003)【AD 1430年】
その日は来客の予定が無かった。
山下はプレゼンルームの丸い天井の下にノートPCを持ち込み、建築技術部から送られてきた設計図を確認していた。
古代マヤ文明の都市ティカルへ、観光の拠点となる支店を建設するための設計図だった。
先日ここを訪れた生野の旅行先だ。
この規模だと二週間もあれば完成しそうだなと、山下は考えていた。
PC画面で図面を拡大して、細部にチェックを入れながら気になる点を書き出す。
そこへ通知が届き、やれやれと言った表情になった。
駐車場に車が停車したのだ。
人里離れたこの店舗の敷地内に入ってくる車は、予約客か道に迷ったかのどちらかでしか無い。
今日は後者に違いないが、長居をされたら立ち退くように注意しに行かなくてはならないのだ。
しかし、次に届いた通知を見た山下は怪訝な顔になった。
顧客の一人である犀川の車だったからだ。
犀川はIT事業で成功している五十代の男だ。
二年程前に、犀川と妻、長女の璃子と長男の秀季の四人で古代ギリシャの都市アテネへ旅行している。
璃子と秀季、それぞれ高校と中学の卒業記念の家族旅行だった。
防犯カメラ映像へ切り替えると、運転席から降りてきた犀川の娘、璃子の姿が確認出来た。
家族は一緒では無い。
璃子一人でやってきたようだ。
山下は急ぎ足で店舗へ向かった。
璃子が鍵のかかった入口の扉をがたがたと揺すっている。
インターフォンも無いから、困っている様が想像付く。
山下は店舗内の灯りの照度を最大にしてから、ゆっくりと扉を開けた。
同時に、いつも客に見せる卒のない笑みを、自身の顔へ貼り付けるのを忘れなかった。
「犀川様、ご無沙汰しております。ようこそ、お越しくださいました」
山下の出迎えは予期していなかったらしく、璃子はポーチの庇の下で息を呑んで固まってしまった。
ふかふかのショールで肩を包み、くるぶし丈のワンピースの裾を風に揺らしている。
赤い色が色白の肌を引き立たせると、自分でも気付いているのだろう。
よく似合っている。
「璃子様、今日はお一人ですか?」
山下が再び声をかけると、璃子はやっとのように瞬きをした。
風の起こりそうなほどに、ふさふさのまつげが上下する。
「急に、思い立って、来てしまったんですけど、いいですか?」
切れ切れの言葉を消え入りそうな声で呟く。
二月に入ったばかりの冷たい空気が、璃子の吐き出した息を白くしていた。
大学生になっても変わらない頬の張りにあどけなさを感じて、山下の父性がくすぐられた。
「もちろんですよ。さあ、どうぞ、お入りください」
璃子の緊張をほぐそうと、山下は温かい笑顔を作った。
何か相談事があるのかもしれないと考え、適度な距離の保てるカウンター席へ璃子を案内した。
「紅茶でよろしいですか?」
山下の問いに、はいと、掠れた声で答えた璃子は、まだ不安そうな表情をしていたが、落ち着いた仕草で椅子へ座った。
山下は紅茶の用意を始めてから、わざと無言になった。
いつもよりゆっくりとミルクを温める。
璃子がこの空間に慣れるための時間を作っているのだ。
「ロイヤルミルクティです」
カウンター越しに差し出したカップを、璃子は嬉しそうに眺めた。
ここへ来る度いつも璃子が希望した飲み物だ。
犀川夫妻の実子のはずだか、あの家族の中で璃子だけが、どこか西洋風の顔立ちをしている。
「美味しい」
紅茶を一口飲んだ璃子は深い息を吐いた後で、以前と変わらない無邪気な笑顔を見せた。
「二年振りですね。犀川様ご家族はお元気ですか?」
「元気だと思いますよ。一緒に暮らしてないから、よく知らないけど。私、大学へ入ってから、一人暮らししてるの」
紅茶が璃子の心もほぐしたのか、本来の璃子に戻ってハキハキと答えた。
「確か、大学は建築学部でしたね」
「そう。山下さんの記憶力、ヤバいですね」
きゃははと、明るく笑う。
席に着くまでは何かを思い詰めているような印象を受けたが、考え過ぎだったのだろうかと、すっきりしないまま、山下はそれでも会話を続けた。
「お車はどうされたのですか?」
「ああ、あれね。パパに貰ったの。今は私の車よ。初心者には、新車はやれないって」
「そうでしたか」
山下は笑顔を崩さないように努めていたが、璃子が今日ここへ来た目的を自分から聞き出すべきか迷っていた。
璃子のほうから切り出して貰うのがベストなのだがと、視線を彷徨わせた。
「あのね、山下さん」
山下の気持ちを察したかのようなタイミングで、すっと、真顔になった璃子が語った。
「私、一四三○年五月二三日のフランスに行きたいの」
「一四三○年のフランス・・・」
山下は呟きながら、頭に入っている知識をフル回転させた。
その時代は、イングランド軍とフランス軍が、どちらもフランスの領地と王権を主張して争いを続けていた。
百年戦争の真っ只中になる。
百年戦争へ思い至れば浮上してくる人物があった。
「ジャンヌ・ダルクですか」
ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いたことを自らの支えとして、フランス軍の指揮官となった。
対イングランド軍との数々の戦いで、フランス軍を勝利に導いた女性だ。
「さすがですね」
璃子はほっとした表情を浮かべた。