喜劇・驛前ギリシア神話
〈襁褓替ふ時嚔する赤子かな 涙次〉
【ⅰ】
永田です。私は小説家としては世事に疎い方だと云ふ、自覺の許に書いてゐる。別に威張つてこれを云つてゐる譯ではない。これからカンテラに訊いた逸話を一くさり展開するが、それには強力なライヴァルがあつたのを知らなかつた。『美少女戦士セーラームーン』である。カンテラの物語はその所謂「セラムン」の「世界観」に抵触するものだつた。まあ別段セラムンの話は知らなくても差し支へはない、とも思ふ。以上、一つ前置きとして。
【ⅱ】
本來ギリシア神話の神である* ゼウスとハーデースを、私はこの一連の物語に於いて、登場人物として扱つてゐる。ハーデースに至つてはセミレギュラー扱ひである。古代ギリシアの神々が現代日本に蘇つた譯であるが、これには理由、と云ふか脊景がある。日本人の無宗教ぶりである。
實際には新興のカルト宗教が地上を跋扈してゐるにも関はらず、世界三大宗教の内の一つ、佛教は、日本に於いては世襲の、所謂葬式佛教と化し、本來の有難い佛の智慧はなほざりにされてゐる。
また、日本神話でお馴染みの八百萬の神々も、現世利益の温床、神社と云ふものに幽閉されてしまつてゐる。大體、** 本地垂迹説と云ふのが、政治的脊景から出て來た困り物であるのは、歴史が示す通りである。で、ゼウスは目を着けた。今はキリスト教に押されて観光資源に成り下がつてゐるオリュンポスの神々の棲み家、日本に移住したらだうだらう。彼の地の民は宗教的には無政府狀態ではないか。
* 當該シリーズ第166話參照。
** 日本土着の神を、外來の「神」である佛教の如来・菩薩に当て嵌める、和漢折衷的取り組みの事。通常、宗教に政治が介入した惡例とされるが、嘗ての日本には政教分離などゝ云ふ洒落た思想はなかつた。
【ⅲ】
ギリシア神話に於ける月の神は、女神。その名をセレーネーと云ふ。美靑年エンデュミオンとのエピソオドは、藝術家逹に靈感を與へ續けて來た。エンデュミオンは永遠の眠りに就き、その美貌を保ち長らへて來た譯だが、日本移住のどさくさに紛れて、彼は何処かに消えてしまつた。セレーネーは替はりの彼女の愛玩品が慾しかつた。ゼウスに相談したが、この主神は勝手にせい、とつれない。其処で文字通り「勝手にした」セレーネー、彼女の標的となつたのは、なんと* 河邊寅美であつた。シンガーであり役者の卵の彼に、是非永遠の生命を與へたい、とセレーネー。ゼウスは勝手にしろと云つた手前、寅美を半永久的に眠らせる事、賛成せざるを得なかつた。
* 當該シリーズ第73話參照。
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〈ニコチンの快樂寒さものとせず健在なるやこの中毒者 平手みき〉
【ⅳ】
寅美の處屬事務所から、カンテラ一味に連絡があつた。寅美は(原因不明の)昏睡狀態にある。その大もとを突き止め、問題を解決して慾しい、と云ふ依頼だ。事務所側は勿論、セレーネーの存在など知らない。たゞ、この金の卵を眠りから醒まさうと躍起になつてゐる。ところが、ハーデースに話を訊けば直ぐに犯人はゼウスとセレーネーである事が分かつた筈なのに、ハーデースが王権を振るふ冥府に行ける者を、カンテラ一味は持たなかつた。*「シュー・シャイン」は死んだのである。こゝでカンテラが「修法」を使ふのは何かの皮肉なのか。何故なら「修法」とは、まさしく御佛の有難い智慧に縋る事、それそのものだから。まあそれはいゝ。水晶玉にはゼウスの姿が映つてゐた。「ゼウスだ。あのをつさんが一枚嚙んでゐるのか...」
* 當該シリーズ第173話參照。
【ⅴ】
こゝで、テオ。「ギリシア神話で、眠らされた美靑年、と來ればエンデュミオン。月の女神セレーネーの企みですよ」。カンテラはじろさんを誘つて、ゼウスに會ひに行つた。場處は富士の山である。富士信仰と云ふものが嚴然としてあるのに、ゼウス以下オリュンポスの神々は、圖々しくも富士山を当坐の棲み家としてゐた。
【ⅵ】
「ゼウスのをつさん、あんたゞろ、寅美を眠らせてるのは?」-「何を人間の分際で。あ、貴様ら、カンテラと此井!」-「覺えてたか。そいつはいゝ」。ゼウス、唯一無二の武器・雷を一閃させた。だが、雷はカンテラが剣で拂ひ除けた。「む、むう。我が雷が利かない...」じろさん、ゼウスの腕を脊の後ろで捻ぢり上げた。「貴様ら、儂は紛ひなりにも神であるぞ! さう輕々しく扱ふな!」-「それがどーしたつてんだい。やい、寅美の眠りを解け。さもないと、白虎の餌にしちまふぞ!」ゼウスは虎と云ふものは見た事がなかつたが、恐ろしい猛獸である事は、話に聞いてゐた。「うわ、や、やめろ! あの靑年の眠りは儂が解く!」
【ⅶ】
と云ふ譯で、セレーネーとゼウスの陰謀(?)は瓦解した。カンテラ一味、久々の活劇だつた譯だが、何なくギリシアの神々を退けた。天晴と云ふしかなからう。カネは無論、寅美の事務所より入つた。と云ふ一幕の喜劇。永田がお送り致しました。ぢやまた。
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〈老殘の小説書きに四温かな 涙次〉




