第一章 運命の出会い
朝靄に包まれた森の中、私は静かに息を潜めていた。
「来るわね……」
耳を澄ませば、わずかに聞こえる獣の足音。
枯れ葉を踏みしめる音が、少しずつ近づいてくる。
夜明け前の森は、霧に包まれて視界が悪い。
だからこそ、私は他の感覚を研ぎ澄ませていた。
五月の涼やかな風が頬を撫でる。
この国は北の方にあるため、初夏というのに肌寒さを感じる。
私の纏う淡い青色の長袖ワンピースが、微風に揺れた。
「……今!」
木陰から躍り出た瞬間、巨大な影がこちらへと向かって突進してきた。
それは牙を剥き出しにした巨大なイノシシだった。
この辺りでは『牙王』と呼ばれる魔物で、近隣の村を襲っては農作物を食い荒らし、時には人を襲うこともある厄介者だ。
「お手並み拝見といきましょうか」
私は姉様のような上品な物腰で呟きながら、右手の革手袋を軽く握り締めた。
手袋の下には誰にも見せられない秘密が隠されている。
牙王が私めがけて突進してくる。
その赤く光る目には殺意しか見えない。
普通なら恐怖で足がすくむだろう。
でも、私にとってはこれが日常だ。
「申し訳ありませんが、お命頂戴いたします」
優雅に一礼すると、私は軽やかに横に跳んだ。
牙王の突進をかわしつつ、右手で魔術書を取り出す。
実はこの魔術書、ただのカモフラージュなのだけれど。
「炎よ、我が右手に宿りし力よ……」
私の右手から赤い光が漏れ始める。
革の手袋を通しても、その光は隠しきれない。
牙王が向きを変えて再び突進してくるその瞬間——。
「はあっ!」
掌から炎が放たれ、魔物に直撃した。
悲鳴を上げる牙王。しかし、一撃では倒れない。
「やるわね……」
思わず本音が漏れる。
慌てて表情を取り繕い、姉様のような上品さを装う。
「まだまだいけますか。では、もう一度!」
再び右手から炎を放つ。
今度は魔物の足元を狙った。地面が燃え上がり、驚いた牙王が後ずさる。
その隙に私は小刀を取り出し、魔物の急所へと突き立てた。
「ごめんなさいね」
牙王は絶命し、地面に崩れ落ちた。
朝日が昇り始め、森の霧が晴れていく。
魔物の死骸から証拠となる牙を抜き取り、革の袋に収めた。
これで依頼は完了だ。
私、カルホハン・アリアは、こうして日々を過ごしている。
国を渡り歩いてモンスター退治を行うギルドの一員として。
かつては——そんな生活があったとは思えないほど昔のこと——カルホハン帝国の皇女だった私が、今や流浪の旅人として生きている。
右手に宿る火の元素。
これはカルホハン帝国からの「贈り物」。
忘れたくても忘れられないもの。
私の呪いであり、武器でもある。
***
「アリア様、お疲れ様でした」
ギルドの受付で、若い女性が微笑みながら私に声をかける。
この街に来て二週間。もう顔なじみになった。
石造りの建物の中は、朝にもかかわらず冒険者たちで賑わっていた。
壁には様々な依頼が貼られ、テーブルでは朝食を取りながら仕事の話をする者たち。
普通の日常がここにはある。
「ありがとうございます。依頼の報告に参りました」
私は丁寧に一礼し、証拠の牙を差し出した。
「確かに。牙王の討伐、見事ですね」
受付嬢は感心したように言うと、木の箱から報酬の袋を取り出した。
「こちらが報酬となります。銀貨50枚です」
「ありがとうございます」
袋を受け取り、中身を確認する。
重みからして間違いなさそうだ。
この街での生活費はこれで当分賄える。
「次の依頼はお決まりですか?」
「少し考えさせてください。ひとまず休息を……」
そう言いかけた時、ギルドの扉が勢いよく開いた。
慌てた様子の村人が飛び込んできたのだ。
「た、大変です! 北の森で巨大な魔物が現れました! もう三人も犠牲に……」
ざわめきが広がる。受付嬢が慌てて村人のもとへ駆け寄る。
「落ち着いてください。詳しくお聞かせください」
村人の話によると、北の森で謎の魔物が現れ、薪を集めていた村人たちを襲ったという。
その様子は尋常ではなく、通常の冒険者では太刀打ちできないかもしれないと。
私は少し考え込んだ。本当なら休みたかったのだけれど……。
「私が行きましょう」
言葉が口から出る前に、体が動いていた。
そんな自分が少し情けない。
本当の私なら、「よーし、任せて!」とでも言っていたかもしれないのに。
受付嬢が驚いた顔で私を見つめる。
「アリア様、今朝方帰ってきたばかりなのに。他の冒険者を——」
