第三章 幼き日の約束
夏の終わりを告げる風が、小さな港町を吹き抜けていた。
ケアドと共に旅を始めてから、もう二ヶ月近くになる。
この間、私たちは様々な町や村を訪れ、カルホハン帝国の残党の情報を集めてきた。
「わざわざ来てくれて、ありがとうな」
宿の一室で、町の長老が私たちに頭を下げていた。
昨夜、この町を襲った謎の魔物を私たちが退治したのだ。
「いえ、当然のことです」
私は丁寧に答える。
長老は微笑んで立ち上がった。
「報酬はこれだけだが、受け取ってくれ」
彼が差し出した袋には、それなりの量の銀貨が入っていた。
この町の財政状況を考えれば、破格の報酬だ。
「ありがとうございます」
長老が部屋を出た後、ケアドが窓際から町の様子を眺めながら言った。
「良い町だな」
「ええ。穏やかで平和な場所です」
これまで訪れた町々の中でも、ここは特に人々の結束が強く、互いを思いやる気持ちが感じられた。
「さて、次はどこへ行きましょう?」
私はテーブルに広げた地図を指さす。
私たちは西から東へと移動してきた。残党の痕跡を追って。
「次は——」
ケアドが何か言いかけたとき、部屋のドアをノックする音がした。
「アリア様、ケアド様、お客人です」
宿の主人の声。私たちは顔を見合わせた。
この町では誰も私たちを知らないはずだが。
「どうぞ」
ドアが開き、一人の少年が入ってきた。
十歳くらいだろうか。茶色の髪に大きな目、手には小さな封筒を持っている。
「アリア様ですか?」
少年は緊張した様子で尋ねる。
「そうですけど」
「これ、届けてほしいって」
少年は封筒を差し出した。
「誰からですか?」
「わからない。港で会った女の人」
女の人? 私は不思議に思いながらも封筒を受け取った。
表には確かに「カルホハン・アリア様」と書かれている。
私の正式な名前を知る人は、ほとんどいない。
「ありがとう」
少年は用事を済ませると、すぐに部屋を出て行った。
「開けてみろ」
ケアドの言葉に従い、封筒を開く。
中には一枚の紙切れ。
そこには簡素な地図と、一行のメッセージがあった。
『明日、正午、森の泉で』
「……これは?」
署名はない。
差出人を示すものもない。
ただ、地図と短いメッセージだけ。
「罠かもしれないな」
ケアドは警戒心を露わにした。
「でも、誰が私たちの居場所を知っているのでしょう?」
「カルホハン帝国の残党かもしれない」
その可能性は高い。
しかし、私の心のどこかで、別の予感がしていた。
「行ってみます」
「危険だぞ」
「だから、あなたは——」
「一緒に行く」
ケアドは即座に言った。
その眼差しには迷いがない。
「……ありがとう」
私は感謝の気持ちを込めて微笑んだ。
二ヶ月前なら、こんな風に素直に感情を表現できなかっただろう。
少しずつ、本来の私に戻ってきている気がする。
***
翌日、私たちは地図に示された森へと向かった。
町から少し離れた場所にある小さな森だ。
木々が生い茂り、涼しい木陰が広がっている。
「気をつけろ。何かあったら、躊躇わず攻撃しろ」
ケアドは常に警戒を怠らない。
私たちは森の中へと進んでいった。
地図に従って歩くこと十五分。
やがて、小さな泉が見えてきた。
透明な水が湧き出し、小さな池を作っている。
周囲には白い野花が咲き誇り、まるで絵本の中の風景のようだ。
しかし、そこには誰もいなかった。
「まだ早いのかな」
時計を見ると、ちょうど正午だ。
「待つか」
私たちは泉のほとりに腰を下ろした。
緊張から、私の右手がわずかに痺れる。
これは戦闘の前に起こる反応だ。体が危険を察知している。
「何かいる」
ケアドが低い声で言った。
彼は既に短剣を手にしていた。
私も右手の手袋を緩め、いつでも外せるようにしておく。
「どこから……?」
その時、泉の向こうから足音が聞こえた。
私たちは即座に立ち上がり、身構える。
木々の間から一人の少女が現れた。
「……え?」
私は思わず声を漏らした。
その少女——短いブロンドの髪に、青い瞳。痩せた体に、簡素な服装。
しかし、その顔は——。
「ソニル……?」
信じられない思いで、私は名前を呼んだ。
少女は足を止め、私をじっと見つめた。
その目には、不安と期待が交錯している。
「ボクと……遊んでくれるの?」
その声を聞いた瞬間、私の心臓が止まりそうになった。
間違いない。これは、幼い頃の親友、ソニルだ。
「ソニル! 本当に、あなたなの?」
私は思わず一歩踏み出した。
しかし、ケアドが私の腕を掴んで止めた。
「待て。何か変だ」
確かに、ソニルの様子はおかしい。
彼女の右手——私と同じように、手袋をはめている。
そして、その目には、どこか虚ろな光がある。
「アリアを殺して、ボクは光になるんだ」
突然、ソニルがつぶやいた。
その言葉に、私は凍りついた。
「な、何を言って——」
次の瞬間、ソニルの姿が消えた。
いや、消えたのではない。
信じられないほどの速さで動いたのだ。
「危ない!」
ケアドの叫びとともに、私の真横を何かが切り裂いた。
髪の毛が数本、宙に舞う。
「くっ!」
私は咄嗟に後ろへ跳んだ。
ソニルが私の目の前に立っていた。
彼女の右手から手袋が外れ、そこには——風の紋様が浮かび上がっている。
「風……属性!?」
彼女もまた、四大元素の呪いを受けていたのだ。
「アリア!」
ケアドが私を庇うように立ち、短剣を構えた。
「下がれ。彼女は普通じゃない」
「でも、彼女は私の友達です! ソニル、なぜ?」
ソニルは答えず、再び風の刃を放った。
空気が切り裂かれる音がして、私たちの間の地面が抉られる。
「話し合いにならないぞ」
ケアドの言う通りだ。
ソニルは明らかに私を殺そうとしている。
でも、なぜ?
