真意防衛軍
1
「おはようございます」
「おはよう。あら、髪色変えたの」
「あ、はい」
「ちょっと明るすぎない?」
「でも面接のときは金髪だったけど特に何も言われませんでした」
「社員の中にこんな派手な髪色の人、いないでしょう?」
「みんなと同じにしなきゃいけないんですか」
「それは…」
「私の髪色が明るいことで、誰かに迷惑がかかりますか。髪色が明るいせいで、発注書の入力ミスが起きますか」
「なあに、その言い方」
「他にどういう言い方がありますか」
すのこの上に敷いた粗末な敷布団の上で、灯は、気づけば1時間も上司と問答していた。
今日は週に1度の貴重な休日だったので、美容院で明るめの栗色と金色に近いインナーカラーを入れてもらった。日々に忙殺され、久しく髪には手を入れていなかったので、新鮮で美味しそうな栗色と、時折光にあたってきらっと光る内側の毛に、心が踊っていた。
家に着いて、明日も仕事かあ、と溜息をついた瞬間、あの口うるさいおばさん上司にきっと怒られる、と気づいてしまった。いやいや自分ももう32歳の立派なおばさんだ、いやいやあの人は性格もひん曲がってるからおばさんと呼ぶにふさわしい、いやいやそんなことより明日は髪に黒スプレーをしなければいけないだろうか、と一気に慌ててしまい、心は踊るのを止め、しゅっと奥にうずくまってしまった。
明日も早いし寝てしまえば朝が来る、ぼんやりしたまま何も考えずそのまま出勤してしまおう、と考えた灯は、いつもより1時間早く布団に入った。が、まだ消えない不安からか、頭の中で上司と問答を始めてしまった。
灯は、住宅設備会社の事務をしていた。最近異動してきた若手営業社員が、かなりの腕前らしく、そのせいでひっきりなしに仕事が回ってくる。さらに事務は人手不足で、ここのところ休みが週に一度しかない。
事務で働いているのは、灯と、カリカリに痩せた声の小さい黒地くんと、例の口うるさいおばさん上司、舞川さんの3人だ。舞川さんは古株で、我こそが正解と額に書いているような振る舞いをするし、黒地くんは入社2年目でかなり若く、声は小さいがヘラヘラしていることが多いので実態が掴めず、実際、2人とも苦手だった。
灯は、頭の中でおばさん上司と問答をいくらか繰り返した後、そんなもん言えるか、と声に出してしまい、声が消えて部屋がしんとなったことで、また不安が戻ってきた。
そんなもん、言えるわけがないのだ。自分の考えはあるはずなのに、いつも言えない。けれど灯は、起こるかどうかもわからないシーンを、具体的に自分の理想の形にして、シミュレーションしてしまう。どんなに小さなことでも、電車で両脇に荷物を広げて座っている人を説き伏せ、杖をついた老人を座らせ、尊敬の目に囲まれる、というようなありそうもないシチュエーションだとしても、細かく具体的にシミュレーションされてしまうのである。しかもそれが現実ではことごとくうまくいかないのだから、灯はそのシミュレーションをしてしまう度に萎えていた。
翌日、結局髪色はそのまま、びくつきながら出勤したが、特に誰からも髪色について触れられることはなかった。よく考えてみたらそうなのだ。事務は3人しかいないけれど、営業部や管理職の人たちは、各々綺麗な髪色や目立つネイルをしている。今更、髪の内側だけ金髪じみた色にした灯を気にかけることなど、もとからなかったのだ。
少しだけ肩の力が抜けたせいか、仕事が順調に終わったので時計を見ると、定時は過ぎているが、いつもより1時間も早かった。舞川さんが他の社員と話しているうちに帰ってしまおう、と勢いよく立ち上がると、黒地くんの声がぼそぼそと聞こえた。
「篠田さん、お疲れっす。上がりっすか」
「お疲れ。今日は回ってきた書類が順調に捌けたから、帰っちゃおうかなって」
「良いっすねえ、ハハ」
こっちはまだあるけど、と小さくぼやいたカリカリな声が、耳に届いた。
「ごめんね、気づかなくて。ちょっと手伝おうか」
「あ、すんません、心の声、出ちゃってました。まあ、まだ残ってるけど、これは俺の分ですもんねえ、ハハ」
灯は、元々たまっていた書類を捌いて、今日回ってきた書類はほとんど自分が処理して、その上順調に仕事が進み、いつもより少し早く帰れることに達成感と喜びを感じていた。それでも黒地のぼやきに対して、律儀に手伝おうかと聞いたつもりなのに、ヘラヘラ笑う黒地には、嫌悪感を抱いた。そもそも黒地に分担された書類は、灯と舞川さんの半分程度ではなかったか。もう2年も経つというのに。
「そう、黒地くんの分だよ。多分、私は今日、それの倍はやってるよ。もう入社して2年経つんだから、うまくできなかったらうまくできる方法を、誰かに聞いたらどう?」
と、灯は思っているが、言えない。
「いいよ、特に用事とかないし、手伝うよ」
もう一度、わざとギシッと音を立てて椅子に座る。書類を半分受け取り、処理を始める。同時に、シミュレーションが始まる。これは、過去型シミュレーション。ここで始まるな!
