田川昂胤探偵事務所② 第二章
第二章
1.ハン・バンウォン神龍隊長
北朝鮮には、世界に名だたる軍隊《特殊部隊》がある。その存在は、早くから広く知られている。その数は二十万人と言われており、実力は、アメリカ最強軍団デルタフォースに匹敵するとも言われている。
だが実態は、特殊部隊員は二万人だけで、これを本部隊員と呼び、二十万人の人民軍を特殊部隊員として公表していた。このことは、北朝鮮でも一部の人間しか知らない。
本部隊員はそれぞれ一騎当千の強者ぞろいで、個々の力量はデルタフォース以上だという自負を、北朝鮮首脳部は持っていた。それに対し、人民軍は、軍事活動よりも一糸乱れない行軍等を得意とする広報活動に力点を置いたパフォーマンス部隊だった。
神龍隊。
この名を知るものはさらに少ない。
本部隊員から厳選の上に厳選された精鋭中の精鋭軍。隊員数五百名で編成された軍団の名が神龍隊だ。
ハン・バンウォン。三十五歳。
神龍隊長。
意志の強さを感じさせる太い眉の下のぎょろりとした目。両側に大きな貝殻のように附着した耳。どす黒い顔の真ん中に筋の通った高い鼻。百八十センチを超える体躯は堂々として、人に威圧感を与えていた。
バンウォンは、今朝八時から、首領室の前に立っている。
警護責任者を通してアポイントを取ったとき、本日朝一に来いと言われたからだ。首領が九時に出勤するのを知っているバンウォンは一時間前に行ったのだが、首領室に着いたときには、すでに五~六人の上級幹部が立っていた。
最初に呼ばれたのは、後から来た上級幹部だった。自分はまだ先のようだ。しばらくしたら先ほどの幹部が出てきたので、今度は自分の番だと緊張していると、また後から来た別の上級幹部が呼ばれた。その上級幹部が出てきたので、今度こそ自分だと思ったが、また別の上級幹部が入っていった。この繰り返しが朝から続いた。何人入っていったのだろうか。二十人以上は入っている。しかし、もう間もなく呼ばれるはずだ。首領の執務は夕方五時で終わるからだ。今四時だ。だから、もうすぐ呼んでもらえる。
二年前……。
バンウォンは、本部隊員に抜擢されて十五年。首領に忠誠を誓い必死の思いで精進してきたかいがあって、上級軍人にまで上り詰めた。平民の身分で上級まで上りつめる例は、稀有だった。
上級軍人に昇級して間もなくのことだ。電話のコール音で目が覚めた。バンウォンの寝入りばなだ。時計を見ると十二時をまわっていた。
電話機を取るといきなり大声が聞こえた。
「ハン・バンウォンか。私は党書記だ。非常招集がかかったのですぐに来い。一時までにだ。わかったか」
返事をする間もなく一方的に切られた。いっぺんに目が覚めた。バンウォンは、目を閉じてゆっくりと呼吸した。みぞおちのあたりがひきつっている。
――こんな真夜中に呼び出しとは何事だ。それも、本部隊長からではなく党機関の最高幹部である党書記からの直接の電話だ。
こちらからの質問は一切許されない。北朝鮮では、たとえ軍の最高幹部でさえ、呼び出しの目的や行先など前もって知ることはできない。李王朝時代の始まりのころ、非常招集といって呼び出され、何の疑いもなく真夜中に家を出て、そのまま粛清された者が大勢いた。だがバンウォンには、粛清されるような思い当たることが全くなかった。もしかすると、首領に謁見するための秘密指令なのか。
訳のわからないまま大急ぎで制服に身を包み党の事務室に出向くと、首領の警護司令部の軍人に引き継がれた。誰も知らない場所にこっそり移動するのだ。バンウォンは、短く何度か呼吸を繰り返し、平静を保とうとした。
――これはいったいどういうことだろう。俺の忠誠心は一点の曇りもないぞ。
警護司令部の軍人と一緒に必死に走って党本部まで行くと、党書記が正門で待っていた。一緒に行動するのは初めてだ。後について門に入ると、軍服に革のベルトをX字に掛け、両脇に拳銃を下げた軍人が数十人いた。
庭に十台ほど止めてあったクルマの一台の前まで党書記に連れられて行くと、そこに警護責任者がいた。警護責任者は、党書記をあごで使っていた。泣く子も黙るという党書記が、警護責任者の前では子供のようだった。こんな党書記を見るのは初めてだ。
警護司令部の軍人が全員あわただしくクルマに乗った。バンウォンは、持ち物検査をされてから車に乗せられた。クルマの窓には分厚い黒いカーテンがしてあり、運転席との間にも同じカーテンがしてあった。外が全く見えない仕様だ。
「移動中はカーテンを開けてはならない。わかったか!」
隣に座った軍人がそう言ったとき、車は出発した。車内はその軍人と二人きりだ。慎重に軍人を見ないようにした。外の状態が前後左右まったくわからない。バンウォンは、最悪の事態を考えていた。体の中がけいれんを起こしているような感じだ。喉の渇きがひどかった。いつの間にか上着の裾をぎゅっと掴んでいる自分に気づいて、あわてて放した。手が汗で光っていた。
無言のままおよそ二時間程度走った。着いたのはどこかの駅だ。周囲を見渡すと、どうやら特別駅のようだった。首領一家だけが利用するように作られた個人駅だ。駅名がなく、警護司令部の軍人が武装して警護に立ち、周囲には高い塀が張り巡らせてあるのですぐにわかる。北朝鮮にはこんな駅が数十か所ある。人口衛星による監視からのがれられるように屋根の色がすべて草色になっている。
特別列車に乗せられた。ここでも持ち物検査をされた。中に入ると、座席はすべて一人用の寝台車だった。
「カーテンは開けるな。列車の中で移動するな。トイレは今行っておけ。なければすぐ就寝しろ」
クルマで隣に座っていた軍人が矢継ぎ早に言った。軍人が口を開くのはこれで二度目だ。バンウォンは寝台に横になったが、まったく眠れなかった。目を閉じて、ゆっくり呼吸し眠りを誘ったが、効果はなかった。気づけば、暑くないのにびっしょりと汗をかいていた。
何度したのかわからないほど寝返りを繰り返した。次第に速度が落ちて、特別列車が停車した。朝六時だった。バンウォンは、結局一睡もできなかった。ここでもう一度クルマに乗せられ、一時間ほど走った。着いたところは、首領一家だけが使うよう作られた特別港だった。そこで高速艇に乗り換えた。
――どうやらこれは、謁見のための移動に違いない。ここまでくれば間違いない。最悪の事態は免れたようだ。
首と胴が離れることはなさそうだと、バンウォンはようやく結論を出した。とたんに、先ほどまでの緊張とはまた別の緊張に包まれた。
海を三十分ほど航行したころ、見たことのない島が視界に入ってきた。いま完成したばかりのように手入れの行き届いた綺麗な港だった。
車に乗り換えた。港から少し走ると、高い塀に囲まれた一角が現れた。門があり門衛が直立不動の姿勢で敬礼していた。入って五分ほど走ると御殿のような建物が表れた。
手前に小さな建物があり、そこに入れられた。眠いはずだが、まったく眠くなかった。そのかわり、喉がひきつれて悲鳴を上げていた。何も説明がないまま、五時間ほど待たされた。
「ついてこい」
いきなり姿を表して、警護責任者が言った。あいかわらず必要最小限の言葉しか発しない。
邸宅に連れていかれ、玄関入ってすぐの謁見室に入った。警護責任者はここで待てと言い残して出て行った。
見たこともないような豪華なイスが、大きなテープルを囲んでゆったりと十脚ほど並んでいた。正面にあるひときわ豪華な椅子は、首領用だとすぐにわかる。壁にはスローガンが掛けてあった。
《偉大なる指導者首領様を命がけで死守しよう!》と書いてある。
二十分ほど待たされたころ、不意に警護の軍人たちがあわただしく動き始めた。
白い手袋をはめた軍人が入ってきて、首領が座る椅子にスプレーを吹きかけた。警護責任者が来てバンウォンは部屋の入り口に立たせられた。そして、腕時計や携帯電話やナックル付きの革ベルトなどをすべて没収された。首領に謁見するときは寸鉄も帯びさせないのが警護の鉄則のようだった。
次に、消毒液の匂いがする手拭きを渡された。
「首領様と握手するかもしれないので、これで手を拭け。ここに立って待つのだ。首領様の御前に立ったら、目を合わせてはいけない。わかったか!」
そう言うと、警護責任者はまたどこかに行ってしまった。バンウォンの両手は汗でびっしょり濡れていたので、丁寧に拭き取った。拭かずに握手していたらと思うと、ぞっとした。
――いよいよ謁見だ。だが、首領様が俺に一体何の用事があるのだろう? 首領様に声をかけられたらどう言えばよいのか……。
警備兵が二十人ほど入ってきて直立不動の姿勢をとった。
立ったまま待つこと二十分。警護責任者が帰って来た。
「首領様がお入りになる」
バンウォンは、直立不動の姿勢をとった。
首領様に謁見させていただくことなど自分には生涯ありえない、と思っていたバンウォンは、緊張がピークに達した。鼓動が激しく騒いで破裂しそうになっていた。大きな呼吸を素早く何度も繰り返し、両手をズボンに擦りつけた。
首領が入ってきた。平常服を着ていた。膨らみ返った頬の肉に押しひしがれて糸のようになった目が、一瞬目に入った。顔は、テレビや新聞で見るより血色がよく艶やかに見えた。
同時に、警護兵がいっせいに首領に向かって喉が張り裂けんばかりに「万歳!」と叫んだ。
バンウォンは、ほんのわずか遅れたが、叫ぶことができた。首領は、叫びなど耳に届いていないかのように平然と所定の椅子の前に立つと、しばらく考えごとをしていた。万歳は続いている。それから、ようやくこちらを向いた。その瞬間、万歳の声が一段と大きくなった。
首領がつかつかと歩いてきてバンウォンの前に立ったとたん、ピタッと万歳が止まった。バンウォンは、目の周りがこわばって、身体中硬直した。胃が痛い。
「おまえか。軍始まって以来のスピード出世したヤツは」
バンウォンがどう返事すればいいのかわからずにいると、警護責任者が横から言った。
「首領同志様、この同志であります。最年少将軍であり、最優秀軍人であります」
首領はギョロリと警護責任者を見た。
「誰がそんなこと訊いた。最優秀かどうか、おまえが決めるのか」
警護責任者はあわてて直立不動の姿勢をとった。
「申し訳ありません! すべて首領同志様であります!」
首領がバンウォンのほうを向いて言った。
「おまえ、本部隊の人事担当幹部に親戚でもいるのかね。ワシを騙したらその首が胴から離れるぞ」
「は……?」
何を言われたのかわからなかった。バンウォンが目をしばたいていると、首領が笑いながらバンウォンの肩をポンとたたいた。
「よく頑張ったなと言っているのだ、こいつめ! 同志は、全軍の模範になるぞ」
首領がそう言ったが、バンウォンはまだなんとなく落ち着かなかった。警護責任者がこそこそと近づいてきた。
「ばかもの! ありがとうございます。死んでも忠誠をつくします、と言わないか!」
小声で素早くそう言った。
「人払いせよ」
首領は、警護責任者に言った。警護責任者は、謁見室内にいる警護兵たちを下がらせた。
「おまえもだ」
首領は警護責任者に言った。
「は!」
警護責任者は、あわてて出て行った。
広い謁見室にバンウォンは首領と二人きりになった。緊張で体が硬直して痛かった。
「同志」
首領に声をかけられた。
「本日は呼んでいただいて光栄至極であります!」
口がからからに渇いていたが、用意していた言葉を出せた。
「座りたまえ」
首領のとなりの椅子を指して、首領は、自分の椅子に座った。
「畏れ多くも首領様の隣に座ることはできません! 自分は立ったままで結構であります!」
用意していた言葉だ。詰まらずに言えた。直立不動の姿勢で、視線は正面に向けたままだ。視線を下に向けると首領の目と合うからだ。
「では好きにしたまえ」
「はい! ありがとうございます!」
「実は同志に、折り入って頼みたいことがある」
「はいっ。命令してくだい」
命令じゃなく頼みたいと言われたので、バンウォンはますます緊張した。依頼は人民のすることであり、首領がするのは命令だけのはずだ。
「同志に新しい部隊を作ってもらいたい」
首領が命令ではなく依頼している。
「はいっ。新しい部隊を作るのでありますか!」
バンウォンはとりあえず復唱した。
「そうだ。まったく新しい部隊だ、規模は五百」
どういうことかよくわからなかったが、首領に質問などできるはずもない。
「私の直属部隊だ」
バンウォンが黙っていると、首領が言った。
