第4話 違和感
翌朝、目を覚ますと、胸の重さは消えていた。
夢は、いつもそうだ。起きてしまえば現実感は薄れ、曖昧な輪郭だけが残る。俺は布団を畳み、顔を洗い、いつも通り井戸の水を汲んだ。冷たい水が指先に染みて、頭がはっきりする。
――大丈夫だ。
昨日は、少し疲れていただけだ。
朝の稽古が始まると、いつもの日常が戻ってきた。ユリウスが剣を振り、セラおばさんが構えを正し、マリエさんが理屈を添える。俺はその中で、一番遅れ、一番注意される。
「アルト、踏み込みが浅い」
「はい」
「考えすぎ」
「……はい」
考えすぎ。外の世界を見て、少し気負っているのかもしれない。俺は呼吸を整え、木剣を握り直した。
それでも、昨日と同じように体は動いた。
無駄に力を入れず、滑る場所を避け、足場のいいところを選ぶ。ただそれだけだ。
「……止め」
ハロルド爺さんが手を挙げた。
ユリウスが息一つ乱さず剣を下ろす。一方で、俺は軽く汗をかいていた。やっぱり差はある。
「どうだ」
爺さんが聞く。
「昨日より、少し楽です」
「そうか」
それ以上、何も言わない。評価されないのは慣れている。出来が悪いのだから仕方ない。
稽古が終わると、ノクスさんが現れた。相変わらず気配が薄い。
「今日も行く」
「はい」
村の人たちは、何も言わずに見送った。だけど、その視線はどこか静かで、重い。昨日まで気にしたこともなかったのに、今日は妙に意識してしまう。
森の境を越え、街道へ出る。昨日と同じ道、同じ景色。けれど、足取りは少し軽かった。理由はわからない。
「昨日の件だが」
歩きながら、ノクスさんが言った。
「はい」
「次からは、石を蹴るな」
「……はい?」
思わず足が止まる。
「えっと、あれは本当に偶然で……」
「偶然でもだ」
「……?」
ノクスさんは立ち止まり、こちらを見る。
「お前が“選んだ”結果だという事実は変わらない」
「選んだ、ですか?」
「蹴らないという選択も、前に出るという選択もあった」
俺は言葉を失う。
そんなふうに考えたことはなかった。
「だが、お前は“一番被害が少ない行動”を選んだ」
「……無意識です」
「だから厄介だ」
厄介、という言葉が胸に引っかかる。
俺は、厄介な存在なのか。
街に入ると、昨日より視線を感じた。気のせいだと思おうとしても、確かに何人かがこちらを見て、ひそひそと話している。
「……?」
首を傾げる俺に、ノクスさんは何も言わない。
ギルドの前に着くと、扉が開く前から声が聞こえた。
「昨日の新人、覚えてるか?」
「森狼の話の?」
「荷運び一人で終わらせたって」
嫌な予感がする。
中に入ると、リーナがこちらを見て、目を丸くした。
「あ、アルトさん」
「おはようございます」
「もう来たんですね」
それだけなのに、周囲の視線が集まる。昨日とは明らかに違う。
「今日は何を?」
「昨日と同じ、軽い依頼を……」
掲示板を見ようとした瞬間、背後から声がかかった。
「待て」
ブラムだ。昨日の冒険者。今日は腕を組み、真剣な顔をしている。
「アルト、だったな」
「はい」
「昨日の話、確認した」
周囲が静かになる。
「森狼、確かに倒れていた。頭部損傷。だが、爪の先が欠けていた」
「……?」
「小さな衝撃が、着地を狂わせた痕だ」
俺は背中に冷たいものを感じる。
そこまで、見ているのか。
「石だろ」
「……たまたまです」
「だろうな」
ブラムは、なぜか納得したように頷いた。
「運が良すぎるだけだ」
その言葉に、周囲がざわつく。
「運?」
「それだけで済むか?」
「いや、あいつ……」
評価が、勝手に動き始めているのがわかる。
俺は何もしていないのに。
「アルトさん」
リーナが、小さな声で言った。
「今日は、少し奥の部屋で手続きしましょう」
奥? 昨日は使っていない部屋だ。
「どうして……」
「……ギルド長が、お会いになりたいそうです」
胸が、どくんと鳴った。
俺はただ、軽い仕事をしに来ただけだ。
それなのに、どうして。
奥の扉の前で、ノクスさんが足を止めた。
「ここから先は、一人で行け」
「え?」
「これは“外の基準”だ」
扉が開く。
重厚な机の向こうに、白髪混じりの男が座っていた。視線が鋭く、しかし穏やかだ。部屋の空気が、ぴんと張り詰めている。
「来たか」
低い声。
「君が、アルトだな」
俺は、ぎこちなく頭を下げた。
「はい……」
男は、じっと俺を見る。
値踏みではない。観察だ。
「安心したまえ」
彼は言った。
「今日は叱るために呼んだわけじゃない」
それが、逆に怖かった。
「君の“基準”を、少し確認したいだけだ」
基準。
また、その言葉。
俺は知らなかった。
この瞬間から、自分の“普通”が、完全に通じなくなっていくことを。
違和感は、もう小さくなかった。
確実に、形を持ち始めていた。