2
べたべたした湿っぽい夏が過ぎ、次は俺たち秋の出番だと主張するような冷たい風が、ひゅっと首元から入ってくる。
結局いつもと同じ時間に帰路についた灯はジャケットの襟を立て、大学生になった時に父に買ってもらった皺だらけの腕時計を覗き、はあ、と湿っぽいため息をついた。ため息はよくない、と慌てて吸い込むが、吸い込み過ぎて咳が出た。
再びため息を吐くついでに下を向くと、右目の端に、白い布切れのような物が見えた。誰か落としたのか、不法投棄か。そうは言っても布切れだ。
右目の端に、今度は布切れがふわっと浮いたのを見た。あれ、今、風吹いた?と少し訝しげに思った灯は、もう一度真っ直ぐに布切れを見つめたのだが、今度は布切れが、ふわっふわっと軽快にこちらに向かって来る。
「あんた、犬じゃん」
布切れと見間違えたのは犬に失礼だが、口を開けて涎を垂らしているこの犬は、色は少し黄ばんだ白色で、毛らしくもない毛が皮膚と平行にぴったり生えていて、まるで使い古した布切れを身体に巻き付けているかのようである。
首輪をしていたので、野良犬ではなさそうだ。この様子だと噛まれることもないだろう。灯は腰をかがめ、犬を撫でた。犬は涎を垂らすだけで、撫でられたことにも気づいていないのか、表情を変えないし尻尾も振らない。
「ごめんね、布切れと犬を間違えるなんて」
犬は一度口を閉じ、器用に左足をぐいと振り上げて耳を掻き、また涎を垂らし始めた。
「ちょっと、謝ってるんだけど。聞いてる?」
「人の話はちゃんと聞いた方がいいよ。涎ばっか垂らしてないでさ。じゃないとあんたのこと、ヨダレイヌ、って呼ぶよ」
犬だから、人の話は聞かないよなあ、疲れてるのかなと、灯は凝った首をぐるっと回してから犬に微笑みかけ、家へ歩き始めたが、振り返って
「あんたには思ってること、言えたのに。ねえ、ヨダレイヌ」と漏らした。
聞こえているのかいないのか、ヨダレイヌは、くわあっと歯を上に剥き出して、欠伸をしていた。
家に帰った灯は、過去型シミュレーションについて考えていた。正しくは、苛立っていた。未来型シミュレーションの場合、シミュレーション通りに行動出来ず、悲しくなる。過去型シミュレーションの場合は、どうせ過去のことであるのに後からシミュレーションされるので、苛々してしまうのだ。
「うまくできなかったら、うまくできる方法を、誰かに聞いたらどう?」
「わかってるんだったら教えてくださいよ、うまくできる方法ってやつを」
「一生懸命、試行錯誤して発注書の処理して、終わらなかったらそれは仕方ないの。でも黒地くんは人間でしょう?人間は、考える葦なんだよ。私たちはたかが1人の人間だけど、人間は考えて行動することができるの。わかる?」
「パスカルでしたっけ。そんなに熱くなって、何なんですか」
「まずは考えなさい。どうするべきか。私は、誰かに聞いたらいいんじゃないって、アドバイスをしているつもりだけど」
これが、今日の過去型シミュレーションの内容だ。理想の自分は、随分きりきりと話しているが、もう少し実現可能な理想にしてくれないものか。
ぐずぐずとシミュレーションにケチをつけていると、いつの間にか眠ってしまったようで、既に朝になっていた。気怠い気持ちをなんとかごまかし、いつも通りの時間に出勤すると、舞川さんが「篠田さんも黒地くんも、残業多すぎない?仕事が多いのはわかるけど、工夫してくれないと」と、文句をぶつけてきた。半分は独り言なのか、はあ、へえ、ほお、と適当な相槌を入れても気にしていないようである。こんなことで始まるなよ、シミュレーション。自分に念を押し、席に着く。
始業ギリギリになって黒地くんがやってきたので、なんとなく目を合わせないように「おはよう」と挨拶をした。「おはようございまっす」と小声で答えてくれた後、こちらを窺うようにチラチラと目線を投げられていることに気づいた。
これ以上マイナスな気持ちになることは今日こそ避けたい、と灯は意気込み、とことん黒地くんから投げられた目線を交わし続けていたのだが、舞川さんが処理済みの書類を部長へ提出するために席を外した途端、黒田くんが「篠田さん」といつもよりカリカリした細い声で話しかけてきた。