「世界最強軍団を作って欲しい」
願ってもない光栄この上ない命令だった。
「はいっ。世界最強軍団を作るであります!」
バンウォンは、深く考えず、オウム返しに答えていた。
「超極秘の特殊部隊だ。誰にも存在を知られてはいけない。編成まで期限は二年だ。人選は同志に任せる。どこの部署からでも良い。引き抜くのだ。 同志にその権限を与える」
そう言って首領が渡してくれたのは、直径十センチ、厚さ五ミリほどの円形の金のペンダントだった。
《朝鮮民主主義人民共和国》と周囲に刻印してあり、中央に『季 首領』と崩し字で刻印してある。新部隊結成のための最高級の人事権限を首領から直接授けられたのだ。
首領が、バンウォンの肩に手を乗せてぐっと力を入れた。強い目力を感じた。首領はそのまま出て行った。
謁見が終了した。
それから、バンウォンの隊員集めが始まった。自分の目にかなう隊員を、慎重かつ丁寧に、本部隊中くまなく探しまわった。
バンウォンが指名する隊員は、どの部隊においてもトップクラスの人材だ。引き抜かれたくないはずだが、ペンダントが絶大な効力を発揮し、誰一人抵抗しないどころかむしろどこの部隊でも進んで提供したがった。
それでも、首領に命令された人数を揃えるのに二カ月かかった。メンバーは、最高級の隊員ばかりだ。
それからの二十二カ月は、地獄の訓練だった。死ぬほど過酷な訓練をしたが、バンウォンが選りすぐっただけあって、誰一人脱落することなくついてきた。この五百名は、首領に死ねと言われたら、一瞬のためらいもなく死ぬ。
心が完全に一つにまとまっていた。
バンウォンは、この部隊に絶大の自信があった。
「ハン・バンウォン同志、入ってください」
呼ばれて我に返った。
ようやくバンウォンの番だ。
執務室に入った。バンウォンは直立不動で敬礼した。
警護責任者はあらかじめ言われていたのか、警護兵を部屋から出し、バンウォンだけ残して自分も出て行った。大きく呼吸する。
「できたのかね」
いきなり訊かれた。首領の声を間近で直接聞くのは二年ぶりだ。両手の汗をズボンの前の部分で素早く拭った。
「はいっ。お待たせいたしました!」
首領が立ち上がって近づいてきて、バンウォンの手を握った。グリップがたくましかった。
「同志、ご苦労だった!」
目を合わせてはいないが、首領の鋭い目がバンウォンにつきささるのがわかった。
バンウォンは、これまでやってきた地獄の訓練の苦しみが、今の一言で吹き飛んだ。首領に手を握ってもらいねぎらってもらうとは、光栄極まりないことだった。口が渇ききっていた。
「ありがとうございます!」
バンウォンは感激して泣きそうになったが、必死でこらえた。みぞおちのあたりが空っぽになったような気がした。
「成果を見せてもらおうか」
当然のことだ。首領としては、実力を知っておく必要がある。
「はいっ。いつでもご命令ください!」
「では、日程を調整して連絡する」
「アルゲッスミニダ(かしこまりました)!」
バンウォンの面談時間は終了した。これだけの会話をするのに朝からほぼ一日かかったが、これはバンウォンが今日しなければならない一番大事な仕事だった。これで今日の仕事は完了だ。
翌日、党書記をとおして警護責任者からさっそく連絡が入った。実力を披露する日だ。来月十三日とのこと。二十日後だ。
バンウォンは大隊長を集めた。
神龍員は、百名の大隊が五つあり、大隊の中には二十名の中隊が五つ、中隊の中に四名の小隊が五つある。それぞれ大隊長、中隊長、小隊長がいる。バンウォンは大隊長に言った。来月十三日にデモンストレーション試合が行われる。思う存分暴れろ、と。
実力を見せるには格闘の試合をするのが一番だ。
バンウォンの提案で、本部隊を巻き込んでの武闘大会を急きょ開催することになった。特殊部隊から一千名を選出させ、神龍隊からは五十名を選出した。総数一千五十名の武闘大会だ。神龍隊の存在が表に現れることはない。
バンウォンは試合方法を次のようにした。
選抜された本部隊員一千名をランダムに二十名ずつ五十組に分け、各組に神龍隊員を一名ずつ配し二十一名を一組とする。そして各組乱闘形式で闘い、一人勝ち残った者を勝者とする。
本部隊は事情を何も知らず、御前試合の格闘大会だと思ってテンションが上がっている。しかし、神龍隊員はそうではない。勝ち残って当たり前と首領に思われているのだ。死活問題に直結する。そのプレッシャーは相当なものだと思われたが、神龍隊員にそのプレッシャーはなかった。ただ、静かな闘志に燃えていた。
大会当日。
会場は、七万人収容の平壌サッカースタジアムだ。チケットは、官僚に四枚ずつ配布された。チケットのない官僚は、テレビの前に集合した。
北朝鮮始まって以来の御前格闘大会ということで、平壌は朝から異常な盛り上がりを見せていた。
道路規制が敷かれ、街のいたるところに拳銃を二丁携えた軍人が立っていた。スタジアムの周囲は、軍人が三重に取り巻いていた。
入場者全員が起立している会場に軍服を着た首領が姿を見せると、「万歳!」の大合唱が始まった。
七万人の大合唱は、腹の底に響いた。しばらく続いたが、首領が手をあげるとピタリと止まって、会場は無音となった。絶妙の間で、首領が挨拶を始めた。
威厳に満ちた慈愛あふれる首領の話しに感激し、すすり泣くものが大勢いた。自分の周りが泣き出すと、あわててハンカチを出して泣いているふりをする者もいた。
挨拶が終わると、最初にも増して大きな「万歳!」が会場を揺るがした。七万人が着席するときに出す音は、重くて力強かった。
バンウォンは首領席の横、一つ離れた席に座らされていた。
喜び組のパフォーマンスが始まった。豪華で絢爛きらびやかな一糸乱れない演技には、いつ見ても魅了される。世界一と言えるだろう。すばらしいの一言だ。本当に誇らしい。だが今日のバンウォンは、緊張していて、鑑賞する余裕はなかった。
喜び組が終わると、いよいよ試合の開始だ。
「フィールドは、一ゾーン二十一名、十ゾーンあります。各ゾーン勝ち残り戦となっております。全ゾーン一斉に試合を行います」
バンウォンが首領に説明した。
「神龍隊はどうなっておるのかね」
「各ゾーンに一名ずつ入っております。腰に黄色いリボンを巻いているのが神龍隊員であります」
「黄色いリボン? ほう、なるほど。巻いている隊員がいるな」
「はい。その者が神龍隊員であります」
「勝ち残り戦というと?」
「ルールは三つであります。素手であること。目・のど・睾丸への攻撃禁止。制限時間六十分。各ゾーン最後に一人立っている者が勝者となります。第一試合から第五試合まで、十ゾーンで勝者が五十名となります」
場内が大きくどよめいた。選手が入場してきたからだ。それぞれ決められたゾーンに分かれて行く。
日頃サッカーを見慣れている者にとっては、フィールドの選手は異常な多さだった。
銃声とともに試合が開始された。
壮絶だった。
入り乱れて繰り広げられる闘いは、野獣の殺し合いのような様相だった。
軍支給の平常服を全員着用しているので、誰が誰だか観客席からはほとんど判別できなかった。
しかしよく見ると、各ゾーンに一人、腰に黄色いリボンを巻いている隊員がいる。リボンをしている隊員は神龍隊員だ。事情を知らない者はリボンに気づかないだろう。
十分経過した。
フィールドに立っている者が半分になっていた。それでも闘いは続いている。
サッカーの試合では考えられないことだが、観客席は静まり返っていた。
首領はフィールドに集中している。バンウォンは、緊張したまま各ゾーンを見つめていた。
さらに十分経過した。
各ゾーンとも三~四名残っていた。あとの者は、横になったまま動かない。多少動ける者も、すでに戦意喪失していた。もう無理だと自分で判断すれば、立ち上がらずに座ったままでいれば良いことになっている。
いつの間にか、各ゾーンとも、立っている者が一人だけになっていた。
首領が双眼鏡で注視している。リボンの有無の確認だろう。
すぐわかる者もいるが、わかりにくい者もいる。
十ゾーンすべて黄色いリボンを着けていた。バンウォンは、一瞬緊張感がほぐれ、大きく息を吐きだした。
第一試合終了のアナウンス。
今まで静かだった観客席から、突然、地響きのような歓声がわいた。
入場門から大勢の軍人が飛び出してきて、倒れている選手をタンカーに乗せて回収した。勝ち残った十人は、首領に拝礼すると、退場門から出て行った。
アナウンスは十分の休憩を案内した。
「バンウォン同志、やるじゃないか」
「これもすべて首領同志様のおかげであります」
首相はその後、第五試合まですべてを観戦した。
どの試合も、勝者は全員黄色いリボンをしていた。
首領は機嫌が良かった。神龍隊を大いに気に入ったようだった。
2.世直し党
キム・ソンヒョンは、北朝鮮平壌の西に位置する信川という町の裕福な家に生まれた。家にないものはなかった。生まれたときからすべてにおいて恵まれていたのだ。何人も使用人がいたから、小さいころから人を使うのが自然の流れだった。
ソンヒョンには、兄がいた。兄は、長男というだけで、格別だった。兄は何事においても間違いというものがなかった。何をしても許されたからだ。長男が言うことすることは全部正しいのだ。
小さい頃はこれがあたりまえとしか思っていなかった。
あたりまえでないと思い始めたのは、チャン・イェフンに出会ってからだ。
イェフンは、白丁の家の長男として生まれたが、生まれた家には、生きていくために最低限必要なものすらなかったという。
米だ。
配給米があるにはある。だが、誰がどういう配分をしているのか知らないが、家族を満腹にさせるにはほど遠かったようだ。だからイェフンはいつも腹をすかせていて、満腹感とはどんなものかを知らなかった。
環境が違うそんな二人が出会ったのは、まだ子供のころのことだ。
ある日、ソンヒョンが村のはずれを歩いていたら、チンピラ数人に囲まれた。白丁村には近づくなと日頃から言われていたことを思い出した時は遅かった。幸い金目のものは持っていなかったが、その代わり、情け容赦なく、殴る蹴るの乱暴狼藉が始まった。十回以上殴られたころ、突然大声がした。
「大勢で寄ってたかって、子供相手に何してるだ!」
攻撃の手が止まった。ぎゅっと閉じていた目をそっと開けてソンヒョンが見ると、足のすらりと伸びた颯爽たる長身の若者が仁王立ちしていた。
「関係ねえヤツは引っ込んでろ!」
チンピラの親分格の男が言った。
「お前ら白丁村の者でねえか。そんな卑怯なことをするヤツは許しておかねえぞ」
長身の若者が凛とした声で言うと、
「お前を知ってるぜ。わかったよ。そんなに力むな」
と言うと、「おい、行くぞ」と仲間を連れて去って行った。
「おい、でえじょうぶか!」
ソンヒョンを抱き起こし心配そうに顔をのぞきこんで若者が言った。ソンヒョンより幾つか年上のようだった。
「ああ。大丈夫です。ありがとうございました」
ちゃんと喋っているつもりだが、顎が痛くて動かしにくく、若者に通じたのかどうかわからなかった。口の中が変な味がするのでペッと唾を吐くと、どろりと血が垂れた。
「あいつらはこの村の者だ。済まなかったな。あとできつく言っとくから」
その男の細い目から射出される熱い電波のような何かが、ソンヒョンの胸に刺さった。
「おら、チャン・イェフン。おめえは?」
広い額とぐっと結ばれた唇には、かたくなな意志が秘められているようだった。
「ぼくは、キム・ソンヒョンです」
起こされて立ち上がると、ソンヒョンの目のあたりに、イェフンの顎があった。
「キム・ソンヒョン、おめえ、幾つだ?」
温かい眼差しでイェフンが言った。
「ぼくは、十四歳です」
「そうか。おらは十七だ。オラのこと、ヒョン(兄貴)って呼びな」
「ヒョン」
それから二人は急速に仲良くなり、何をするにも常に一緒だった。
ソンヒョンの通う学校は高級官僚の子弟ばかりだから、これまでなんの違和感も疑問もなかった。ところが、イェフンと居ると驚きの連続だった。ソンヒョンにとっては何でもないことが、イェフンにとっては特別なことであり、イェフンにとっては何でもないことが、ソンヒョンにとっては特別なことだった。
ソンヒョンにとって、尊敬する対象はただ一人。首領しか考えられなかった。イェフンが尊敬するのは、ホンㆍギルドンなどの伝説の英雄だった。ソンヒョンは、そんな英雄の名前すら知らなかった。