「私が戦います」
私は右手の手袋を完全に外した。
火の紋様が赤く輝き始める。
「ソニル、私はあなたと戦いたくない。でも、自分を守るためには——」
「アリアを殺す。光になるんだ」
ソニルの目は、まるで洗脳されたかのように虚ろだった。
彼女が再び襲いかかってくる。風の刃が私の体を狙う。
「はっ!」
私は炎の盾を作り出し、風の攻撃を防いだ。
炎と風がぶつかり合い、小さな爆発が起きる。
「なぜこんなことに……」
混乱する私に、ケアドが言った。
「帝国の実験だ。彼女も呪いをかけられたんだ。でも、制御できていない」
「そんな……」
私は思い出していた。
幼い頃のソニル。貧しい家に住み、それでも明るく笑っていた少女。
私の唯一の友達だった。
「ソニル、思い出して! 私たちは友達だったのよ!」
私の言葉は届かない。
ソニルは容赦なく攻撃を続ける。
風の刃が次々と放たれ、私は炎で防御しながら後退する。
「このままでは森が燃えてしまう」
ケアドの警告に、私は周囲に目をやった。
確かに、私の炎が木々に燃え移りそうになっている。
「場所を変えましょう!」
私たちは森の外へと誘導しようとした。
しかし、ソニルは執拗に私を追いかけてくる。
彼女の風の力は予想以上に強い。
空気そのものを操り、時には自らの体を浮かせて攻撃してくる。
「なぜだ? なぜ彼女はアリアを狙う?」
ケアドが疑問を口にする。
「わからない……でも」
私は思い出そうとした。
最後に会った日のこと。
ソニルは何か渡したいものがあると言っていた。
でも、その翌日、私は牢に閉じ込められてしまった。
約束を破ってしまったのだ。
「ソニル、あの時の約束は守りたくても守れなかったの。その日、私は牢獄に入れられていたのだから……」
風の攻撃が一瞬止まる。
私の言葉が、彼女の心に届いたのだろうか?
「ソニル?」
希望を持って呼びかけるが、再び彼女の目が冷たくなる。
「嘘つき。アリアは光。ボクは闇。光を奪えば、ボクが光になれる」
彼女の動きが更に速くなる。
風の力が彼女の体を包み、まるで風そのものになったかのようだ。
「くっ!」
避けられない攻撃。
私は炎の壁を作り出し、必死に防御する。
しかし、壁を突き破り、風の刃が私の肩を切り裂いた。
「アリア!」
ケアドの叫びが聞こえる。
痛みで膝をつく私。
「もういい、俺が止める」
ケアドがソニルに向かって走り出した。
「待って! 彼女を傷つけないで!」
私の叫びに、ケアドは一瞬戸惑いを見せた。
その隙に、ソニルの攻撃が彼を襲う。
「ケアド!」
風の刃が彼の体を切り裂く。
血が飛び散り、ケアドが倒れる。
「やめて! ソニル、お願い!」
私は震える足で立ち上がった。
肩の傷からは血が流れているが、それよりもケアドが心配だ。
ソニルは静かに立ち尽くしていた。
風の力が彼女の周りで渦を巻いている。
「ソニル、こんなことをしても何も変わらない。あなたは光になんかなれない」
私はゆっくりと彼女に近づこうとした。
「アリアを殺す……」
「どうしてそう思うの? 誰かに言われたの?」
彼女の目に一瞬、迷いが生じた。
「わからない。でも、そうするべきだと……」
「誰かがあなたを騙しているのよ、ソニル。あなたは本当は優しい子。私の大切な友達」
「友達……?」
彼女の風の力が少し弱まる。
「そう、友達。覚えていない? 私たちは城下町で一緒に遊んだでしょう? あなたの家に食べ物を持っていったこと」
少しずつ、彼女の目に生気が戻ってきた。
「アリア……姫?」
「そう、私よ」
涙が頬を伝う。
長い間探していた友を見つけたのに、こんな形で再会するなんて。
「でも……ボクは……」
突然、ソニルが苦しそうに頭を抱えた。
彼女の右手から風が暴走し始める。
「あぐっ……痛い……頭が……」
「ソニル!」
私は彼女に駆け寄ろうとしたが、爆発的に放たれた風の力に吹き飛ばされた。
「くっ……」
倒れた私の横で、ケアドが痛みに耐えながら立ち上がろうとしていた。
「彼女の中で、何かが戦っている」
彼の言葉に、私は理解した。
ソニルの中の本来の人格と、呪いによって植え付けられた意識が戦っているのだ。