「昨日はどうもっす」
「いえ」
「えーと」
黒地くんが、もじもじしている。もしかして昨日のことを反省してくれているのではないか、と期待してしまう。
「えーと、今日、暇っすか」
「え?」
「今日、飲みに行かないっすか」
「誰と?」
「一応、俺、ですかね」
じゃあ終わったら西公園の入り口で、と黒地くんは勝手に約束を取り付け、さっさと書類整理を再開し始めた。
灯は、予想外の誘いに戸惑ったが、きっと昨日のことや今後の働き方について相談されるのだろう、それ以外で飲みに行く理由なんてないし、マイナスな気持ちになる要素はない、と頭の中で唱え、期待と強張りが混在した気持ちを落ち着かせるためにすうっと思い切り息を吸い込んだ。直後、盛大に咳き込む。
3
灯と黒地くんは、お互い見計らったように帰り支度を始めた。夜の7時半を過ぎている。8時くらいに飲み始めて、2時間くらいでお開きになれば、日を跨ぐ前には寝られそうだ。寝る前のルーティンを頭の中で組み立てながら、「お先に失礼します」と黒地くんより先に会社を出た。
西公園は会社の裏側にある小さな公園で、小さいながらも多くの遊具が設置されているため子どもの利用率は高いが、鬼ごっこやボール遊びには向かない少し窮屈な公園だ。灯が黒地くんを待つこの時間は、とっくに日が落ちているので子どもの姿はなく、代わりにサラリーマンが煙草をふかし、ぼうっと地面を見つめているだけである。
タートルネックを着てくるべきだったかと、灯は首元に冷えた風が潜り込まぬようシャツのボタンを留める。間もなく、「お待たせしました」とカリついた声がした。
「夜はちょっと冷えますね。俺が先に出れば良かったっす。すんません」
「全然、待ってないから大丈夫」
「俺がいつも行く居酒屋でいいっすか」
「もちろん。私はあんまりわからないから、助かる」
黒地くんは、近くの飲み屋街から1本外れた道に入り、申し訳程度にちまっと光るオレンジ色の明かりを見つけると、ここです、とその明かりに照らされた小さな建物を指差した。こじんまりとした居酒屋だったが、それなりに席は埋まっていたため、カウンターに案内された。店の壁に貼ってあるメニューの中に大好物のクリームコロッケを見つけた灯は、微妙に残っていた強張りが少し解けたように感じたが、いかんいかん、と気を引き締めて椅子に座り直した。
「ここ、クリームコロッケがうまいんすよ」
「クリームコロッケ好きだから、食べたい」
「あとは、刺身とオニオンリング。居酒屋でオニオンリングって、よくわかんないすよね。でもうまいっす。玉ねぎいけます?」
「ピーマン以外なら」
「7歳の姪っ子以外にピーマン嫌いな人、久しぶりに会いました」
「人の好き嫌いに文句つけないでよ」
ごく他愛もない話がしばらく続いたが、灯は「黒地くんってこんなに喋る人だったっけ」と少し戸惑っていた。いつも声は小さいし、口数は少ないし、口を開いたと思ったら灯の心をちくちくと攻撃してくるような言葉ばかりだけれど、お酒が入ると元気になるのかしら。いや、お店に着いた時からよく喋っていたような。
黒地くん=よくわからない人、と頭の中で勝手に結論づけ、ビールをぐうっと流し込むと、黒地くんが「俺、こんな感じに見えないっすよね、いつも」と、カリカリというよりモツモツとした小さな声で呟いた。灯は、え、と黒地くんの顔をぽかんと見つめた。
「この間、というか昨日、ちょっと言い方良くなかったですよね。すんません」
「ああ、いや、うん」
過去型シミュレーションを生かすチャンス、と理解はしているのだが、言えない。
「気にしないで。私もそんなに気にしてなかったよ」
すると灯の目に、黒地くんの細い切れ長の目が映った。正面から見つめられているのだと気づくのに、一呼吸分の時間がかかった。
「篠田さんって、思ったこと口に出さないタイプでしょ」
「え、」
「気にしてなかったって、嘘じゃないの」