「尊敬する」「高貴なる」「敬愛する」などの言葉は、首領のためだけにある首領のもう一つの名前のような、朝鮮語固有の言葉だとばかりソンヒョンは思っていた。ところがイェフンは、「尊敬するホンㆍギルドン」とか「敬愛する母」とか、思うにまかせて自由に使っていた。
これは、ソンヒョンにとって衝撃的だった。
しかし、子供の二人が全く知らないこともあった。
上級官僚から最下層の人民にいたるまで、全居宅に盗聴器がセットされ、電話を所有している家はすべての通話が盗聴されているということだ。
もちろん言論の自由はない。
隣の家の者が突然いなくなったという話しをたまに耳にするが、これは自宅でした家族の会話に問題があったのだと、近所の住人は思っていた。
自宅での家族の楽しい団らんの時間でも、細心の注意を怠ると、二度と帰れないことになるのだ。
ただ、誰もそのことを口にすることはない。
これらは、ソンヒョンが大人になってわかったことだ。
大人になってからは、イェフンと会う機会はかなり減った。しかし、それでも定期的に会ってはいた。
ソンヒョンは三十四歳になっていた。背丈は大きい方ではなく、なで肩で太り気味、いかにも貴族階級の子息らしい善良で素直な男に育っていた。親の七光りを受けて統戦部で仕事をしていた。平民ではあり得ない厚遇だった。統戦部とは、北朝鮮の情報機関、朝鮮労働党統一戦線部の通称であり、俗に他の党諜報機関とともに「三号庁舎」と呼ばれるエリート集団だった。
最初、統戦部の事務室に入ったとき、ソンヒョンは驚愕した。統戦部の組織スローガンだ。
それは「現地化」つまり韓国化だった。これまで野蛮で低級な敵国として叩き込まれてきた南朝鮮化など、考えられない。おぞましいことだった。
しかし、事務室の机の上に何気なく広げられている韓国の新聞や書籍、広告紙は、まるで何でもないもののようだった。
事務室には《平壌の中のソウルになれ》という首領の指針書を額縁に入れて丁寧に奉られている。
そういうことなのだ。
その指針どおり、統戦部は平壌の中にできたソウルだった。
韓国のNGOや宗教団体から送ってきてくれる北朝鮮への支援物資が、韓国の商標ラベルをつけたまま配給される。
今までソンヒョンが生きてきた北朝鮮の世界と統戦部の事務室とは、あまりにも違っていた。ただし、韓国の書籍に掲載されている北朝鮮首領の批判的な内容は、さすがに黒塗りしたうえでまわってくる。
誰もいないとき、黒塗りしたページを窓ガラスに押し当ててみたことがある。すると陽の光で薄くなって、印刷された部分が鮮明に浮かび上がった。そこには恐ろしいことが書いてあった。北朝鮮政権がひた隠しにしてきた驚愕そのものの内容だった。祖国分断が始まった一九五〇年の朝鮮戦争は、先に韓国が侵攻してきたものとばかり思っていたからだ。
国民は、井の中の蛙だ。統戦部は、首領を神格化するための対北工作機関だ。
ソンヒョンは、この部署で仕事をするようになってから、一般国民が絶対に知ってはならない統戦部だけの秘密ばかり見てきた。最初こそスリルもおもしろさもあったが、今は辟易している。
北朝鮮国民に流す情報操作をすることも、ソンヒョンの仕事だ。
北朝鮮のテレビにときどき韓国の大学生たちが登場して北寄りの秘密運動を紹介したりしているが、彼らは他でもない統戦部二十六局に所属する北朝鮮の俳優だ。それを北朝鮮中央テレビや労働新聞などで、たった今入ったトップニュースのように宣伝する。そうすれば、北朝鮮の住民は、自分達の指導者が、全世界はもちろん敵国である韓国の人間ですら認める偉大な人物だと錯覚するわけだ。
平壌のど真ん中で、ソウルの消息を都合のいいように作り出している。誰にとって都合がいいのか、言うまでもないことだ。
ソンヒョンは、北朝鮮の政権が行っている虚偽の煽動のラッパ吹きをしていた。
統戦部は、韓国人四十万人分の住民登録証番号を確保していた。これを利用し、韓国内のサイトに書き込みを行い、ニセ記事をインターネットで流し、韓国内の葛藤をでっちあげている。
つまり統戦部は、撹乱と心理戦を受け持つ対南工作機関でもあった。
少数より大多数を欺くほうがよりたやすい。
統戦部でねつ造した情報を政権が発表する。それを、絶対的な真実だと人民は信じ込む。対北心理作戦、対南心理作戦のシナリオを作成するのが、ソンヒョンの仕事だった。ソンヒョンの頭の中でねつ造された情報が、首領の神々しさと北朝鮮という国の偉大さを北朝鮮人民に伝え、北朝鮮をないがしろにして挑発を続けるという韓国政府のいやらしさが韓国人民に伝わる。
両国の違いは、韓国には情報が満ち溢れているのでソンヒョンの流す情報をそのままうのみにする人民は少ないが、完璧な情報規制がしかれている北朝鮮では、ソンヒョンの流す情報がすべてだから人民はそのままうのみにするということだ。
北朝鮮には生産力がない。だから、韓国の対北支援を受け入れるしかない。その分、自然と韓国の発言力が増す。かといって、もし韓国の意見を全面的に聞き入れてしまうと、今の北朝鮮の体制が根本から揺らぐことになる。首領としてそれは絶対に阻止したい。だが、意見をすべて蹴ってしまうと、支援の米さえあきらめるしかなくなる。
そこで、米はもらうが国家体制は崩さないという強力なメッセージを韓国に伝えなければならない。韓国からの支援体制をそのまま北朝鮮の人民に伝えることも避けなければならない。韓国に対する人民の敵対意識が薄れることは避けたいからだ。
韓国との交渉に使えるカードは、北朝鮮には何もない。韓国には、物資も資金力もある。そこで北朝鮮は、暴力を使って韓国の平和を脅かすというカードをちらつかせ、最大限有利な交渉をしようとする。
いつどこでどのタイミングで脅しをかけるのが一番効果的か、統戦部が企画立案する。ただし、全面戦争には絶対突入させられない。また、対北投資企業は大いに誘致したい。
だから、企業を安全に誘致するためにも陸地は避け、軍事挑発は黄海交戦とした。サッカーワールドカップの最中が効果的だということで、韓国の試合があるときに実施した。
問題が大きくなればなるほど良いのだ。そのときは、当然の結果として、国際的な非難が集中した。しかし、それは首領を喜ばせただけだった。
だが、軍事交戦してみてはっきりしたことがある。
北朝鮮の海軍は非常に劣悪だということだ。火力はもちろんのこと、船の速力についてもまったく劣る。砲弾も燃料も一杯にするほどは支給できない。まともに戦ったらおそらく北朝鮮海軍は闘いにならないだろう。
対戦中に退避したので実際の被害はまだ少なかったが、それでも死傷者は多数出ていた。
しかし、人民には、北朝鮮軍にケガ人は一人もいない、と発表する。けが人は秘密が漏れないように特別な病院に入院させ、その病院は軍隊が厳重に警備した。挑発したのは韓国で、やむを得ず応戦したのが北朝鮮。見事蹴散らしたのが北朝鮮で、大敗したのが韓国海軍。
そういった情報操作もソンヒョンの仕事だ。
北朝鮮が今最も力を入れているのは核爆弾開発だ。海軍維持費を考えると、こちらの方がまだ安くあがる。実験を繰り返し、徐々にだが間違いなく性能がアップしている。西側諸国からの抗議が相次いでいるが、ことごとく無視した。近海への実験効果は、韓国の反応をみれば歴然としている。
こうした事実は、絶対に発表されることはない。
ソンヒョンは、つくづく嫌気がさしていた。北朝鮮人民の役に立っているのなら良い。しかし、首領たった一人のためにあらゆることがなされる。たった一人のわがままを許し続けるためだけにだ。このまま続ければ、人民の暮らしがますます困窮するのは目に見えている。
李王朝時代、王位をめぐって何人もの王族が親子兄弟間で骨肉の争いをしている。自分の長子が王を継いだとき、その王位を狙うものが出ないよう、王の権力がおびやかされないよう兄弟親族功臣一族ことごとく殺しつくした何代目かの王がいた。権力を手にした者の醜い争いだ。それも最高絶対権力だ。一度味わえば心を魔物にする絶対権力。
北朝鮮の今の首領はどうなのか。
南北朝鮮戦争で、北朝鮮がソウルをいったん占領したものの火力がつきて攻めきれず三十八度線で南北に分かれたそのときに、ソ連の後押しを受け、ときの将軍が暫定的に代表の座に就いたのが初代首領。
二代目は、その長子が成人後、あの手この手を使い屈辱をも乗り越え、かなり強引に首領の座を父親から引き寄せている。首領の座についたと同時に軍高官クラスの反対勢力の粛清を実施。首領唯一指導体制の名目で「脇役」という用語を作り、その最初の対象が、継母やその一家、腹違いの弟、叔父たちであり、それらすべてを粛清した。
この頃には首領の神格化ができあがっていた。それほどにして手に入れた絶対権力を、手放す気があろうはずがない。人を生かすも殺すも自在だというしびれるほどの権力を持つと、人間は大きく変わるのだろう。これは、実際に手にしたものにしかわからないことだった。
ある日、ソンヒョンは、特殊部隊に勤務しているワン・ヨンスの執務室に呼ばれた。最近、警護隊に抜擢されたと聞いている。ヨンスのことは子供のころからよく知っている。母方の従弟だ。ヨンスは、特に武道に秀でていた。色が浅黒く、髪は短髪で背がすらりとした二重瞼のはっきりした悧巧な目つきをした男だ。
ヨンスが人払いをしてソンヒョンを応接セットに誘い、座るように促した。絶対に口外するなと釘をさし、ヨンスが話しだした。その話しを聞いて、ヨンスは肝をつぶした。あまりにも荒唐無稽な話しだったからだ。《世直し党》などという聞いたこともない言葉を言うヨンスの頭がおかしくなったとソンヒョンは思った。その発想が信じられなかったし、万に一も成功するとは思えなかった。
だが、こういった冗談を言う男ではないことをソンヒョンはよく知っていた。ヨンスは、強い意志を示すかのような太い一の字眉の下の目を決然と輝かせ、厚い唇をきゅっと閉じていた。ソンヒョンは、なみなみならないヨンスの決意を見た気がした。
「警備隊にいるくせに何を考えているのだ!」
ソンヒョンは、ヨンスを叱り飛ばした。するとヨンスが言った。
「神龍隊って知ってるか」
ソンヒョンが言ったことを無視してヨンスが言った。初めて聞く名だ。
「何だって?」
「神龍隊だ。知るわけないよな。超極秘に結成された首領直属部隊だ」
ヨンスは、外部の人間に神龍隊のことを言うのは初めてだと言った。
「泣く子も黙る警護責任者でも詳細は知らない。完全に首領個人部隊として存在する」
ヨンスはさりげなく言っているが、ソンヒョンにとっては恐ろしい内容だった。だが、一般人が知ってはならない秘密ばかり扱っているソンヒョンには、十分ありうることだと理解できた。
「俺は、第四大隊の大隊長だ」
「えっ⁉」
ソンヒョンは驚いた。すごい出世だ。
「それはおめでとう! 知らなくて、祝いの言葉も言えなかった」
ただの将軍ではなく、直属部隊の大隊長ともなれば、最高位の警護責任者の上をいくのではないか。
「そんなことはいい」
ヨンスは、うんざりした顔で言った。
「おい、ヨンス。おまえは、なぜそんなに自分の命を粗末にするのだ」
今の身分は、子々孫々まで富貴栄華を約束されたのも同然だ。それなのに、《世直し党》などとわけのわからないことを言うヨンスが信じられなかった。
「粗末にするつもりはない」
「一生ぜいたくをして暮せるのだぞ。お、おまえの親戚縁者まで、生きていけるのだぞ」
ゴクリと唾を飲み込み、一瞬言葉に詰まった。ソンヒョンは、体が熱をもってきたのがわかった。
「人民が飢えで苦しんでいるのに、俺だけうまいものを喰うわけにはいかない。おまえならそんなことができるのか」
ヨンスはソンヒョンを睨んで言った。ソンヒョンは、目をパチパチさせて言い返した。
「俺は統戦部にいるのだぞ。そんな俺に、恐ろしいことを告白してしまって、後悔するぞ」
「ソンヒョン、おまえならわかるはずだ。おまえが今していることが正しいかどうか、自分の胸に聞いてみろ」
痛いところを突かれた。ソンヒョンは、自分の仕事について自分で自分に腹を立てていたのだ。
「俺の部下は百人だ。全員、俺に命を預けている」
ソンヒョンが黙っていると、ヨンスが言った。それを聞いて、
「おまえ、成功すると思っているのか」
手を大きく広げて胸に押しつけてソンヒョンが言った。
