【1】
「ー欲しい」
「…。は?」
ぶしゅ。変な音がした。そのもとは葉凛の手元からである。慌ててみれば、帳簿に筆の墨が広がっていた。
「きゃ!! 大変!!」
拭おうとしたが、紙に染み込んでしまったものはしょうがない。大きな墨の花ができてしまった。
ーしまった。怒られる。
凛は筆をとりあえず離し、原因のもととなった青年を見る。青年の名前は玉雅巳。年は一つ上である。整った顔立ちでとても目立つ。その青年がすまし顔でまた言う。
「ーもらいにきた」
「…。は? だから、何を?」
言いながら、凛は顔が赤くなっていく。雅巳の言い方はよく分からず、変な誤解を与えるものだった。
ー全く。何なのよ、もう。筆を硯に置き、凛は冷静さを保とうとする。
ー何が言いたいんだ、この男は。
見栄えが良い男だけに、言い方には注意をしたほうが良いと思う。
ー私じゃなければ、悲鳴をあげそうだわ。
凛はドキドキする心音をおさめ、雅巳を見る。彼はじっと凛を見下ろしていた。澄んだ瞳はたちが悪い。
ーこの男。私を困らせるなんて。
悔しくて、言い返す。
「何が欲しくて、何をもらいにきたの」
「言わなくても分かるだろう?」
「は? 何を言ってるのよ、あなた。はっきり言いなさいよ」
自分だけ動揺するのは割に合わないので、つんけんどんに言う。雅巳に対しては複雑な感情を抱いていた。
「分かった。言う」
「ありがとう」
皮肉めいた声音で言い、凛は努めて冷静に言う。それにしても、すさまじいことをさらりと言う男である。顔の火照りを隠しながら、凛は急がせる。
「だから、何が欲しいのよ」
「それはー」
雅巳が言いかけた時、新しい客がきた。年は10代だろうか。かわいい顔立ちの少年だった。身なりは整っているので、安心して声をかける。
「いらっしゃいませ。どうぞごゆっくり商品を眺めてください」
「…はい」
返事は短かった。客はふらりと商品を眺め始める。凛もあまり深くは気にせず、雅巳と対峙する。
「で? 何なわけ?」
「お前な、俺は客だぞ。もっと丁寧に扱え」
「はい、はい」
軽く手を振ると、雅巳が紙を出し、言ってくる。
「ろうそくの束2箱とマッチ2箱、それに座布団はあるか?」
「あるわよ。厚くはないけど」
そう言い、凛は立ち上がる。迷わず座布団を選ぶと、雅巳に聞く。
「これと、これなんだけど。秋が近いからな」
「そうなんだよな。夏用じゃちょっとな」
ここは雑貨屋なので、いろんなものが置かれていた。凛は迷った末に、少し厚手の座布団を差し出す。
「これでもいい? お客さん用でしょ?」
「その通り、分かるじゃないか」
「あのねー」
凛は額を押さえると、雅巳にチチチっと指を振る。
「あんたのお母さんじゃないんだから、欲しいものははっきり言ってよ」
「はっきり言ったつもりだが」
「へ? あれで?」
雅巳という人間がよく分からなかった。顔が良いだけに、トラブルを起こしそうな気がする。
ー私が折れるしかないわね。
凛はため息を吐く。
「まあいいわ。じゃあとはろうそくとマッチと」
あまり広くない店内。凛はネズミのようにちょこまかと動き、雅巳が言ったものを手にしていく。ところがその時、
「ーちょっと」
客だと思っていた少年がいきなり飛び出してきた。手には園芸用のハサミを持っている。
「危ないじゃない!! 気をつけて」
文句を言うと、少年はそのまま走って行こうとする。
ーまさか、万引き!!
