第19話 小さな回避
その日は、最初から決めていた。
――行かない。
朝、目が覚めた瞬間に、そう思ったわけじゃない。
前日の夜から、なんとなく胸の奥に残っていた違和感を、無視しなかっただけだ。
体調は悪くない。
熱もない。
歩けるし、動ける。
でも、今日は行かない。
理由を探すなら、いくらでもある。
疲れが溜まっている。
少し頭が重い。
連日の立ち会いで、気疲れした。
どれも嘘ではない。
ただ、本当の理由はもっと単純だった。
――このままじゃ、まずい。
ギルドへ向かう道の途中で、俺は足を止めた。
そのまま引き返すこともできたが、一度だけ深呼吸して、扉をくぐる。
「おはようございます」
リーナが顔を上げた。
「おはようございます、アルトさん」
その声は、いつも通りだった。
だからこそ、言いづらい。
「今日は……」
「はい?」
「今日は、依頼を受けられません」
一瞬、空気が止まった。
「……体調ですか?」
「いえ。少し、私用で」
私用。
これまで、ほとんど使わなかった言葉だ。
リーナは、すぐに理由を深掘りしなかった。
「わかりました」
そう言って、帳簿に一行だけ書き込む。
――当日辞退。
それだけだ。
「何かあったら、連絡しますね」
「はい。お願いします」
それで終わり。
引き留めも、説得もない。
拍子抜けするほど、あっさりしていた。
ギルドを出た瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
――これでいい。
俺は村へ戻る道を選ばず、街の外れを歩いた。
川沿いの道。
人通りも少なく、静かだ。
何も起きない。
誰も困らない。
俺がいなくても、世界は回る。
……はずだ。
昼を少し過ぎた頃、遠くで鐘の音が鳴った。
一回。
二回。
緊急ではない。
だが、嫌な予感が背中を撫でる。
俺は、その場に立ち止まった。
――行くべきじゃない。
――呼ばれていない。
それでも、足は自然と向きを変えていた。
王国管理区画。
最近、よく行く場所だ。
遠くからでも、わかった。
人が集まっている。
警備兵の姿。
文官の服。
……何か、起きている。
現場の端で、俺は立ち止まった。
中には入らない。
声もかけない。
聞こえてくる会話だけで、十分だった。
「想定より、作業が遅れている」
「代替案は?」
「……アルトは?」
「今日は、来ていない」
その名前が出た瞬間、胸が締め付けられる。
「仕方ない」
「通常手順で進める」
通常。
それは、正しい判断だ。
だが――
俺の視界には、嫌な配置が映っていた。
資材の置き方。
人の立ち位置。
逃げ道の塞がり方。
――昨日までなら、誰かが気づいていた。
いや。
正確には。
昨日までなら、
「俺がいる前提」で、
誰かが無意識に避けていた。
「……」
喉まで言葉が上がってきて、飲み込む。
前に出るな。
指示するな。
今日は、来ていないことになっている。
数分後、小さな事故が起きた。
資材が崩れ、作業員が転ぶ。
軽傷。
だが、確実な被害。
怒号と指示が飛び、現場は収束に向かう。
俺は、その場を離れた。
足取りは、重い。
ギルドに戻ると、リーナがこちらを見て、少し驚いた顔をした。
「あ……アルトさん」
「はい」
「今日は、お休みじゃ……」
「ええ。もう帰ります」
それ以上、何も言わなかった。
その夜、布団に入っても、眠れなかった。
俺が行かなかったから、事故が起きた。
そう言い切るつもりはない。
でも――
俺が行かなかったことで、
誰かが怪我をしたのは事実だ。
普通に戻りたかっただけだ。
距離を取りたかっただけだ。
それなのに、
“いない”という選択が、
誰かの安全と天秤にかけられている。
小さな回避。
小さな反抗。
その代償は、
思っていたより、ずっと重かった。
俺は初めて、はっきりと思った。
――このままじゃ、
逃げることすら、許されなくなる。
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