「名前は今言えないが、俺にこの話を持ってきた人は、俺より高位の官僚だ」
意外なことをヨンスが言った。
「何? 本当か!」
両眉を上げて、ソンヒョンが言った。一瞬、他のことを全部忘れてしまった。信じられないことだった。北朝鮮では、ほんの一握りの高位官僚だけが富貴栄華をわがものとし、世襲制で孫子にいたるまでその地位が保障されている。首領に逆らいさえしなければ、だ。その高位官僚が、自らの権利を放棄するだけでなく、一族郎党すべて死罪は免れないという反逆行為を計画しているという。
「本当だ。その方は、この国を憂いておられる。その方に私心はない。必ず成功させるとおっしゃった。力を貸してくれ、と。その方には武力がないからだ」
どうやら本当のようだ。ソンヒョンは、母のことが頭をよぎった。失敗したら、母を死なせることになる。しかし、誰かがいつかは立ち上がらなければならないのは事実だ。
「わかった。俺は何をすればいい?」
なぜかわからないが、気が付けば、受諾の言葉がソンヒョンの口から出ていた。
「おお! ソンヒョンならそう言ってくれると信じていたぞ!」
ヨンスはソンヒョンの手を強く握った。
「必ず、必ず、成功させよう!」
「おお!」
二人は、肩をしっかり抱き合った。
《世直し党》は、一発必中でいかなければならない。失敗は死を意味し、それは老いた母をも道連れにする。
3.誘い
「母ちゃん、だいじょうぶかい?」
奥の壁際のせんべい布団の上に寝ている母に、イェフンは帰宅するなり訊いた。
三メートル四方の一間だけが、イェフンの住家だ。家具という物がない。隅に積み重ねてあるわずかな衣服だけが財産だ。
「お帰り、イェフン」
起き上がろうとしながら、母が言った。
「あ、母ちゃん。起きちゃいけねえよ」
薄い掛け布団を押し上げて起きようとする母にイェフンが言った。
「大丈夫だよ。おめえが煎じてくれる薬を毎日飲んでるからね」
そう言いながら体を起こしたので、イェフンは傍に座って母の背中を支えた。薄くて硬い背中が、胸を痛くした。一面に薄くもじゃもじゃと生えている髪は、禿げてはいないが半分以上白髪で、特に鬢は真っ白だ。乱れた頭髪が痛々しかった。額には苦労の太い皺が一本目立つ。顔全体は非常に小皺が多い。
「無理しねえでくんろ、母ちゃん」
イェフンの母は風邪をひいて寝込んだまま、もう一年になる。ただの風邪じゃないのはわかっている。薬は高すぎて買えないし、まして医者などとんでもない話しだ。知り合いに漢方薬を安く譲ってもらって、毎朝煎じて飲ませている。母には言っていないが、少しずつ悪化しているように見える。治癒に向かっていないのは確かだ。
イェフンは、母親との二人暮らしだ。父親は、イェフンが子供のころ、仕事に行ってくると言って出かけたまま帰ってきていない。おそらく、南に行ったまま帰れなくなったのだろう。
イェフンは、母親の手だけで育てられた。
イェフンは、精肉所に勤務していた。朝八時から晩十時まで働いている。その間、母一人だ。職場は、少し遠い。仕事中には母を見に帰れないから出勤前に薬と食事の用意はしておく。だが、暖かいものを食べさせてあげることができないことを申し訳なく思っていた。
「おめえもボチボチ嫁っこさもらわねえとな」
イェフンは今年三十七歳になる。
「またそんなことを言う。嫁っこなんて、おら、もらわねえぞ」
イェフンは嫁をもらうなんて考えもしなかった。今の配給では、とても養っていけない。
「すまねえな、イェフン。嫁っこさもらってやれねえで」
「何を言うだよ。俺は母ちゃんと二人だけで暮らしていきてえんだよ」
親孝行したいのに、何もできない。
イェフンには時間がなかった。
地域の自警団の団長を任されて五年になる。警察官がいるにはいるが、貴族階級のためにあるようなもので、最下層階級のためには絶対に動いてくれない。だから、自分達のことは自分達で守らざるを得ない。
イェフンが団長を務めるようになって、この地区の治安は安定していた。しかし、母親が寝込んだとき退団させて欲しいと言ったのだが、イェフンにはリーダーシップがあった。快活明朗で正義感が強くて公平なイェフンの代わりを務められる者は他に誰もいなかった。強く遺留を受けた。固辞していたが、結局、母親のこの一言で引き受けることになった。
「他人様のお役に立てるのならありがたいことだから、ぜひやらせてもらいなさい。自分のことだけ考えていてはいけねえだよ。私のことは心配いらない」
自警団の会合は毎週あるが、そのときだけ少し早めに仕事を上がらせてもらっている。
会合は夜八時から二時間だ。他に月に一度だけ、団長会議がある。これは、 信川の町全体の団長が、全員集合する。次の総団長はイェフンだと言われていた。
そんなことよりイェフンは、母親のことが気になっていた。真面目に一生懸命働いているが、働いても働いても楽にならない。 食べていくだけで精一杯だ。どうすればいいのだろう。母親を病院に連れていきたいし、うまいものを食べさせてやりたい。そのことだけをイェフンは考えていた。
今日は二週間ぶりの休暇だ。イェフンは、久しぶりにソンヒョンと会うことになっている。ソンヒョンが統戦部に入ってから会う機会がほとんどなくなったが、それでも年に何回かは会う。ソンヒョンはイェフンの弟のような存在だった。イェフンの友達は、ソンヒョンだけだ。
イェフンは、身長百八十センチで体重七十二キロ。体脂肪率が低く筋肉質で体を使うことが得意で快活な男だ。反対にソンヒョンは、運動音痴で身長百七十センチ、体重七十八キロだ。やや肥満体だが頭の切れがよく、慧眼力・洞察力に優れていた。パソコンのことならわからないことはなかった。
二人の付き合いは二十年になる。
イェフンは最近、ソンヒョンのことが気になっていた。ソンヒョンはもともと快活なほうではなかったが、ここ数年、屈折した何かを感じるのだ。言いたいことがあるならソンヒョンから言うだろうと思って何も訊かずに待っていたのだが、今日は自分から尋ねるつもりだった。
いつものように朝早く起きて煎じ薬と食事の準備を終え、イェフンが言った。
「オモニ、ミアネヨ。ソンヒョンと会うことになっているから俺は出かけるだよ。ちゃんと薬を飲んでくんろ」
「ああ。何度も言わなくてもわかっているよ。ソンヒョンによろしく言っとくれ」
イェフンは、久しぶりに平壌に出かけた。
ソンヒョンが駅まで迎えに来てくれていた。車に乗るまで、話らしい話はお互いにしなかった。誰の耳に入るかわからないからだ。
「久しぶりだなあ。イェフン、元気にしていたか」
車に乗ってすぐにソンヒョンが話しかけた。
「ああ、久しぶりだ、ソンヒョン。おめえも元気だったかい」
自由に話せるのは車の中だけだ。
「お母さんはその後どうなのだ?」
ソンヒョンが訊いた。
「ああ。あいかわらずだ」
「そうなのか。心配だなあ。まだ医者には診せていないのだろ」
「そんなカネがあると思ってやがるのかい」
「それは心配するなと言っているだろ。俺がなんとかするって」
「ありがてえが、それは母ちゃんが許しちゃくれねえ」
「自分のカネだと言っとけばいいんだよ」
「ダメダメ。俺にカネがねえの知ってるさ」
前回会ったときにも同じやりとりをしていた。
車は北に向かって走っているようだ。
「ソンヒョン、どこに行くんだい」
「ああ。行けばわかるさ。今日はイェフンに会わせたい人がいるんだ」
「へえ。誰だい」
「行ってからのお楽しみだよ」
「勿体つけるんじゃねえぜ。いったい誰なんだよ」
ソンヒョンは笑って答えなかった。車はどんどん郊外に向かっている。
「ソンヒョン、母ちゃんは元気なのか」
今度はイェフンが訊いた。
ソンヒョンは、母親は元気だったが父親を早くに亡くしていた。父の後を継いで統戦部に入ったのだ。若くして統戦部に入れたのは、父親のおかげだと言えた。
「ああ。おかげで元気だよ。そんなことより……」
途中でソンヒョンは言葉を切った。イェフンは待ったが、話しそうにない。
「おいおい、どうしたんだい。言い出してやめるヤツがあるかよ」
ソンヒョンは、それでも言いにくそうだった。車の交通量が減っていた。郊外に出ている。
「今から話すことは、絶対に誰にも言うなよ。 まず約束しろ」
ようやくソンヒョンが話す気になったようだ。
いつも以上に慎重だった。
「言うと、俺たちだけじゃなく母親も共に殺される。それから、話を聞いたら後戻りはできない」
「なんだよ、それ。脅かすんじゃねえよ」
「脅しじゃない。本当のことだ。約束しないなら話しはできない」
ソンヒョンはいつになく執拗に約束をせまった。
「わかったよ。約束すりゃいいんだろ」
「よし。じゃ、話すけど、イェフン。よーく聴いてくれ。驚くんじゃないぞ。すべて本当のことだからな」
「前置きはいいから、早く話せよ」
ソンヒョンは、少しずつ、ゆっくり話し始めた。イェフンは、長い話しになりそうだと感じた。
ソンヒョンが話し終えるまで、イェフンは外の景色がまったく目に入らなかった。気がついたら、車は山野の杣道を走っていた。そのまましばらく走っていたが、車どころか人にも犬にも出会わなかった。
ソンヒョンの話しは、驚愕の内容だった。とても信じられる話しではない。今まで生きてきた自分はなんだったのか。人間を全面否定されたようなたとえようのない気分だった。吐き気がしてきた。素早く息を吸い込んだ。何も話す気になれなかった。ソンヒョンも押し黙っていた。
かなり山深く入って、杣道の行き止まりで、イェフンがクルマを止めた。
「本当なのか…」
しばらくして、イェフンは声を絞り出した。心臓が止まったように感じた。激しくドキドキと打つ鼓動が耳まで届いた。
「ああ。全部本当だ」
イェフンは窓を開けた。息苦しかった。ソンヒョンも窓を開けた。
「おめえが言ったのじゃなきゃ、とうてい信じられねえ」
イェフンは、現実から目を背けるかのように首を横に振りながら、ゴクリと唾を飲み込みボソッと言った。
そのとき、車の中を風が通り抜けた。しかし、重い空気を押し出してはくれなかった。
イェフンは、母親のことを考えていた。薬を飲んでくれているだろうか。自分がここに来ていなかったら、暖かいスープを作ってあげることができたのだ。今頃冷たいご飯を食べているだろうな。今日、ここに来なければよかった。
ソンヒョンがエンジンを切った。
急に静かになり、車内の重苦しさを際立たせた。
「ソンヒョン、そう言えば、誰かに会わせるって言ってなかったっけ?」
イェフンが重い雰囲気を破るように無理矢理声を押し出した。声がしわがれていた。
「ああ、ここで会うことになっている」
「ここで?」
こんな山奥で落ち合うのか。車が入れるのはここまでだ。
「もうすぐ来るはずだ」
ソンヒョンが車を降りた。イェフンも降りた。
遠くで車のエンジン音がしているのに今気づいた。
しばらくしたら、黒塗りの大型ワゴン車が一台近づいてきた。その車は、ソンヒョンの車の後ろにぴったり止まった。
一人降りてきた。衣服の上からでもいい体をしているのがわかる。身長はイェフンより高かった。同年代に見えた。髪は短髪で、皮膚の色が少し黒みがかった目鼻立ちのはっきりした意志の強そうな男だった。
ソンヒョンと男が、親しそうに笑みを浮かべ、ガッチリ握手した。
「同志、車の中で話そう。乗ってくれ」
男が言って黒塗りバンの後部シートに乗った。
「ああ。イェフンも乗ろう」
ソンヒョンにうながされ、イェフンも続いた。運転席に一人乗っていた。
「同志、俺の部下だ」
運転席に座っている男を指して男が言った。運転席の男は、振り返り、頭だけ下げた。まだ二十歳を少しまわったくらいの年ごろだろう。
「同志、チャン・イェフンだ」
イェフンは、男に紹介された。
「お名前はソンヒョンから聞いています。チャン・イェフンさん、私は神龍隊第四大隊長のワン・ヨンスです」
ヨンスが手を伸ばしてきたので、神龍隊とは何のことかわからないまま、イェフンは手を握った。
グリップが力強かった。
「ヨンス、まだ何も話してないんだ」
ソンヒョンが言った。
「え?」
ヨンスの顔色が変わった。
「いや、大丈夫だ。この国の現状については話してある。イェフンは俺の唯一の親友だ。信用してくれ」
信用してくれとソンヒョンは言ったが、何の話をしているのか、イェフンにはさっぱりわからなかった。それに、神龍隊とは? そんな名前を聞いたことがなかった。先ほどソンヒョンから恐ろしい話を聞かされたばかりだが、さらに増して恐ろしい話があるというのか。