好印象な見た目だけに、凛は慌てて追いかけようとする。雅巳から頼まれたものは手から落としてしまった。
「待ちなー」
「俺が行く」
長身の雅巳が長い足で手をとらえる。少年は当然抗う。
「離せ!!」
声変わりがまだなのか、甲高い声だった。しかし、雅巳は離さず、凛のもとに連れて行こうとする。
「おい、こいつ」
「万引き犯ね」
お店をやっている以上、よく居る輩だった。捕まえられるのが半分、逃げられるのが半分という悔しい事実だった。
ー良かった。雅巳さんが居て。
一応、さん付けで呼ぶと凛は床に落としたものを拾い、埃を払う。
「ありがとう」
「どういたしまして。…、でこいつは?」
雅巳は淡々と言い、少年の手を後ろに回す。痛いのか、少年が顔を歪めている。
「離せ、離せってば!!」
「バカ。そうはいくか」
冷たく言い、雅巳は続ける。
「その年で犯罪を犯そうとするなんて、親御さんが泣くぞ」
「べ、別に犯罪を犯そうとしたわけではー」
「じゃあ、なんだよ」
「それはー」
少年が言い淀む。何かありそうだが、とりあえず凛も少年に話しかける。
「今回が初めてでしょ? 万引きをするの?」
「うるさい、ブス」
「は? ブス?」
言われて、凛はカッとした。幼なじみの姉である美加に顔の整え方を教えてもらってからというもの、初めて言れる言葉だった。
「ーこのやろう」
凛は怒り、指を鳴らす。役所に突き出してやろうかと考え始める。しかし、止めたのは意外にも雅巳だった。
「おい。ブスって言ったのはすぐに謝れ。すぐに」
「嫌だ」
「こいつー!!」
雅巳が意外にも少年の頭を叩いた。少年は痛がり、首をすくめる。
「早くしろ。俺は気が短い」
「…。ごめんなさい」
雅巳に押され、少年は凛に謝ってきた。しかし、凛の怒りは収まらない。
「私のこと、ブスって言った。許さない」
「おい、お前もうるさい。ちょっと冷静になれ」
「あのねー」
「あのなー」
2人の声があがった時、奥から父親の大雅がやってきた。
「おや、2人とも何をしているだい?」
「お父さん…!! こいつが!!」
「こいつ呼ばわりするな」
「うるさい、2人とも」
冷ややかな声で雅巳が言ったので、2人は黙りこむ。大雅には雅巳が声をかけた。
「いつもお世話になっております」
「こちらこそいつもありがとう。元気かな?」
「はい。おかげさまで」
「それは良かった。凛を助けてくれた恩人だからね」
「そんな大したことは」
本気で謙遜しているようだった。雅巳にとって、大雅は話しやすいらしい。
「で? 何をしているんだい?」
「それがお父さん…!!」
「お前は黙っていろ」
雅巳に睨まれ、凛は口をパクつかせる。どうも玉雅巳という男は天敵のような気がしてならなかった。うっすらと笑みを浮かべ、雅巳が言う。
「あの、店主」
「何だい、雅巳くん」
「ちょっとこいつ、借りてもいいですか?」
「はい?」
声がダブったのは凛と大雅だった。凛は嫌だと首を振る。
「何のつもり」
「そのかなきり声、辞めろ」
短く言い、雅巳は万引きをしようとした少年にも言う。
「ついてこい。役所に突き出されたくなければ」
「…。分かった」
意外にもすんなりと答えてきた。凛も驚いて、怒りを静める。
「いいとも。店番は私がするから」
穏やかに言いかけたところで、大雅は帳簿に広がる墨に気づいた。
「何だい、これは…!! 凛、こら」
「ごめんなさい」
本当は雅巳のせいなのだが、今はそれどころではなかった。大雅はため息を吐くと、帳簿を持ち上げる。
「仕方ない子だ。…雅巳くんと出かけて来たまえ」
「はい、お父さん」
ここは雅巳に従うことにし、凛は雅巳と出かけたのだった。