「ソニル、呪いに負けないで! あなたはあなた自身よ!」
苦しみもがくソニル。
風の力が彼女の周りで暴走し、木々が折れ、地面が抉られる。
「助けて……助けて……アリア姫……」
かすかな声が聞こえた。
本当のソニルの声だ。
「どうすれば……」
私は必死に考えた。
そして、ひらめいた。
「ケアド、あなたは下がって。私にやらせて」
「何をする気だ?」
「私の火とソニルの風……相反する力が彼女の中の呪いを焼き尽くすかもしれない」
「危険すぎる!」
「でも、やるしかない!」
私は決意を固め、右手の力を最大限に高める。
炎が私の腕全体を包み込む。
「ソニル! 私があなたを救ってみせる!」
全力で駆け出し、風の渦の中へと飛び込んだ。
「アリア!」
ケアドの叫びは、風の音にかき消された。
風の力が私の体を切り裂く。
痛みで意識が朦朧とする。でも、諦めない。
「ソニル! 私の手を掴んで!」
私は炎に包まれた右手を差し出した。
ソニルは混乱と恐怖に満ちた目で私を見つめていた。
「怖くないわ。信じて」
ゆっくりと、震える手を伸ばすソニル。そして——。
二つの手が触れた瞬間、爆発的なエネルギーが放出された。
火と風がぶつかり合い、渦を巻く。
痛みで叫びそうになるのを必死に堪える。
「ソニル、思い出して。私たちの約束……あなたが渡したかったもの……」
私の言葉が、ソニルの心に届いたのか。
彼女の目に涙が溢れる。
「アリア姫……ごめんなさい……」
爆発的なエネルギーが急に収束し始めた。
まるで、何かが解放されたかのように、風と炎が静まっていく。
そして——。
「はぁ……はぁ……」
私たちは地面に倒れ込んだ。
手はまだ繋がったまま。
「ソニル、大丈夫?」
彼女はゆっくりと目を開いた。
その瞳には、以前のような虚ろさはない。
「アリア姫……本当に、あなたなの?」
「ええ、私よ」
彼女の顔に安堵の表情が広がる。
「ずっと、探していたの。でも、何かが私を操って……あなたを殺そうとしていた」
「もう大丈夫よ。呪いの力は、まだあなたの中にあるけど、意思は取り戻せたみたい」
ケアドが私たちに近づいてきた。
彼の傷は浅かったようで、自分で応急手当てをしていた。
「大丈夫か?」
「ええ」
私は立ち上がろうとしたが、体中の傷で足がもつれる。
ケアドが私を支えてくれた。
「ソニル、あなたも四大元素の呪いを受けたのね。風の属性」
彼女は右手を見つめ、悲しそうに頷いた。
「カルホハン帝国が崩壊する前、実験台にされたの。でも失敗して、捨てられた」
「なんて酷い……」
「それから、おぼろげなあなたの記憶を頼りに各地を放浪してた。でも、呪いの力が私の心を汚染して……」
「もう責めなくていいわ。これからは一緒よ」
ソニルの目に涙が溢れた。
「本当に? でも、私は……」
「友達だもの。それに、私たちには共通の敵がいる」
ケアドが静かに言った。
「カルホハン帝国の残党だ。彼らはまだ活動していて、他の人々にも同じ呪いをかけようとしている」
ソニルは震える手で涙を拭った。
「協力する。私にできることなら、何でも」
私は微笑んで彼女の手を握った。
「まずは休みましょう。それから、旅を続けるの。三人で」
ケアドも同意し、私たちは町へと戻ることにした。
森を出る前、ソニルが小さな声で言った。
「アリア姫、あの約束のこと、覚えてる?」
「ええ。あなたが何か渡したいって言ってたわ」
彼女は小さなポケットから、古びた小さな包みを取り出した。
「ずっと持ってたの。あなたの誕生日に渡せなかったから」
震える手で、私はその包みを受け取った。
開くと、中には小さな木彫りのペンダント。
手作りと思われる素朴なものだけど、そこには私とソニルの姿が彫られていた。
「ソニル……」
「友情の証。ずっと渡したかったの」
私は涙を堪えきれず、ソニルを抱きしめた。
「ありがとう。大切にするわ」
長い間失われていた友情が、再び結ばれた瞬間だった。
幼き日の約束は、こうして果たされたのだ。
「さあ、行きましょう」
私はペンダントを首にかけ、ソニルとケアドと共に、新たな旅へと歩み出した。