「大丈夫です。この街で私ほど魔物に詳しい者はいないでしょう?」
実際、それは真実だった。
私はカルホハン帝国の教育のおかげで、魔物の言葉を理解することができる。
それに、この右手の力もある。
「……わかりました。では緊急依頼として受理します。報酬は——」
「結構です。人命が関わることですから」
本当は報酬がないと困るのだけれど、こういう時は姉様ならそう言うだろう。
私はそう思いながら微笑んだ。
村人は涙目で何度も頭を下げた。
「恩に着ます。どうか、あの魔物を……」
「任せてください」
私はかばんから必要なものだけを取り出し、軽装で北の森へと向かうことにした。
宿に戻る時間すらもったいない。
***
北の森は、先ほど討伐を終えた東の森よりもさらに深く、昼なお暗い場所だった。
背の高い古木が空を覆い、日光をほとんど通さない。
「こんな所で作業するなんて……」
確かに薪には良い木が多そうだけれど、危険すぎる。
村人たちの無謀さに少し呆れながらも、私は慎重に足を進めた。
森の中を歩くこと一時間。まだ魔物の姿は見えない。
代わりに、いくつかの血痕と引きずられた跡が見つかった。
生存者がいるかもしれない。私は足早に跡を追う。
「誰か、いらっしゃいますか?」
声を潜めながらも呼びかける。返事はない。
その時、不意に木々が揺れる音がした。
振り返ると——巨大な影が私に覆いかぶさるように迫っていた。
「なっ!」
反射的に飛び退くが、間に合わない。
鋭い爪が私の左腕を掠め、衣服が裂ける。
痛みと共に、温かいものが流れ出す感覚。
「くっ……」
私は数メートル後ろに転がり、すぐに立ち上がった。
目の前には、今まで見たこともない種類の魔物がいた。
獣の体に、鳥のような頭部。全身が黒い鱗で覆われている。
「あなたは……何者?」
私は魔物語で問いかけた。
しかし、返ってくるのは意味不明な唸り声だけ。
理解できない。どうやら知性のある魔物ではないらしい。
「仕方ありませんね」
右手の手袋を外し、むき出しの肌を魔物に向ける。
そこには火の紋様が浮かび上がっていた。
「炎よ、応えよ!」
右手から炎が渦巻き、魔物へと向かう。
直撃するかと思われたその瞬間、魔物は驚くべき俊敏さで炎をかわした。
「何っ!?」
通常、この程度の魔物なら一撃で怯むはず。
だが、目の前の敵は違う。
炎を避けると同時に私に向かって飛びかかってきた。
「くっ!」
咄嗟に身を低くし、回避する。
しかし、魔物の尻尾が私の背中を強打した。
「痛っ……!」
吹き飛ばされた私は、大きな木に背中から激突する。
息が詰まり、一瞬意識が遠のきそうになった。
(これは……まずい)
普通の魔物ならここまで苦戦することはない。
何か違う。この魔物は……。
魔物が再び襲いかかろうとしたその時、森の向こうから矢が飛んできた。
魔物の翼を貫き、悲鳴を上げる。
「誰……?」
視線を向けると、一人の男性が弓を構えて立っていた。
長身で、暗い色の服を着ている。
彼は次の矢を放ち、魔物の動きを止めようとしていた。
「そこの娘! 今のうちに逃げろ!」
低い声が響く。
しかし、私はそんな気はなかった。
「ありがとうございます。でも、これは私の依頼です」
立ち上がり、再び右手を構える。
今度は炎を集中させ、小さく、しかし威力の強い火の玉を作り出した。
「はあっ!」
火の玉が魔物の胸部に命中する。
悲鳴を上げ、のたうつ魔物。
しかし、まだ倒れない。
むしろ怒りに任せて暴れ始めた。
「ちっ……面倒な奴!」
思わず本音が漏れる。
私は疲労と痛みを押して魔物に立ち向かおうとした。
その時、森の男が私の横に立っていた。
いつの間に? 彼の動きは目にも止まらない速さだった。
「二人で挟み撃ちにしよう」
彼は二本の短剣を取り出していた。
二刀流——普通の冒険者ではない。
「わかりました」
私は頷き、彼と息を合わせて魔物に挑む。
彼が魔物の注意を引きつけている間に、私は炎の力を極限まで高める。
「今です!」
合図とともに、男は身を翻して魔物から離れた。
その瞬間、私は全力の炎を放った。
「焼き尽くせ!」
巨大な炎の柱が魔物を包み込む。
悲鳴と共に、魔物は黒焦げになって倒れた。
森に焦げた匂いが広がる。
「はぁ……はぁ……」
力を使い果たし、私は膝をつく。
右手が痺れるように痛む。使いすぎたのだ。
「大丈夫か?」
男が近づいてきた。
よく見ると、彼は私より少し年上といったところ。
