。
「アルトさん。今日は、少し……」
「忙しそうですね」
「ええ。小さいですけど、重なってて」
小事件、という言葉が頭をよぎる。
「依頼は――」
「今日は、無理に受けなくていいです」
「……え?」
即答だった。
「街の中で、いくつか問題が起きていて。人手は足りてますけど……」
リーナは一瞬、言葉を選ぶ。
「アルトさんが動くと、余計に目立つかもしれません」
それは、配慮だ。
けれど同時に、「動かない方がいい」という判断でもある。
「じゃあ、帰ります」
「はい。今日はそれが――」
そのときだった。
外から、ざわめきが流れ込んできた。
悲鳴ではない。怒号でもない。だが、確実に“問題が起きた”とわかる音。
「……来たか」
ギルド長の低い声。
扉が開き、冒険者の一人が駆け込んでくる。
「東区の通りで揉め事です! 露店同士が!」
露店同士。
魔物でも、犯罪でもない。だが、人が集まる場所での揉め事は、拗れると危険だ。
「原因は?」
「荷車がぶつかって、商品が壊れたとか……人が集まり始めてます」
ギルド内が、わずかにざわつく。
だが、誰もすぐには動かない。武器を持ち出すほどの話ではないからだ。
俺は、無意識に一歩引いた。
――関わらない方がいい。
そう思った瞬間、リーナと目が合った。
彼女は、迷っている顔をしている。
「……アルトさん」
「はい」
「お願い、ですから、前には出ないでください」
その言葉で、決まった。
「わかりました。外で様子だけ見ます」
“見るだけ”。
それなら、条件違反にはならない。
俺はギルドを出て、東区へ向かった。
通りには、すでに人だかりができていた。
露店の男二人が言い争い、周囲がそれを煽るように声を上げている。荷車は横倒しになり、箱が散乱している。
「お前のせいだろ!」
「そっちが急に割り込んだんだ!」
怒鳴り声。
近くの客が不安そうに後ずさる。
――近づきすぎると、巻き込まれる。
俺は、人の流れを見た。
逃げ道。
詰まり。
誰が一番危ない位置にいるか。
露店の脇で、子どもが一人、立ち尽くしているのが見えた。
親とはぐれたのか、動けずにいる。
俺は、そっと位置を変えた。
争っている二人の視界には入らないように。
だが、子どもと人混みの間に入る。
「……?」
誰も俺に気づかない。
次の瞬間、怒鳴っていた男の一人が、勢い余って荷車を蹴った。
倒れていた箱が弾かれ、転がる。
――危ない。
俺は、子どもの肩に手を置き、軽く引いた。
一歩だけ、後ろへ。
箱は、その直前にあった場所を通り過ぎ、地面にぶつかって止まった。
「……え?」
子どもが、きょとんと俺を見る。
「だいじょうぶだよ」
それだけ言って、俺はすぐに離れた。
前に出ない。
目立たない。
だが、流れは変わっていた。
「おい、今の見たか?」
「子ども、危なかったぞ」
「誰か引いた……?」
周囲の声が、怒りから困惑へ移る。
露店の男たちも、言い争いを止めた。
視線が、荷車と箱、そして周囲の人々へ向く。
「……俺たち、何やってたんだ」
「……すまん」
空気が、急速に冷えた。
そこへ、ようやくギルドの冒険者が到着する。
「解散だ。問題は片付いた」
人だかりは、嘘のように散っていった。
俺は、端で立ったまま、深く息を吐く。
――よかった。何も起きなかった。
そのとき、背後から声がした。
「……今の」
振り返ると、ブラムがいた。
「お前、何をした」
「……何も」
本心だった。
「嘘はついてないな」
彼は、ゆっくり言った。
「だが、“何も起こらなかった”の中心に、お前がいた」
遠くで、ギルド長がこちらを見ていた。
視線が合う。
彼は、何も言わず、ただ一度だけ頷いた。
その意味を、俺はまだ理解できない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
俺は戦っていない。
命令もしていない。
怒鳴ってもいない。
それでも、小さな事件は終わった。
――逃げる選択をしたはずなのに。
その帰り道、ノクスさんが静かに言った。
「被害ゼロ。負傷者ゼロ。混乱収束」
「……はい」
「これ以上ない結果だ」
胸が、重くなる。
「俺は……前に出てません」
「知っている」
ノクスさんは、少しだけ目を細めた。
「だからこそ、厄介だ」
小事件だった。
記録に残せば、数行で終わる。
だがこの日を境に、
“アルトは何もせずに事態を終わらせる”
という評価が、はっきりと言語化され始めた。
俺はまだ知らない。
この一件が、
「放置してはいけない」という結論に、
最後の一押しを与えたことを。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