なぜかとんでもないところに来てしまったようなイヤな予感がした。
「イェフン、聞いてくれ。実は、俺たちは《世直し党》なのだ」
ソンヒョンが、はっきりした物言いで短くかつ印象的な言葉を言った。
「何、世直し党?」
初耳だった。
「ここに来るまで車の中で説明したように、この国は欺瞞に満ちている」
ここでソンヒョンは一度、唇をぎゅっと結んだ。そして、落ち着いた低い調子で説明を始めた。
この国は、貧富の差が激しすぎる。大多数の者が飢えに苦しんでいるというのに、一部の貴族階級だけは富貴栄華を我が物としている。
しかし、そのことよりもっと許せないのは、政府が国民をいつわり続けていることだ。情報を操り、首領を神格化し、政府を正当化していることだ。力がない国民は、言われるまま、なされるがままになっている。まるで羊の群れだ。いや、羊の方が自由に鳴けるだけ、まだマシだ。国民がヘタに鳴いたら、翌日から行方不明の運命が待っている。
そんな世の中を、自由にものが言えて平和で公平な世の中にしようとしているのが《世直し党》だ、とソンヒョンが言う。
「いま名前は言えませんが、バックには大物がついています」
ソンヒョンの話しを黙って聞いていたヨンスが、付け足した。
イェフンは、説明を受けるまでもなく、悲惨な現状を誰よりも身をもって知っていた。ただ、原因は、自分の働きが悪いからだと思っていた。首領以下官僚が頑張ってくださっているおかげで、極貧とはいえこの程度ですんでいる。自分が、もっとがんばらなくてはいけない。そうすれば、暮らし向きがよくなるはずだ。まだ自分の努力が足りないのだ。
それを信じて疑わなかった。さっきまでは、だ。
イェフンの頭はパニックになっていた。
「神龍隊って聞いたことがありますか」
ヨンスがイェフンに訊いた。
「アニョ(いいえ)。初めて聞きました」
自己紹介で大隊長だと名乗っていたのをイェフンは思い出した。特殊部隊でもなさそうだ。
「部外秘になっていますが、あらたに作られた首領の護衛部隊です。首領の特命で二年前に結成されました」
首領専属部隊があったとは、イェフンはこれも初耳だった。
「神龍には五つの大隊があります。私は、第四大隊の隊長です」
ヨンスが話し始めたが、イェフンが額を擦りながらさえぎった。
「ヨンスさん、ちょっと待ってください。俺、話しが見えてねえんですが……」
イェフンが眉間に皺を寄せて言うと、今度はソンヒョンが言った。
「イェフン、俺たちと一緒に世直しをしないか」
「ソンヒョン、何を言ってるだよ。俺に何をしろってんだよ」
イェフンは激しく瞬きをした。体がかっと熱くなるのを感じた。二人は、イェフンを仲間に引き入れようとしていた。イェフンはとんでもないと思った。頭の中が空っぽになって、どこに居るのかさえわからなくなった。
「イェフン、お母さんを病院に連れて行かなくていいのか。今のままではぜったい無理だろ」
ソンヒョンが痛いところをついた。イェフンは、弱々しく首を横に振った。
「バカ言うんじゃねえ。俺がいなくなったら母親の面倒は誰がみるだよ」
イェフンには母親がすべてだった。体の火照りを感じ、胸が締め付けられる。
「それはだいじょうぶだ。お母さんのことは任せてくれ」
ソンヒョンが、ためらうことなく言った。
「ある日突然いなくなった家族の話を聞いたことがある。何かあったら母親まで行方不明になっちまう」
秘密がバレないはずがないのだ。異常に喉が渇いてきた。
「それは、絶対にないとは言えない。しかしイェフンさん、我々は万全の態勢をとっています。信じてください」
ヨンスが、イェフンの目を見て言った。力強い視線だった。
「しかし、なぜなんだよ」
イェフンが声を荒げた。
「ヨンスさん、あんた首領の護衛部隊にいるんじゃねえんですか。そんな人が裏切りなんてとんでもねえことだよ」
イェフンは信じられなかった。あたりを行ったり来たりし始めた。
「首領の間近にいるからこそ、イヤというほど見てきたのです。高級官僚は、うまい汁を吸うため、首領を祀り上げて国民を犠牲にしているのです。これ以上黙って見ているわけにいきません。意を同じくする者が大勢います。今こそ立ち上がるときなのです」
ヨンスが、鼻から深く息を吸い込み、口から吐き出して言った。落ち着いて集中している様子がよくわかる。
「なんで俺なんかに」
イェフンは当惑していた。
「イェフンさんのことは、ソンヒョン同志から聞いています。正義心が篤く公平で、面倒見がいいと。何よりあなたほど孝行な人はいない。孝行をしたくてもできない者が他にたくさんいます。ぜひ力を貸して欲しい。イェフンさんのお母さんのためにも」
ヨンスが言った。
「イェフンさん、今すぐ返事しなくてもいい。よくお考えください」
言いたいことを言い尽くしたのか、イェフンの返事を聞かず、ヨンスはソンヒョンに向き直った。
「同志、例の件だが、実施することになったので手配を頼みたい」
ヨンスがソンヒョンに言った。
「実施? やめておけと言ったじゃないか!」
ソンヒョンが語気を荒くして言った。
「北の世直しは、北の人間だけでやるべきだ!」
珍しくソンヒョンが怒って言った。
「同志の言いたいことはわかる。しかし」
「何度言えばわかるんだ、ヨンス!」
目玉が飛び出しそうなほど目を見開いてソンヒョンが言った。ソンヒョンは、めったに怒ったりする男じゃないが、冷たく険しい目つきでヨンスを睨みつけていた。
「同志、落ちついてくれ」
ヨンスが静かに言った。
「本部で、もう決まったことなのだ。我々には失敗は許されない。チャンスは一度きり。絶対に成功させなければならないのだ」
ヨンスが、ソンヒョンの肩にそっと手を置いた。ソンヒョンが横を向いた。
「同志。誰がするかは重要じゃない。重要なのは、絶対に成功させることだ」
「わかっている。そんなことはわかっているのだ。俺が言いたいのは」
「いいんだ、同志。気持ちは俺も同じだから」
ヨンスがソンヒョンを抱き寄せた。
「こんなこと俺たち初めてだから。万が一のことがあっちゃおしまいなんだ。何がなんでも成功させなければ」
二人は肩を抱いてポンポン叩き合った。イェフンは黙って二人を見ていた。
「ヨンス、わかったよ」
ソンヒョンが低い声で言った。
「重要なのは、絶対に成功させることだ。こだわっている場合ではない」
「ありがとう、わかってくれて。例の件は、同志がやりとげてくれると信じている」
二人が何を話しているのかはまるきりわからなかったが、ソンヒョンが落ちついてくれたので、イェフンはホッとした。
「ソンヒョン、世直しって本当のことなのか」
帰りの車の中で、イェフンは聞かずにおれなかった。
イェフンは、今日あまりにもいろいろなことがありすぎて、理解できないでいた。整理時間が必要だった。
「いつからなんだよソンヒョン。世直し党なんてさ」
ソンヒョンがそんな仲間に入っていることを、イェフンはまったく知らなかった。
「それってつまりは反逆じゃねえのか。そんなこと本当にやるつもりなのかよ」
ソンヒョンは黙っていた。
「人民軍がいるし、強力な特殊部隊がいるし、失敗するに決まってるじゃねえか」
イェフンは、言いながら頭を整理していた。
「バックに大物がついているって言ってたよな。あれは本当なのか」
「もちろん本当さ。冗談だとでも?」
ソンヒョンが答えた。
「ヨンスに言われてお前が怒ったことを、よければ教えてくれねえか」
ソンヒョンが怒るほどのことだ。よほどのことなんだろう。気になっていた。
「何でもないよ。たいしたことじゃない。そんなことより、どうだい。一緒にやろうじゃないか」
ソンヒョンはイェフンに言った。
「俺には無理だよ。母ちゃんがいるんだ。俺がいなくなったら母ちゃんが困る」
イェフンが答えた。
「じゃ、お母さんに聞いてみてくれ。もしお母さんがダメだとおっしゃるなら、イェフンをあきらめよう」
「母ちゃんを引っ張り込むなよ。母ちゃんには何も知らせるな」
「お母さんは、イェフンが大きく羽ばたくのを待っておられると思うよ。家に閉じ込めておくのを望んでおられないさ」
ソンヒョンは、イェフンを仲間にしたがっている。一緒に世直しとやらをしたがっている。
「おまえの母ちゃんはどうなんだ。おまえがやってること、知ってるのかよ」
「いや。まだ知らない」
「そらみろ。俺だって母ちゃんには言えねえよ」
「お母さんのことは責任もってお世話する。約束するよ」
イェフンも、この世の中が公平で住みやすくなるなら大歓迎だ。今日のソンヒョンの話しのとおりなら、世直しをしなければならない。しかし、イェフンは断るつもりだった。母を残してどこにも行くつもりなどなかった。
「だけど、なぜ俺なんかに」
イェフンは何度目かの質問をした。
「イェフンの周りにはたくさんの人が集まっているだろ。彼らも苦しんでいるはずだ」
「自警団だ。俺たちのことは俺たちが守らなきゃ、誰も守っちゃくれねえ」
「だから立ち上がるのじゃないか」
「彼らも誘い込めって言うのか」
「彼らイェフンが立ち上がるのを待っているんだよ」
帰宅したら、母親が起きていた。
「母ちゃん、どうしたんだい?」
「今日は体調がよくてね。おめえにごちそうを作って待ってたんだよ」
見ると、豚饅が作ってあった。イェフンの大好物だ。母親の思いが伝わり、イェフンは胸が熱くなった。
「母ちゃん、ありがとう」
食べようとしたら止められた。
「待ちな。あっためてあげるよ」
あっためてもらいながら、イェフンは訊いてみた。
「母ちゃん、もしもだけど、俺がいなくなったらどうする?」
「なんだって、おめえがいなくなるって?」
母親が手を止め、イェフンの顔を見て言った。
「だから、もしもだよ」
あわてるイェフンを見て、母親が意外なことを言った。
「イェフン。そう言うのを待ってたんだよ。いつ言い出すのかってね」
「母ちゃん、それって、どういう意味?」
イェフンは、母親にそんなことを言われて驚いた。
「男は、一度は世に出ないといけないんだ。おめえが、いつまでも母ちゃんのそばにいるから心配してたんだよ」
母親はにっこり笑って、手を差し伸べてきた。イェフンはその手を両手でぎゅっと握りしめた。
「母ちゃん。俺がいなくなったら一人でどうするんだよ」
「心配いらねえさ。母ちゃんは一人でやっていくよ。それでいいんだ」
「本当かい?」
「おめえ、したいことが見つかったんだね。男なら、気が済むまでやってみな」
イェフンは、自分の母親にこんな一面があるとは知らなかった。自分のことはさておいて、息子に羽ばたかせようとしてくれている。それも、事情も何も、一切訊かずにだ。
母親が手を引いたので自然と母親をハグする形になった。母親の細い手がイェフンを抱きしめている。感謝しても仕切れないほどの母親の恩。ハグするのは久しぶりだ。背中をなでられた。胸に温かいものがこみ上げてきた。周囲が見えなくなった。
イェフンは、心が決まった。
4.遭遇
ソンヒョンは、敵国地・ソウルに来ていた。ホテルは、いつも決まってロッテホテルだ。ソンヒョンのお気に入りだ。綺麗で新しくて、スタッフも洗練されている。北朝鮮では、首領の住居以外にはあり得ない。
ソウルは、活気があって明るい街だ。つい先日まで、この明るさが、欺瞞に満ちて鼻持ちならない許しがたいものだった。しかし、なぜか今は違って見える。自由で、力強くて、希望に満ちた未来を感じる。この地はいつ来てもソンヒョンを受け入れてくれる。敵国であっても同胞だけに、誰の目にも留まらない。何よりここは人民の危機意識が薄いので、誰にも疑われずにすぐ溶け込める。だから、情報収集活動がやりやすい。
ここには、ソウル人民の意識調査と情報収集のために半年に一度は来ている。だが、今日は定期出向日ではない。気になることがあって出てきたのだ。
ソウルには、統戦部から数百人の密偵を各方面に送り込んである。情報収集が主な任務だが、一番重要な任務は、統戦部が立案する心理作戦を完璧に遂行することである。
ソンヒョンの局からも六人送り込んである。その中に、ピルスという部下がいる。韓国の大学を出て、ソウル日報新聞社社会部に勤務して三年目だ。カバーとしては申し分ない。ピルスは優秀な部下だった。ソンヒョンの懐刀だ。精度が高くて的確な情報を提供してくれる。
