第25話 基準の外側
ミレルは、その夜、眠れずにいた。
怪我は軽い。
医師にもそう言われたし、実際、大した痛みもない。
それでも、頭の中がざわついていた。
――判断は、正しかったはずだ。
教本通り。
手順通り。
数値も、基準内。
それで怪我をしたのなら、仕方がない。
そう、何度も自分に言い聞かせる。
だが。
どうしても、あの光景が浮かんでくる。
入口付近に立っていた青年。
アルト。
彼は、前に出なかった。
指示もしなかった。
判断を押し付けることもなかった。
それなのに――
まるで、すべてが見えていたかのようだった。
「……おかしいよな」
ミレルは、小さく呟いた。
翌日、ギルドで報告書を提出したあと、
彼は思い切って、年配の技師に声をかけた。
「昨日の現場、どう思いますか」
「どう、とは?」
「……僕の判断」
技師は、少し考えてから答えた。
「正しかった」
「ですよね」
「だから、気にするな」
その言葉に、ミレルは頷いた。
だが、続きがあった。
「ただ」
技師は、声を落とす。
「アルトがいたら、たぶん怪我はなかった」
心臓が、跳ねた。
「……それは」
「責めているわけじゃない」
技師は、すぐに付け加える。
「君の仕事は、普通だった」
普通。
その言葉が、昨日よりも重く感じられた。
「じゃあ……」
ミレルは、慎重に聞いた。
「アルトさんは、普通じゃないんですか」
技師は、即答しなかった。
「普通じゃない、というより」
少し間を置いて、こう言った。
「基準が、違う」
基準。
「我々は、“この程度なら許容”という線で仕事をする」
「怪我ゼロは理想だが、現実的ではない」
それも、理解している。
「だが、彼が関わると」
技師は、静かに続けた。
「その“許容”が、自然と消える」
ミレルは、言葉を失った。
許容が、消える。
「誰も命令していない」
「誰も無理をしていない」
「それでも、事故が起きない」
技師は、苦笑した。
「……便利だろう?」
「はい」
「だから、怖い」
その言葉が、胸に刺さった。
ミレルは、その日の帰り道、歩きながら考え続けた。
自分は、普通だ。
努力して、勉強して、正しい判断をする。
それでも、怪我は出る。
それが、現実だ。
アルトは違う。
努力しているようにも見えない。
特別なこともしていない。
それなのに、結果だけが違う。
「……基準の外側」
ぽつりと、言葉が漏れた。
夜、宿で帳簿を開き、今日の反省を書こうとして、ペンが止まる。
何を反省すればいい?
判断は正しい。
手順も正しい。
それでも結果が違うなら、
それはもう、反省の領域じゃない。
ミレルは、初めて理解した。
アルトという存在は、
誰かの努力を否定するものではない。
ただ――
「普通が許容してきた犠牲」を、
無言で拒否しているだけだ。
それは、
称賛されるべきことなのか。
それとも、世界を歪めることなのか。
答えは、出ない。
だが、一つだけ、はっきりしたことがある。
もし、自分が現場の責任者なら。
――アルトを、前提にはしたくない。
けれど。
――いない状態にも、戻りたくない。
その矛盾を抱えたまま、
ミレルは静かに目を閉じた。
外では、街がいつも通り動いている。
誰かが怪我をし、
誰かが無事で、
誰かが「仕方ない」と言う。
その“普通”の中に、
一人だけ、基準の外側に立つ人間がいる。
そして気づいてしまった者は、
もう二度と、同じ基準では働けなくなる。
それが、
アルトという存在の、本当の影響だった。
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