ある男の朝
「東の海に 船を浮かべて 誰より早く 朝を迎えに 風が便りを運ぶと言うなら 僕に当てた風は吹いていない」
―ポルノグラフィティ 「シスター」より―
まだ「陽光がさす」というには厳しい時間帯、ベッドの上でグラハムは目を覚ました。不自然な寝方―まるでもう一人が彼の隣にいるような―をしており、無意識に彼が伸ばした手は当然、空を切る。
空を切った手を見つめた彼はため息を一つつき、その先に目をやった。
サイドボード代わりのキャビネット、その上には彼ともう一人の女性が写っている写真がいくつか並び、その女性だけの写真の左右にはろうそく立てと火が消された短い蝋燭―。
彼の妻、エレナがなくなってもう3年がたつというのに、グラハムの心はまだ彼女を手放せずにいた。
いい加減、前を向かねば―。
グラハムも心ではわかっているのだ。故に、振り切れず止まっている。
静かに深い呼吸をして、上体を起こし、徐に窓の外に目を向けると、黎明の東の沖には大型船が汽笛と黒煙を吐きながら、誰よりも早く朝を迎えに来たように進んでいた。
肩や首を回し、少し伸びをした後、ベッドから立ち上がり、薬缶にお湯を沸かす。つい、カップを2つ用意してしまった。
グラハムは片方のマグカップ―エレナがつかっていたーを食器棚にしまおうとして一瞬止まり、逡巡。
思い直したのか彼はそれを自分のマグカップの隣に置いた。
ほどなくしてお湯が沸く。マグカップに湯を注ぐと、嗅ぎなれた、しかし芳醇なコーヒーの薫りがたつ。少し吸い込んで、キャビネットの彼女の写真の前に1つ。
「今日は…お前の好きなブレンドにしてみたんだ…。味わってくれ。」
届くわけもない老人の言葉に、写真の中の彼女は相変わらず微笑みを絶やさなかった。
キャビネットをはなれ、食卓の5つの椅子のうち、座りなれたものに腰かけると無意識に対面を見てしまう。
もうそこに座ってほほ笑んでくれる人はいないというのに、抜け切れていないグラハムの無意識の癖だった。
視線を向けたその奥。カレンダーには今日を示す日付に○が付けられている。
「…今日だったな。」
妻がなくなって3年余り。この男は月命日には必ず祈りをささげると決めており、そしてそれを1回も欠かすことがなかった。
コーヒーを一口。熱さと苦みの感覚。
寝起きの脳を目覚めさせるには十分だった。
その後、黒パンと鶏卵を焼いたものを口にしたのち、グラハムは身だしなみを整え始める。
服を着替え、洗面所へ。
鏡に映るのは精細さを欠いた皺だらけで彫りの深い白髪の老人。
齢60を数えるグラハムはただでさえ年以上にみられがちなのだが、このときは猶更老けているように見えた。
髪は禿げていないものの、前の方から後退し始めている。
だが老人はそのことを気にもかけず、伸びていた不精ひげを剃刀でそり落とし、頭髪を櫛で整え、顔を洗う。
…幾分かましになった。
くたびれた靴を履いて立ち上がる。
少し息を入れ、誰もいない空間に「いってくるよ」と声をかけ、扉を開けると、まだ明けきらぬ早朝の寒さが、彼を迎えた。




