第33話 いない現場
橋梁点検の日は、朝から曇っていた。
増水期。
川の流れは速い。
足場も不安定。
俺は、現場にいない。
代わりに、ミレルが橋の中央に立っていた。
「工程確認、開始します」
声は、少しだけ硬い。
だが、震えてはいない。
周囲には、いつもと同じ顔ぶれ。
警備責任者。
技師。
作業員。
ただ一つ、違う。
入口に立つ“影”がいない。
サリアは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
記録係として、静かに観察している。
誰も、アルトの名を口にしない。
だが、空気は知っている。
――今日は、いない。
工程は順調に進む。
床板の沈みを確認。
支柱の摩耗を計測。
記録を残す。
ミレルは、手順通りに動いている。
だが、橋の中央に差しかかったとき、
わずかな軋みが響いた。
“ぎし”
誰かが顔を上げる。
流れが、強まっている。
足場が、わずかに揺れる。
ほんの一瞬、全員の動きが止まった。
――どうする。
その問いが、無言で共有される。
ミレルは、橋の縁を見た。
流れ。
荷重。
人の配置。
そして、言った。
「中央から三名、下がってください」
「確認を優先します」
「焦らなくていい」
声は、落ち着いていた。
作業員が動く。
沈みは、広がらない。
再計測。
「許容範囲内ですが、今日はこれ以上進めません」
「応急補強で終わらせます」
責任者が、頷いた。
決断は、早すぎず、遅すぎず。
誰も転ばない。
誰も落ちない。
小さな修正を重ね、
作業は予定より早く終わった。
怪我人なし。
完全無傷ではない。
予定していた補修は一部延期。
だが、誰も傷つかなかった。
橋の上で、全員が静かに息を吐く。
サリアは、その様子を記録していた。
――アルト不在。
――事故なし。
――判断主体、現場責任者ミレル。
帰路、ミレルは橋を振り返った。
少しだけ、足が震えている。
それでも、胸の奥に残るのは後悔ではない。
「……できた」
小さな声。
ギルドに戻ると、ざわめきが広がった。
「無事だったらしいな」
「怪我なしだって」
「よかった……」
誰かが言う。
「やっぱり、最近安定してるな」
一瞬、視線が周囲を巡る。
アルトはいない。
それでも、現場は成功した。
サリアは、静かにギルド長へ報告した。
「確認しました」
「アルト不在でも、運用は成立しています」
ギルド長は、ゆっくり頷く。
「……そうか」
その夜、報告書はそのまま中央へ送られた。
追記はない。
名前もない。
特別な一文もない。
ただ、事実だけが記される。
――現場成功。
その頃、俺は別の軽依頼を終え、
村への道を歩いていた。
空は晴れている。
特別な胸騒ぎはない。
橋がどうなったか、知らない。
だが、なぜか足取りは軽かった。
世界は、俺がいなくても回る。
それを、今日、誰かが証明した。
それで、いい。
誰の名前も必要ない。
普通に回るなら、
それでいい。
風が、静かに吹いた。
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