先日、ピルスから連絡があった。情報レベルは「通常」となっていた。
情報には「至急」と「通常」の二種類がある。
「至急」扱いなら、重要度が高く、統戦部に連絡後帰還し口頭で直接報告される。
「通常」扱いなら重要度が低く、次回定期出向日に出向したとき、他の報告物と合わせて報告される。つまり「通常」レベルならわざわざ連絡をしてこない。
ところが、ピルスが連絡してきた。
ソンヒョンが定期出向日でもないのにソウルに来たのは、ピルスの連絡に、微妙に何かがひっかかったからだ。
今夜は、ピルスをホテルに呼んである。
「ピンポ~ン」
約束の時間ちょうどに入口のチャイムが鳴った。時間ジャストというのが、ピルスらしい。
「ピルス同志、ご苦労様」
ピルスを迎え入れてソンヒョンが言った。
「ソンヒョン同志、お待たせいたしました」
二人は固く握手した。センターパースの髪型が似合っている。美しい線を綺麗に重ねた鮮やかな二重瞼の目がにっこり笑った。
「座りたまえ。コーヒー飲むかね」
「ありがとうございます。いただきます」
ソンヒョンは、ホテルにルームサービスを頼んだ。仕事が終わるまでアルコールは飲まない。
「ピルス同志、元気そうだね」
「はい。ソンヒョン同志もお元気そうで何よりです」
「ピルス同志はもう南も長いね」
「こっちに来た当初、つい南と言ってしまって変な目で見られたこともありましたけど」
「そうだね。こっちの人間は自分の国を南とは言わないから」
「ええ。でも、 私も今はすんなり韓国と言えます 」
「さっそくだが、詳しく聴かせてもらおうか、通常レベルってやつを」
ソンヒョンは雑談をしにきたのではない。本題に入った。
「やはりそのことでしたか。《通常》としたのですが、出向いて来られましたね」
ピルスが満足そうに言った。
「なんだ。私を試したのかね」
ソンヒョンは苦笑した。
「いえ、とんでもありません。そうではなく、ソンヒョン同志ならきっとわかって下さると確信していました」
ピルスは、ソンヒョンが来るのを待っていたのだ。
「どうやら、ピルス同志の思いが私に伝わったようだ」
ピルスは、ある情報を入手した。頭の中のどこかで重要度が高そうだとは感じていたが、精度が低く確信がなかった。そこでピルスは、ソンヒョンにその判断をゆだねたのだ。
「では、聴かせてもらおうか」
ソンヒョンがピルスに言った。そのとき、コーヒーが運ばれてきた。ピルスの話は、コーヒーを飲みながら始まった。
一週間ほど前のこと。
ピルスが同僚から聞いた話しは、どうもはっきりしなかった。
同僚は会社の山岳部に所属していたが、ある日、山岳部の仲間四人で白頭山脈に二泊三日の予定で入った。今年はかなり奥深く入ろうと誰かが言いだし、深く入りすぎて道を失ってしまった。だが、毎年恒例のパーティ―であり、四人とも山に慣れていたので、誰も心配はしなかった。
そのとき、人声がする、と誰かが言った。こんな山奥に人がいるはずがない。空耳だろうと皆が言ったが、また聞こえた。今度は四人ともはっきり聞こえた。声のするほうに行ってみた。行った先には地面がなかった。はるか下方谷底に川が光って見えた。
大きな石ころだらけの河原に上半身裸の男が二十人くらいで乱闘中だった。白人も黒人も交じっていた。双眼鏡で見ていた仲間が、乱闘ではなく武道の乱取り稽古のようだと言った。こんな山深いところで稽古とは、いったい何者? と興味がわいて、皆で観に行くことにした。なんとか降りられるところを探して降りてみたら、居たはずの河原には誰もいなかった。狐につままれたような気分だった。
話しはこれだけだが、双眼鏡で見ていた仲間が、男の一人をどこかで見たことがあると言い出した。 背中一面と左腕、手の甲にかけての昇り龍のタトゥーに見覚えがあると。
思い出せないまま下山したが、どうも気になって調べてみた。
見つけた。
二年前。
アルジェリアのテロにフランス軍が介入し鎮圧した事件があった。この事件は、UPI共同で世界に報道された。爆破され崩壊した協会の前のガレキが散乱する場所で、フランス軍兵士ら数人が銃を片手にVサインをしている写真が新聞に掲載された。写真には、兵士から少し離れた後ろの方で何か話し込んでいる二人の兵士が写っていた。一人は軍服を着ていたが、もう一人は上半身がタンクトップだった。その男の左腕肩から手の甲まで、昇り龍のタトゥーが見えた。
谷底で見たタトゥーと同じだった。
「いかがですか」
話しを終えて、ピルスが訊いた。
「写真の男は傭兵だな」
ソンヒョンは、やはり来てよかったと思った。コーヒーカップに二杯目を入れて続けた。
「あの事件は私も知っている。テロ鎮圧の手口が鮮やかすぎた。フランス軍にしてはね」
「タトゥーの男が同一人物だとすると?」
「君の同僚が谷底に見たのは、全員傭兵だったということになるな。問題は、傭兵がなぜ白頭山にいたのか、だ」
「南が雇ったのでしょうか」
「いや、それはないな。南には傭兵を雇う理由がない」
「まさか、北が?」
「それもないな。南北統一するのに他国を頼って失敗してきたからね、過去に」
「そうでしたね」
「第一、北にはカネがない」
北挑戦は世界で一番貧乏な国だとソンヒョンは思っていた。
イェフンに聞いたことがある。イェフンの村では、どこの家でもお湯に浮いたご飯粒を数えて食べる。あるとき子供に本物のご飯を食べさせようと茶碗に入れて出したら、ご飯がいいと泣いて訴えられたそうだ。どこの村も、五十歩百歩だ。
北では三百万人もの餓死者を出している。しかし、一部の高級官僚だけは、うまいものを腹一杯食しているのをソンヒョンは知っている。
「昔は南より裕福でしたのに」
ピルスが言った。今は、南からの支援物資でなんとか食いつないでいる。
敵国だと言いながら、韓国とは切っても切れない関係にあるのだ。
「ソンヒョン同志。では、傭兵は」
「わからない。傭兵なら接点を持ちたい」
韓国にいるのなら、願ってもないことだ。
「は、傭兵と、ですか?」
「そうだ」
ピルスの通常扱いの連絡に何かを感じてここまで来たが、ムダではなかった。まだ遭遇できるかどうかわからないが、可能性はゼロではない。
「まだ居るかどうか」
「いや、まだ居る」
ソンヒョンは確信していた。用もないのに韓国に滞在するはずがない。それらしい事件は起きていない。狙いは不明だが、まだ山中のどこかに居る。ただ、発見できるかどうか。非情に困難であることは間違いない。
「かなり奥深いそうですよ」
「それは先ほど聞いた」
ソンヒョンは、発見できるかどうかに、世直しの成功のキーがあるような気がした。
ソンヒョンは続けた。
「ピルス同志。探そう。難しいのはわかる。それでも、やらなければならないのだ。同志六人全員でかかってくれ。こちらからも、人を送る」
「いつ、かかりますか」
「できるだけ急いでくれ」
早いほうがいい。ソンヒョンは、明日の朝一番で帰って捜索隊を出すつもりでいた。
「承知いたしました」
「他に何かないか」
「はい。ありません」
ピルスからの話しは以上だった。
ソンヒョンが打ち明ける番だ。
イェフンに語ったのと同じ話しをピルスにもした。ピルスもかなり驚いていたが、イェフンほどではなく、むしろ積極的たった。
「ソンヒョン同志、だからなのですね」
「ああ、そうだ。確実に成功させなければならないのだ」
神龍隊のヨンスとその部下は、戦力としては強いかもしれない。しかし、クーデターに関しては誰一人として経験がない。傭兵を使うと言い出したのはヨンスだ。自信がないのか、とソンヒョンはヨンスを詰ったが、確実に成功させるためには絶対に必要だと言ってゆずらない。反対に、自国民のためにすることは自国民の手でしなければ意味がない、と言い張るのはソンヒョン。
二人は絶対に交わらないと思われたが、重要なのは、誰が成功させるかよりも確実に成功させることだと言われ、ソンヒョンが折れた。
神龍隊大隊長のヨンスは動けないので、ソンヒョンが動くしかない。どこから手をつけようかと考えていた矢先のピルスの情報だった。確実にものにしたい。
平壌に戻ったソンヒョンは、ヨンスに連絡をとり、捜索隊を要請した。ヨンスは、多くは回せないが手配すると言って、すぐに三十人を送り込んでくれた。
一班三人を十班、バラバラにソウルに移動させた。ソンヒョンの部下と違い、ヨンスの部下は鍛え上げている。必ず見つけてくれるものとソンヒョンは思っていた。
発見したと連絡があったのは、依頼してから二十一日目だった。ソンヒョンはすぐソウルに飛んで、待機していた一班の三人と合流した。素人の足で十四日かかると言われた。発見してから二日経っている。であれば十六日のズレとなる。間に合うかどうか微妙だ。ちゅうちょしている場合ではなかった。登山に必要なアイテムをリュックに詰め、一班三人の案内で、ソンヒョンはピルスだけ連れて翌朝出発した。
初日はなんとかついて行けたが、二日目は遅れ気味だった。三日目になると、三十分に一度、ソンヒョンは一行を待たせた。それでも、予定より二日遅れではあったが、捜索隊に合流できた。ピルスは元気だったが、ソンヒョンは疲れ切っていた。
「私が捜索隊の責任者です」
一人、ソンヒョンの前に進み出てきた精悍な男が言った。
「私は、統戦部のチャン・ソンヒョンだ。よく発見してくれた。ありがとう同志」
ソンヒョンは責任者の手をしっかり握って言った。
「任務ですから」
責任者は、短く言った。
「それで、やはり傭兵か」
「はい。間違いありません。毎日、ハードな訓練をしています」
「接触は?」
「いえ。大隊長からそのまま待機せよと命令を受けています」
「うむ。それでいい。これから案内できるか」
できるなら休みたいところだが、今横になるとそのまま起き上がれそうになかった。早く接触したかった。
「はい、いつでも。ここから三十分の距離です。おそらくこの時間帯は向こうのトップしかいませんが、よろしいでしょうか」
「ああ。それでいい」
刺激してはいけないということで、捜索隊から五人だけ同行してもらい、ソンヒョンとピルスの七人で出発した。
三十分ほどのところで先頭を歩いていた責任者が歩みを止め、ソンヒョンを振り返り前方を指さした。
「ソンヒョン同志、あそこです」
声を落として責任者が言った。しかし、その方向には何も見えなかった。完璧にカモフラージュしてある。
「パララララッ!」
銃の連射音だ。
全員地に伏せた。
「動くな! 全員の頭を狙っている!」
太いバリトンの大声が走った。英語だった。
いつの間にか、周囲をびっしり囲まれていた。
二十人以上居る。
「待ってくれ。私たちは敵ではない!」
ソンヒョンが英語で答えた。
あっという間に全員後ろ手で手錠をかけられ、武器はすべて没収された。
「歩け! 変な動きをしたら即座に射殺する」
なぜか脅しではないと感じた。ヘタに動けば一切ちゅうちょなく銃弾を撃ち込まれる、と確信に近いものがあった。
少し歩くと岩地に出た。
「止まれ」
一か所に集められ、座らされた。落ち着いてよく見ると、全部で七人しか居なかった。どうしたのかわからないが、三倍ほどの人数に錯覚させられていた。
「リーダーは誰だ」
先ほどから口をきいている青い目の男が訊いた。大きな男だった。
「私は、北朝鮮統戦部工作局のチャン・ソンヒョンという」
「工作局?」
「そうだ。対北、対南の情報工作だ」
「ほう。その情報工作局がこんなところで何をしている」
青い目の男が韓国語で言った。
「あなた方に会いに来たのだ」
青い目の男の流暢な韓国語に驚いたが、ソンヒョンも韓国語に戻して言った。
探していた傭兵に遭遇できた安堵感で、ソンヒョンは疲れが飛んでいた。
「なんだと? 俺たちに会いに? 俺たちが誰だか知っているのか」
「傭兵ではないのか」
ソンヒョンは一瞬不安がよぎった。緊張が走った。
「傭兵か。遠い昔、そんなふうに呼ばれたこともあったな」
青い目の男が言った。
「傭兵ではないと?」
「そんなことより、俺たちを傭兵だとして、おまえたちは何をしに来たのだ」
青い目の男がまた訊いた。ソンヒョンは気が抜けたような気がした。本当に傭兵ではないのか。 では、今ここで何をしていると言うのか。
「あなたがたのボスに会いたい」
これからが本番だった。
「話す気がないなら、全員ここで死んでもらうぜ」
青い目の男が言ったとたんに他の男たちが一斉に銃を向けた。