いつの間にか灯への敬語が抜けていることにも気づかず、返す言葉を必死に探していた。おっしゃる通り、いつも思ったこと言えないのよ、シミュレーション通り言えないのよ、思っていることをきちんと相手に伝えられる人になりたいのよ。言葉が頭の中で書き出される反面、口からは「え、いや、そ、そんなことなにゃい、ないよ」と、しどろもどろだわ噛むわのてんてこ舞いな返答しか出てこない。さっきまでは冷え込みを感じていたのに、今はちょっと熱い。黒地くんは灯を見て、
「俺も、思ったことと違うこと言っちゃうから、勝手に同類だと思っちゃってたんだけど、違いますか」
「え、そうなの」
「昨日、篠田さんと話した時も、言い方良くなかったってわかってはいるんです。でも、こう言いたいって思ったことをその通り伝えるってのが、俺には難しいみたいで」
「今、思ったこと言えてるじゃない」
「それは、篠田さんもちょっと辛いんじゃないかなって、思ったから。俺と一緒なんじゃないかって」
「…」
「俺、今、頑張って話してます」
黒地くんの声は小さいけど、いつもより良く聞き取れた。言葉を頭の中で紡いでから、丁寧に伝えてくれようとしている、と灯は思った。切れ長の目に力が入っているのか、いつもより大きく見開かれ、三白眼気味になっている。乾いた唇を何度も舌で潤してから話し始める黒地くんを見て、本当に頑張って話してくれていることはわかった。
はあ、ふう、と小さく荒い息をしている黒地くんが、「なんか、会社の人間としてっていうより、これから生きていく上で、色々話した方が、お互いの人生ちょっと楽になるんじゃないか、って」と言った時、その勢いに続くように灯も話し始めた。
「シミュレーション通り、いかないの。したい訳じゃないのに、思っていることを言うシミュレーションが勝手に始まるの。でも、いざその場面になると言えないの」
黒地くんのおっしゃる通りなんです、とぺこりと小さく頭を下げた灯は、思っていることをそのまま話すことができて、素直に嬉しいと感じた。すぐに頭を上げたが、嬉しさで崩れた顔が見えてしまわないよう、カウンターの木の節をじっと見つめることにした。
「やっぱり」
なぜか得意気な声色の黒地くんを横目でちらっと見ると、口元を隠すように右手で頬杖を付いているが、くいと上がっている口角は隠せていない。
「部長から聞いたんですけど、舞川さんも、思ってもないことを言っちゃうことがあるらしいですよ」
「え、さすがに思ってもないこと言い過ぎじゃないの」
「俺からも言っとくから、ちょっと辛抱してくれって、部長が」
「信じたくてもあまり信じられないかも」
「確かに。さすがに口うるさすぎるもん」
でもさ、と笑いながら黒地くんが再び話し始める。
「俺ら、ずっと悩んでるってことは、簡単には解決できないってことなんだから、いっそあえて言わないってことにしてみるとか」
「どういうこと」
「真意を、あえて隠しているってことに。お前なんかに俺の真意がわかってたまるか、教えてやるわけないだろ、って」
ちょっと無茶苦茶すぎない?と灯は笑う。黒地くんもつられて、確かに無茶苦茶だ、と笑う。
「真意は、本当に大切な人にだけ伝わってれば、いいんじゃないですか。大切な人とは良い関係性でいたいでしょ。そのためには、自分が辛いままその人と居るのはあんまり良くないから、真意をきちんと伝えるべきだと思う」
俺はね、と付け足す黒地くんに、いつもの憎たらしさは感じなくなっていた。黒地くんもだけれど、私と同じように、理想通りの人生を送っている人は、案外あまりいないのかもしれない。そう思うと、厄介だと思っていたシミュレーションへの強い抵抗感が少し薄れた。大切な人には真意を伝えられるように。そのためのシミュレーションだと思えば、怖くはない。私の大切な人は誰だろう、と思いを巡らす。
お互いの本当の気持ちを伝え合うと、2人とも満足したように目の前のお酒をゆっくりと飲み、残っていた最後のクリームコロッケを賭けてじゃんけんをし、へらへらとした笑顔のまま、店を出た。
