第2話 基準
森を抜けるまで、俺はほとんど口を開かなかった。
ノクスさんの背中を追いながら、さっきの出来事を頭の中で何度も反芻する。石を蹴った。たまたま当たった。たまたま転んだ。たまたま頭を打った。ただそれだけだ。もし角度が違えば、もし力が強すぎれば、もし――。
考えれば考えるほど、運が良かっただけだという結論に落ち着く。
それなのに、ノクスさんは一度も俺を叱らなかった。危険な真似をした、とも言わない。ただ黙って歩き、時々こちらを確認するだけだ。その沈黙が、妙に落ち着かない。
森を抜けると、景色が変わった。木々が途切れ、なだらかな丘と細い街道が現れる。遠くには石造りの建物が点々と見え、空は村よりも明るい。雲が薄く、光が地面に届いている。
「外だ……」
思わず声が漏れた。
ノクスさんは立ち止まり、振り返る。
「どうだ」
「……思ったより、普通ですね」
「普通?」
俺は慌てて言葉を探す。
「いえ、その……もっと危険で、もっと殺伐としてるのかと」
村で聞かされてきた外の世界は、常に命が軽く、油断すればすぐ死ぬ場所だった。だから、こうして道が整い、人の営みが見えると、拍子抜けする。
ノクスさんは少しだけ目を細めた。
「それは、基準の問題だ」
またその言葉だ。
「基準……?」
「お前は、危険を“危険として処理する”のが早すぎる」
「え?」
「森狼を見たとき、恐怖より先に、どうすれば被害が最小になるかを考えただろう」
言われて、思い返す。確かに、怖かった。でも同時に、「前に出るな」「一歩引け」という言葉が頭に浮かび、体が勝手に動いた。
「それって……普通じゃないんですか」
「違う」
即答だった。
ノクスさんは道の先、街の方角を見る。
「普通の人間は、恐怖に引っ張られる。逃げるか、突っ込むか、どちらかだ。最適な“間”を選べる者は少ない」
最適な“間”。そんな大げさな話だろうか。俺はただ、言われた通りに動いただけだ。
街道を進むと、人影が増えてきた。荷車を引く商人、剣を腰に下げた冒険者、旅装の家族。誰もがそれぞれの目的で歩いている。
すれ違う冒険者の一人が、ちらりとこちらを見て、足を止めた。
「……今、森の方から来たのか?」
「え? はい」
「一人か?」
「いえ、この人と」
ノクスさんは黙って立っている。冒険者は彼を一瞥し、そして俺の持つ木箱に視線を落とした。
「森狼、見なかったか」
「……一匹、倒れてました」
「倒れて?」
冒険者の表情が変わる。
「誰が?」
「えっと……」
言葉に詰まる。どう答えるのが正しいのかわからない。
ノクスさんが代わりに口を開いた。
「事故だ」
「事故?」
「ああ。獣が勝手に死んだ」
冒険者は数秒沈黙し、それ以上追及しなかった。
「……そうか。ならいい。気をつけろよ」
去っていく背中を見送りながら、俺は胸を撫で下ろす。余計なことを言わずに済んだ。外の人間は、色々と面倒そうだ。
「助かりました」
「助けてはいない」
「でも……」
「事実をどう解釈するかは、周囲の仕事だ」
ますますわからない。
街の門が見えてきた。高い石壁と、開け放たれた門。衛兵が立ち、行き交う人々を軽く確認している。活気があり、声が多い。村とはまるで違う。
俺は無意識に背筋を伸ばした。ここからが、本当の外の世界だ。
「ここまでだ」
門の手前で、ノクスさんが立ち止まる。
「え?」
「箱は、門をくぐって左。青い屋根の倉庫に届けろ」
「ノクスさんは?」
「用事がある」
それだけ言って、彼は踵を返した。振り返らない。
「ま、待ってください」
「何だ」
「その……さっきのこと、本当に偶然ですから」
ノクスさんは、少しだけ立ち止まり、肩越しに言った。
「偶然を、偶然のままにしておけるなら、それでいい」
そして今度こそ、去っていった。
俺は一人で門をくぐる。衛兵に木箱を見せ、簡単な質問に答えるだけで通された。拍子抜けするほど簡単だ。
街の中は、音と匂いで溢れていた。焼いた肉の香り、鉄の匂い、人の声。視界が忙しい。情報が多い。少し、疲れる。
青い屋根の倉庫はすぐに見つかった。扉を叩くと、中から壮年の男が出てきた。
「配達か?」
「はい。森の境から」
「ああ……ご苦労」
木箱を渡すと、男は中身も確認せずに受け取った。
「遅延はなかったか」
「いえ。途中で少し……」
森狼の顔が浮かび、言葉を濁す。
「何でもありません」
男は俺を一瞥し、ふっと笑った。
「若いのに、落ち着いてるな」
「そうですか?」
「この辺りじゃ珍しい。大抵は、街に入っただけで浮き足立つ」
そう言われても、実感はない。俺はただ、情報が多いから、無駄に動かないようにしているだけだ。
用事が終わり、倉庫を出る。これからどうしようか。ノクスさんはもういないし、村へ戻るには少し早い。
通りを歩いていると、掲示板が目に入った。冒険者ギルドの依頼だ。魔物討伐、護衛、雑用。報酬は様々だ。
「……これなら」
荷運びの依頼。危険度は低い。距離も短い。俺でもできそうだ。
村へ戻る前に、少しでも外の仕事を経験しておいた方がいい。そう思って、ギルドの建物へ向かう。
扉を開けると、ざわめきが一瞬止まり、また戻る。視線が集まる気がして、居心地が悪い。
「登録か?」
受付の女性が声をかけてくる。優しそうな人だ。
「いえ、単発の依頼を……」
「身分証は?」
「ありません」
「なら、仮登録ね」
手続きは簡単だった。名前を書き、簡単な説明を受ける。俺は、できるだけ目立たないように端の方に立つ。
そのとき、背後から声がした。
「……森の境から来たって?」
振り返ると、さっきの冒険者がいた。周囲にも、何人か耳を澄ませている。
「はい」
「森狼、倒れてたって話、本当か」
「えっと……」
俺は正直に答えようとして、言葉を止めた。ノクスさんの「事故だ」という言葉が頭をよぎる。
「……たまたまです」
「たまたま?」
冒険者は笑った。
「森狼が、たまたま死ぬか?」
「……運が悪かったんだと思います」
何人かが顔を見合わせる。空気が、少しだけ変わった気がした。
「面白いこと言うな」
「運だけで済む話じゃねえぞ」
「いや、こいつ、案外――」
ひそひそと声が交わされる。俺は居心地の悪さに、視線を落とした。
どうしてだろう。
俺は、目立ちたいわけじゃない。
普通に仕事をして、普通に村へ帰りたいだけなのに。
受付の女性が、場を和ませるように手を叩いた。
「はいはい、詮索はそこまで。依頼を受けるなら、正式にね」
彼女は俺を見て、にこりと微笑んだ。
「大丈夫よ。ここでは“普通”でいればいいの」
その言葉に、少しだけ安心する。
――そうだ。外では、普通でいればいい。
俺はまだ知らない。
この街で言う“普通”が、俺にとってどれほどズレているのかを。
そして、この小さな違和感が、静かに広がり始めていることを。