「待ってくれ。話す。話すからボスに会わせて欲しい」
ソンヒョンがあわてて言った。
「俺だよ。 ダニエル・カーンだ」
言ったのは、青い目の男だった。この男がボスだった。
傭兵ではないと聞いて、ソンヒョンは全てを話していいものかどうか瞬間判断できないでいた。しかも、傭兵であったとしても、依頼を受けてくれるかどうかわからないのだ。
だが、ダニエル・カーンと名乗ったこの男の仲間の腕は、尋常ではない。神龍隊員ですら気づかせずに完全包囲したこと。七人を二十人に見せていたこと。アジトのカモフラージュにしてもそうだ。さすがに捜索隊は見破ったが、ソンヒョンにはまったくわからなかった。
話してみよう。ソンヒョンは決心した。
「これから話すことは、ダニエルさん、あなたを信じて話します。この話しが北に漏れると、大勢の人間が死にます。そして、おそらく北は崩壊するでしょう」
「ダンでいいぜ」
「そういうわけにはいきません。私はソンヒョンと呼んでください。二人きりで話したいのです」
「ここで話せよ。韓国語を話せるのは俺だけだ」
ソンヒョンは、すべてを包み隠さず説明した。長い話しをダンは口を挟まず最後まで黙って聴いていた。
「それで、俺たちに何をして欲しいのだい?」
ダンがソンヒョンを見た。
「私たちは、必ず改革を成功させたいのです。いえ、成功させなければならないのです。私たちを手伝っていただけませんか。一緒に戦って欲しいのです。私たちを、成功に導いて欲しいのです」
ソンヒョンは、頭を下げた。それを見て、ピルスや捜索隊も頭を下げた。十秒以上の長い礼だった。
「おい、頭を上げろよ、ソンヒョン。俺たちにそんなことができるとどうして思ったんだい?」
ダンが訊いた。ソンヒョンは、きっかけになったのは二年前のフランス軍のテロ鎮圧事件だと言った。
「それがどうして俺たちと関係があるのだ?」
ソンヒョンは昇り龍のタトゥーの件を説明した。同じタトゥーを白頭山で見た者がいることを。
「四人連れのハイカーだな」
ハイカーと言うからピンと来なかったが、ピンスの同僚の登山者のことだった。
「気づいていたのですか?」
ソンヒョンは驚いた。ピンスの話しでは、谷底に降りたときは誰もいなくて狐につままれたみたいだったと同僚が言ったそうだが、同僚に見られたので彼らは姿を消したのか。
「ふん。あたりまえだろ。それどころか、二週間前からそこにいる連中が俺たちを見張っていたことも知っているぜ」
「なんですと! 知っていたのですか! 知っていながら、なぜ知らん顔をしていたのです?」
ソンヒョンは、これほど驚いたことはなかった。三十分も離れた場所にいたのに、見抜かれていたのか。捜索責任者を見ると、顔色が変わっていた。
捜索責任者はアジトを見抜いていたし、ダンというこの男は、隠れ潜む捜索隊を見抜いていた。世の中には計り知れない恐ろしい男たちがいるものだ。
「この連中には敵意がなかったので、様子を見ていたのだ」
そういうことだったのか。すべてお見通しというわけだ。
「それでダンさん。私の願いは、聞いていただけるのでしょうか」
まだ返事をもらっていない。
「もし引き受けたら、俺たちには何をしてくれるんだい?」
これが一番の難題だった。ソンヒョンたちにはカネがない。代価が払えない。
「それが、申し上げにくいのですが、今すぐ払うカネはありません」
「カネがないのなら、他のものでもいいんだぜ」
ダンが笑って言った。この国が貧乏だということを知っているようだ。
「それじゃ、何がいいのか言ってください。できる範囲で何でもさせてもらいます」
「わかった。じゃ、考えとくぜ」
5.裏切り者
ハン・バンウォン神龍隊大将軍は、最近、わずらわしいことになっていた。
御前試合に全勝してから、絶大な信頼を首領から得ていた。階級は大将軍となり、警護責任者と同等になった。大将軍は他にも何人かいる。しかし、立場上、首領と接触する機会が多い分、最高官僚である中央党書記官ですら、バンウォンには一目おく。まして一般の官僚ともなればなおのことだ。
これまでバンウォンには見向きもしなかった各級の官僚たちが急に近づいてきた。挨拶だと称して自宅に手土産を持って来るのだ。ほぼ毎日だ。絶対に受け取るなと家人に厳命しているが、中には強引に置いて帰る者もいる。
こういった連中は、人が落ち目になった途端にあっという間に去って行く。おいしい蜜の出る間だけ花に群がる虫みたいなものだとバンウォンは思っていた。
昨夜も二人来ていたが、相手にしなかった。
今、バンウォンは自分の執務室にいた。たいてい外の勤務だが、ここ二週間はここに詰めている。
「バンウォン大将軍同志。これをご覧ください!」
突然ドアが開いた。ノックもせずに飛び込んできたのは、第二大隊長だった。 興奮してビニール袋を差し出した。
「何かわかったのか、大隊長同志」
「失礼しました。これです!」
見ると、ビニール袋には、一センチ四方の破紙片が多数入っていた。
「なんだ、これは?」
「はい。回収したゴミから出ました」
「ゴミ?」
「手紙のようです」
「ほう。誰のだ?」
バンウォンは興味がわいた。
「ソク・ジョンス国家安全保衛部第二副長同志であります」
大物だ。まだ何かがわかったわけではない。うかつに手は出せない。この手紙をなんとか復元したい。
「おい、大隊長同志。これをすぐ復元させてくれ」
「はい。承知いたしました」
「まだ誰にも言っていないだろうな」
「はい。私が発見いたしました。誰にも言っていません」
「よし。ご苦労。まだ誰にも言うな」
回収したゴミから手紙が出たのは始めてだった。張り付いて二週間目のことだ。これまでに判明したのは、側室を持っている官僚が十一名いたことだけだった。他には、何の動きもなかった。隊員に、焦りが出始めていたところだ。
第二大隊長が見つけた手紙が突破口になればいいのだが、とバンウォンは思った。
二週間前。
「官僚の中に裏切り者がいる。つまみ出せ」
バンウォンは、首領の執務室に呼ばれて命令を受けた。
神龍隊は、首領から直接命令を受ける。命令がないときは、首領の警護をする。首領が移動するときには必ず五十人態勢で臨む。首領は、何万人相手に外で演説する機会が多いが、このときは五百人全員態勢だ。つねに民間人の中に分散し平服で紛れ込む。
そうしろと言われたわけではないが、表立っての警護は特殊部隊が行っているからだ。特殊部隊員は総勢二万人だ。このすべてが首領と首領家族のための警護隊員だ。しかし、警護隊に最終的な皮一枚のところまで信頼をおいていないのか、それを埋めるのが神龍隊だと首領に言われた。
だが、今回のような仕事は珍しい。本来なら国家安全保衛部が受け持つ内容だ。秘密警察があるからだ。神龍隊に命令されたのにはそれなりの理由があるのだろう。
しかし、一体誰が裏切っているのか。首領を心酔しているバンウォンには、裏切る気持ちというものがまったく理解できなかった。
命令を受けたバンウォンは、さっそく大隊長を集めて指示を出した。
裏切り者がいる。小隊単位で行動し、全官僚を二十四時間態勢で監視せよ。どこに行き誰に会い何を話したか。平常と違う行動をすべて報告せよ。官僚の担当は一任する。首領同志様がおっしゃる以上、必ず裏切り者がいる。おそらく一人ではない。複数だ。必ず見つけ出せ。
これだけ言うと、すぐ担当割から始めさせた。
一時間後。
「バンウォン大将軍同志。お待たせいたしました」
復元できたと言って第二大隊長が興奮して入って来た。
「おお、ご苦労。早かったな」
「これです」
つぎはぎだらけでしわくちゃだったが、読めそうだ。やはり手紙だった。
《尊敬する最愛なるお父様へ》
お元気でいらっしゃいますか。
見るもの、聞くもの、そちらにおりましたおりには想像もつかなかったことばかりで、私は、目まぐるしく日々が過ぎております。何もかもが、学習でございます。
ですが、こちらの世界は希望に満ち溢れており、明るく楽しく快適でございます。お友達もたくさんできました。
アメリカに旅立たせていただいたことを心から感謝申し上げます。
お父様、お母様、お兄様も、できるだけ早くこちらに移り住むことができますよう念じてやみません。
とり急ぎご報告まで。
《ソク・ヒョンジュン》
ソク・ジョンス国家安全保衛部第二副長同志の娘ヒョンジュンから父親宛てのアメリカから出された手紙だった。この内容は、亡命を示唆している。娘はすでに亡命しているのだろう。
北朝鮮では、手紙はすべて国家安全保衛部が検閲するのでめったなことは書けない。だが、ソク・ジョンスなら可能だ。自由に通信しているのかもしれない。馴れからくる横着か、手紙の事後処理に油断があった。ソク・ジョンスにとっては致命傷だ。
「首領同志様のお話しは、このことだったのですね」
大隊長が言った。
「いや、どうかな。これもたしかに裏切りだが……」
バンウォンは、なぜかしっくりこなかった。
「第二副長同志を逮捕しますか」
「いや、待て。まだ動くのは早い。それよりこの手紙、筆跡鑑定しておけ」
首領に逮捕報告し任務完了を告げるには、わずかだが、違和感がバンウォンの心に残っていた。
「大隊長を全員至急集めろ」
バンウォンは、大隊長を集合させた。
「第二大隊長から話がある」
そう言ってバンウォンが第二大隊長を見た。皆の視線はそちらに集まった。第二大隊長が、手紙の一件を説明した。そのあとでバンウォンが緘口令をひいた。
それからさらに十日が過ぎた。
その後は何ごともなく、バンウォンへの報告も、各班とも「異常なし」の一言だった。
バンウォンは、あと一週間続けたら首領に中間報告するつもりだった。
ソク・ジョンス国家安全保衛部第二副長同志を除いたら、今のところすべての官僚が潔白だ。忠誠心の高い官僚ばかりで、偉大な首領様の聖恩が浸透している証だった。
だが、裏切り者をつまみ出せとの仰せだ。しかも、国家安全保衛部ではなく神龍隊に命令を賜った。その理由がソク・ジョンスにあったのか。首領は、すでに何らかの兆候を掴んでいたのか。
バンウォンは、わからなかった。首領から命令を賜ったときの空気は、もっとまがまがしいものがあったからだ。
6.ワン・ヨンス
始まったのは、二週間前。
神龍隊第四大隊長 ワン・ヨンスの執務室。
先ほど、バンウォンから命令を受けてきたばかりだ。
「大変なことになった」
ヨンスは中隊長を集めて言った。
「官僚の中に裏切者がいるから早急につまみ出せとの仰せだ」
ヨンスは、バンウォンの命令をそのまま伝えた。
「全官僚に二十四時間貼り付けとのことだ」
この場に緊張が走ったのがわかった。
「二十四時間張り付けって言っても、まさかお方様にまでそんなことしないでしょう」
第一中隊長が当然のように言った。
「ダメだ。例外なしだ」
ヨンスが即座に否定すると、「何ですって⁉」と、皆が口をそろえて言った。
「では、このことを早くお報せしなくては」
第二中隊長が言った。
「お方様を我々で担当しましょう」
第三中隊長が言った。
「だめだ。お方様の担当は第三大隊に決まった」
お方様のいる中央党を担当したかったが、あからさまに主張するわけにいかない。
ヨンスの第四大隊は、経理部署と管理部署に決定している。
「何とかお報せしないと」
第四中隊長が言った。
「自分の隊の小隊長の妹が、お方様の雑務係りをしています」
「おう、それだ。妹から報せてもらおう」
「手紙はまずいぞ。口頭でないと」
中隊長同士が意見を出し合っていると、ヨンスが言った。
「その小隊長を呼んでくれ」
「はい。承知いたしました」
バンウォンがここまで徹底するからには、相当な大物が関与しているとの感触があるのかもしれない。命令を出した時の雰囲気は、緊張感にあふれていた。
だが、ヨンスたちの計画が万に一も発覚しているとは思えない。それだけの自信がある。となると、ヨンスが知らない別の勢力か。火の粉が飛んできてヨンスたちまで火傷することになっては大変だ。いや、火傷では済まない。ここは慎重を期さなければならない。
お方様には、妹から口頭で「全官僚二十四時間監視体勢に入った」とだけ伝えさせた。そして、担当部署内官僚一人に一小隊を割りふって監視を開始し、毎日報告を義務づけた。
それでこの二週間で判明したのは、高級官僚に側室を置いている者が二人いたということだ。