駅に向かう2人は、もう一度西公園を通りながら、特に言葉は交わさずのろのろと歩いていたが、急に黒地くんが
「名前を付けました。俺らの」
と、小学生が手を挙げて「先生、わかりました!」と意気込んで発言するかのような、明るい声を出した。
「名付けて、俺たち真意防衛軍!」
シュワッチ、とポーズを決める黒地くんの目は、もう三白眼ではなく、いつもの切れ長の目に戻っていたが、目尻が垂れ、皺がいくつも出来ていた。
「シュワッチって、ウルトラマンじゃないの」
「細かいことはいいって」
「真意防衛軍って、地球防衛軍のパクリ?」
「細かいことはいいじゃんって」
地球防衛軍って、ゲームだっけ、かなり昔に映画もあったよね。お互いふふ、と笑いながら再び歩き始める。なぜか居酒屋に向かう前より暖かく感じる空気が心地良い。
翌日、灯はタートルネックの長袖をジャケットの下に着込み、仕事へ向かった。赤信号で立ち止まり、凝った首をぐるっと回すと、目線が一周する直前で、左目の端に再び布切れのような物が見えた。慌てて、そういえば物ではなく犬だった、と正面からその犬を見ようとすると、今日は首輪にリードが付いている。目線を上げると、記号の丸の右側だけ切り取ったかのように腰が曲がり、右手に杖、左手にリードを持っている老人が、その犬を連れていた。散歩しているのだろうか、されているのだろうか。散歩といえるのか不明な程の速度でゆったり歩いている。犬は以前と同じように、歩きながら涎をぽたぽた垂らしていた。
老人と目が合って、会釈をした。目線を戻した途端、突然、走り出したヨダレイヌが見えた。老人は走り出す犬に驚いたのか、ぱっとリードを離していた。灯はとっさに、ヨダレイヌを確保しようと、進路を塞ぐように向かって来る犬の正面に立った。捕まえて服に涎が付いたらどうしよう、と不安になる。
「こらあ、ポン!待ちやがれ!」
灯は、ヨダレイヌを捕まえようと広げていた手をいつの間にか下ろし、口を開けて一部始終を見ていた。
老人が、杖を投げ捨て、曲がっていた腰をぴんと張り、老人にしては目を見張る程の綺麗なフォームで走り出したのである。老人は、灯が口を開けて閉じるまでの数秒で、あっという間に逃げたヨダレイヌまで追いつき、リードを掴み直して、まったくもう、やめておくれよ、とぶつぶつ言いながら杖を取りに戻っていた。
今のは何だったのか、とぽかんとその場に突っ立っている灯を見つけた老人は、照れたように頭を掻きながら「すみませんねえ」とぺこぺこと頭を下げた。
何も言えずぺこっと会釈を返した灯に、老人が近づき、「本当のことは、隠してるのさ」と言った。
「本当のことって、本当はピンピンしてる、ってことですか?」
「それもだし、色々ね。杖も腰を曲げて歩いているのも、隠してるのよ。本当のことをね。あえて隠している」
老人は、自慢気に鼻をフンと鳴らした。
「楽なのよね。ゴールド免許なのに初心者マークを付けて運転している人と同じよ。電車で席を譲ってくれたり、買い物帰りに荷物を持ってくれたり。日本人って優しいからねえ」
「なるほど」
「真意を隠して、自分を防衛しているのよ」
ちなみにポンという名前は、アンポンタンのポンよ、と老人が犬を撫でる。
会社に着いたら、黒地くんにこの話をしよう。そう思い、「これからも、防衛、頑張ってください」とだけ言い残すと、灯は会社への道を歩き出した。あ、と思い出したように呟いた灯は、振り返って老人を見つめ、
「大切な人には、真意を伝えているんですか」
と問いかけた。老人は「さあね、どうでしょうかね」とだけ言い残し、腰を曲げ直してヨダレイヌと共に去っていった。
会社に着き、メールの受信リストを確認していると、黒地くんが今日も始業ギリギリに駆け込んできた。灯の横で止まり、にやりと笑いながら小声で「俺ら3人、真意防衛軍!」と言ったかと思うと、隣の部屋で営業部の社員と話し込んでいる舞川さんに向かって、おおい、大将、時間ですよう、と大きな声で呼びかけた。灯は、ちょっとやめてよ、と慌てるが、自分の顔が笑顔で崩れていることに気づいていない。
終