二十代前半だろうか。鋭い目つきと、少し乱れた黒髪。
顔立ちは整っている。
「ありがとう……ございます。ご助力に感謝します」
必死に姉様らしく振る舞おうとする私。
しかし、彼はそんな私を不思議そうに見つめた。
「随分と丁寧な物言いだな。ギルドの冒険者にしては珍しい」
「そ、そんなことはありません。礼儀は大切ですから」
彼は小さく笑うと、手を差し出した。
「俺はキューゼ・ケアド。君は?」
「カルホハン・アリアと申します」
彼の手を取り、立ち上がる。
そのとき、彼の目が一瞬だけ私の右手に向けられたように感じた。
気のせいだろうか。
「アリア、か。いい名前だ」
そう言うと、ケアドは倒れた魔物に近づき、何かを確認し始めた。
「この魔物、普通じゃない。人為的に作られたものだ」
「作られた……?」
私は驚いて彼の横に立った。
確かに、よく見ると魔物の体には不自然な継ぎ目のようなものがある。
まるで、複数の魔物を組み合わせたかのように。
「誰がこんなことを……」
「それを調べているんだ。似たような魔物が最近、各地で目撃されている」
ケアドは真剣な表情で言った。
「この辺りで作業をしていた村人は?」
「生存者は見つからなかった。恐らく……」
彼の言葉は途切れたが、意味は明らかだった。
生きている可能性は低い。
「そうですか……」
村に戻っても、良い報告はできそうにない。
せめて魔物を倒せたことが救いだ。
「さて、村に戻るか」
ケアドが言うと、私は少し驚いた。
「あなたも村へ?」
「ああ。俺も実はこの魔物退治の依頼を受けていたんだ。村で会ったのも何かの縁だろう」
そう言いながら、彼は私の怪我を心配そうに見た。
「その腕、手当てが必要だな」
「大丈夫です。かすり傷ですから」
実際は痛かったが、強がる私。
しかし、ケアドは納得していないようだった。
「村に戻ったら、必ず医者に診せろよ」
「わかりました」
私たちは魔物の証拠となる部位を切り取り、村への帰路についた。
思いがけない出会いに、私の心はどこか落ち着かなかった。
この人は一体何者なのだろう?
普通の冒険者とは思えない動きと知識。
そして何より、私の右手を見たときの彼の表情……。
帰り道、私はケアドを盗み見ながら考えていた。
この出会いが、私の運命を大きく変えることになるとは、まだ知る由もなかった。
***
村に戻ると、人々が広場に集まっていた。
私たちの姿を見つけると、歓声が上がる。
「魔物を倒したんですね! 本当にありがとう!」
村長らしき老人が私たちに駆け寄ってきた。
「はい。ですが、残念ながら……」
私は言葉を選びながら、森で働いていた村人たちの生存は確認できなかったことを伝えた。
村人たちの表情が曇る。
「そうですか……それでも、あなたたちのおかげで村は安全になりました。感謝します」
老人は深く頭を下げた。
「報酬はギルドを通じて支払います。どうかお二人で分けてください」
「いえ、私は報酬はいりません」
私は首を振った。
村の様子を見れば、裕福とは言えないのは明らかだった。
「私も同じだ」
ケアドも同意した。
「それはできません。せめて宿と食事だけでも」
老人は譲らなかった。
結局、私たちは村の宿に一泊することになった。
***
宿の一室で、私は腕の手当てをしていた。
思ったより深い傷で、包帯を巻くのに手間取る。
「手伝おうか?」
突然の声に振り返ると、ケアドが立っていた。
「い、いえ、大丈夫です」
慌てて右手を隠す私。
しかし、彼はすでに見ていたようだ。
「その右手の紋様、特別なものだな」
緊張が走る。
彼は私の秘密を知っているのか?
「何のことでしょう?」
「隠す必要はない。俺は君と同じものを探している」
ケアドは静かに言った。
「同じ……もの?」
「ああ。四大元素を植え付ける呪いを受けた者を」
衝撃が全身を走る。
彼はカルホハン帝国のことを知っている。
私の正体を……。
「あなたは……一体?」
「明日、話そう。今は休め。怪我を癒やすことが先だ」
そう言うと、ケアドは部屋を出て行った。
私はベッドに座り込み、混乱する思考を整理しようとした。
カルホハン帝国が滅んでから、誰も私の秘密を知る者はいないはずだった。
なのに、この男は……。
「何が目的なの?」
静かにつぶやく私。明日、全てが明らかになるのか。
それとも、新たな危機の始まりなのか。
窓の外では、月が雲に隠れていた。