ヨンスは驚くとともに、怒りを覚えた。自国民が窮乏しているというのに何を考えているのか。しかし、もっと驚いたことは、他の大隊長の報告で判明したことだが、側室を抱えている官僚が他に九名もいたということだ。 李朝鮮時代じゃあるまいし、この国の官僚は堕落
してしまっている。彼らは、祖国を裏切っていることに気づかないのか。
それ以外に、重要な事実が一件判明しているが、これはまだ伏せられたままだ。第二大隊長が発見したソク・ジョンス国家安全保衛部第二副長同志の娘がアメリカに亡命した件。これほど明確な裏切り行為はないのに、バンウォンは泳がせている。発見された文面からすると、家族が四人とも亡命する可能性がある。これこそ探していた裏切り者ではないのか。ヨンスには、バンウォンの真意はわからないが、何か深い考えがあるのだろう。監視態勢はそのまま続けよとの指示だった。
今のところお方様には手が伸びていないが、いつ何があるかわからない。ヨンスとしては、ソク・ジョンスをやり玉にあげ、全官僚二十四時間監視体勢を早く終息させてしまいたかった。
ヨンスがお方様に出会ったのは十四年前、ヨンスが十七歳のとき、ピョンヤンから車で三時間ほど南下したヘジュの町の自動車整備工場で働いていたときのことだった。
その日は朝から雪が降っていたが、午後から雨に変わった。心の中まで濡らしてしまいそうな雨が、夜まで続いた。
夜中の九時を廻っていた。ヨンスが仕事を終えていつものように自転車で帰宅する途中、一台のジープが道端に止まっているのに気づいた。初めて見るクルマだった。あたりに明かりはなく、気づかずに通り過ぎてもおかしくなかったが、ヨンスは夜目がきいた。軍服の男がボンネットに上半身を突っ込んでいるのが見えた。
「どうされました?」
傍に自転車を止めて、ヨンスが気軽に声をかけた。元々明るく人見知りをしない性格で、困っている人を黙って見過ごすヨンスではなかった。
「ああ。急にエンジンが止まってしまってね」
作業の手を止めずに男が言った。
「ちょっと見てみましょうか」
雨に打たれながら苦戦している男に、ヨンスが言った。
「きみが?」
男が手を止め、ボンネットから上体を出してヨンスを見た。 精悍な顔つきの四十歳を過ぎたくらいの口ひげがよく似合う男だった。柔らかい髪が広い額を斜めに隠し、眉の太い威厳のある顔が、親しげに微笑んでヨンスを見つめている。水滴が額から一筋流れた。
「ええ。整備工場で働いています。もしかしたら、わかるかもしれません」
ヨンスが言った。
「そいつは嬉しいね。これから平壌に帰らないといけないのだよ」
男は、ヨンスがエンジンを見やすいように車から離れた。男が立っていたところに入って、ヨンスはエンジンを調べた。
「もう長いのかね」
男は、きさくに話しかけてきた。 私用で遠出をした帰り道だとのこと。
「整備工場ですか。まだ五年ほどです」
ヨンスは、自分でエンジンを組み立てることができた。たいていのトラブルは、修理できる。しかし、ここには工具がない。その点が不安だったが、簡単な七つ道具はいつも持ち歩いている。応急処置ならできるだろう。
ところが、どうもおかしい。調べているが、原因が見当たらない。まさかと思ったが、念のため確認してみると、そこに原因があった。
「軍人さん。原因がわかりました。ここですよ」
ヨンスは、原因を指でさしてにっこり笑って言った。
「なんだね」
男が、ヨンスの指さきを覗きこんだ。
「あははは!」
突然、大きな声で男が笑い出した。
「油切れか!」
男が言った。まだ笑っている。
ヨンスは工場まで戻り、ガソリンをタンクに適量詰めてきて、男の車に入れてやった。
後日あらためて礼をすると言って、男は去った。
これが、お方様との最初の出会いだった。
男が再びヨンスの前に現れたのは、 それから一週間後だった。軍の整備工場が人を探しているので迎えに来たと言った。
男は、中央党のクム・グァンス副書記だった。大物中の大物だ。首領の従兄弟にあたる。否応なしに、ヨンスは引き抜かれた。軍の整備工場と言えば、人が羨む大出世だ。この申し出はありがたかった。
しかし、軍の整備工場は、ヨンスをまったく歓迎しなかった。人を探しているというのはウソだった。グァンスの命令だから仕方なく受け入れたようだ。ヨンスの居場所はどこにもなかった。
それでもヨンスは努力した。朝は一番早く出勤し、夜遅くまで働いた。
ただし、修理や整備の仕事は一切させてもらえず、雑用ばかりだった。
こんなことなら、ヘジュの町の整備工場にいたほうが良かった。ヨンスほどの技術を持った整備士が他にいなかったので、今ごろ困っているはずだ。
月に一度、ヨンスの顔を見にグァンスがやってきた。
三回目の訪問のとき、ヨンスは思いきって言ってみた。
「クム・グァンス副書記同志様。自分を同志様の下で使っていただけませんか 」
グァンスは、じっとヨンスの目を見つめた。ヨンスは視線をそらさなかった。心の中まで見られているような気がした。
やがてグァンスが言った。
「ヨンス同志。私のところは人が足りている。やる気があるなら、特殊部隊に入れるよう手配するが、どうかな」
ヨンスにとっては有難い提案だった。
特殊部隊に移ったのは、その翌日だった。
特殊部隊は、官軍の隊員の中から抜擢された者ばかりの集団だ。その中にいきなり入ったヨンスを待っていたのは、死んだほうがマシだと思うほどの過酷な訓練だった。それでも、隊員は誰もがヨンスを篤く快く迎え入れてくれた。
あれから十四年。ヨンスは父親を早く亡くしているので、グァンスを父親のように慕っていた。 今やグァンスは中央党書記長、ヨンスも神龍隊大隊長にまでなっている。
ある日、グァンスに打ち明けられた。いっしょに世直しをしないか、と。その話を聞いて仰天した。だが、ヨンスは快諾した。世直しは必要だと思っていた。目の前が明るくなった気がした。
今、確実な仲間を集めているところだ。
しかし、グァンスに危機が迫っている。絶対に切りぬけなければならない。
ヨンスは、グァンスのことをお方様と呼ぶようになっていた。
7.クム・ガンス
不合理すぎる。
クム・グァンスは、いらだちがつのっていた。
自分の口を持っていても自分の言葉を話すことができない。自分だけの理想を持つこともできない。自分の命さえも自分のものではない。
つまり、北朝鮮には「自分のもの」がないのだ。それで人民が黙っているのは、強要され馴らされ、国家保衛部による住民監視制度が徹底しているからだ。
それだけではなく、洗脳と同時に、自分のものを待たせないように私有を法律で禁じ、人と人のつながりまで個人の連帯ではなく組織の連帯になるよう制度的に監視・管理しているからだ。それは、特権階層であっても同じことだった。
好きかってに外国映画は見られないし、海外旅行も禁止されており、居住の自由さえない。
この国で、自由・人権・好みなど、自分のことを公然と追及できるのは、ただ一人、首領だけだ。 首領の一言は法であり、人民の日常的な自由は違法になる。
自分という意識を捨ててこそ安寧に生きることができる。だが、ヘタに自分を立てれば逆賊として追われる。
グァンスは、それらを助長し支援しているのが自分であるということが、なにより赦せない。
今の首領は、グァンスの従兄弟だ。この世の中の基盤を作ったのはグァンスの叔父だが、完成させたのは従兄弟だ。従兄弟とは、子供のころよく一緒に遊んだ。無心で遊べたころは良かった。
今は遠い昔だ。
しょせん住む世界が違った。中央党書記長の立場であっても、従兄弟の意にそぐわないと強烈な圧力がかかる。
グァンスの心にいつの間にか芽生えた何か得体の知れない小さな黒い球のようなものが、徐々に姿を表してきた。
やがてはっきり見えるようになった。
世直し。
始めなければならない。それには、信頼のおける仲間が必要だ。本部職員は、相互監視体勢にある。誰も信用できない。話せるのは、ヨンスだけだ。
グァンスは、ヨンスに打ち明けた。
最初驚いていたが、感動したのか泣きだした。自分の大隊は全員忠臣だから、実行部隊として使って欲しいと言った。
すぐにでも何か行動を起こしそうな勢いだったので、緻密で完璧な計画を立てるからそれまで待つように言って落ち着かせなければならなかった。
クーデターを成功させるには、圧倒的な軍事力が必要だ。だが、北朝鮮では軍部が一つではなく、複雑な構造になっている。人民軍、中央情報部、特殊部隊、陸軍、空軍、海軍。これらが互いにけん制し合っている。
さらに、最近できた神龍隊。
そのすべてに命令を出せるのはただ一人、首領だけだ。それぞれの部隊に首領主義思想が徹底しており、首領は神格化されている。よほどの僥倖がないと、成功しない。
計画を立てる前に、軍事力の確保が最大課題だ。今はまだ、ヨンスの百名だけ。数は微小だが、神龍隊だから強力だ。
ヨンスが、傭兵を雇ってはどうかと言った。プロだからノウハウを持っている。軍部に期待できない、と。グァンスは、それも含めて考える、とその提案は保留にした。ヨンスは、統戦部に従弟が居るから誘い込む許可をくれと言うので、それは任せた。
8.ダンの紹介
各チームのリーダーだけ集められた。
「では、ゲーム内容を説明する」
ダンが切り出した。これまで一言も説明がなかったが、いよいよ明かされるようだ。昂胤は若干緊張した。
ダンが、見知らぬ東洋人を二人連れてきた。韓国人のようだ。何か関係があるのだろう。ダンの横に並んで座った。
ダンが立ち上がった。
「紹介する。こっちがキム・ソンヒョン。隣がワン・ヨンスだ」
二人が頭を下げた。
キム・ソンヒョンと呼ばれたほうは、どこにでもいそうな小太りのサラリーマンといったところで、ワン・ヨンスのほうは、服の上からでも鍛え上げた肉体だとわかる体躯の目つきの鋭い男だった。
「ゲーム内容は簡単だ。この二人を支援し、目標をクリアする。それだけだ」
ダンが皆を見回し、にっこり笑って座った。
「ダン、その二人は何なんだよ」
マイトが眉をしかめて言った。
「そうだぜ。話しが見えねえぜ」
スネークも言った。
「じゃ、直接話してもらおう」
ダンが言ったので、サラリーマンのほうが立ち上がった。それを見て、もう一人も立った。
「私は、北朝鮮の統戦部に籍を置くキム・ソンヒョンという者です。彼は、神龍隊第四大隊長のワン・ヨンスです」
ソンヒョンは、なまりのある英語で、ヨンスを紹介した。北朝鮮人だった。
「私たちの国は、今とても悲惨なことになっています。その現状は、世界に報道されているより酷いものです。毎年、何万人と餓死者が出ていることは報道されていません。このままでは国がなくなってしまうと、私たちは危惧しています」
ソンヒョンは、ここでいったん言葉を切った。ヨンスは目を伏せている。ダンは、皆の反応を見ていた。他の者は、ソンヒョンの次の言葉を待っている。
「私たちは、世直しをするしかないところにきています。そこで、世直し党を結成しました。今、党員を集めていますが、いくら集めたところで、首領の軍には追い付きません。それに、私たちはクーデター未経験者です。チャンスは一度きり。絶対に成功させなければなりません。そこで、プロであるみなさんのお力をお借りしたいのです。自分たちのことは自分たちで解決しないといけないとわかっています。ですが、背に腹は代えられないのです」
ソンヒョンは、首領主義思想が徹底された国の現状を説明した。情報操作をして自国民を偽っている自分の仕事についても説明した。国民が常に監視されていて一切の自由がないこと、高級官僚ですら相互監視態勢の下におかれていることなど北朝鮮の実情を、包み隠さずたんたんと訴えた。
最後まで誰も口を挟まず聴いていた。
長い話が終わった。
ソンヒョンは深々と頭を下げた。ヨンスもならった。
「どうだい。話が見えただろ」
何でもないことのように、ダンが軽い口調で言った。
「バーレーン王国第二弾ってわけか!」
マイトが、合点がいったという顔で言った。他の者も納得顔で首を上下に振っている。
昂胤の顔がこわばった。バーレーンの件は、やはりダンたちの仕業だったのだ。もしかすると予行演習だったのか、と昂胤は思った。
「だけどよ、今度はそんなに甘くねえぜ。こちらさんは軍人で固めたお国だからよ」
マイトが言った。
「ちょっと待ってくれ。ゲームをするって言っていたけど、このことだったのか」
昂胤が割って入った。
「ああ、そうだぜ。おもしろそうだろ」
笑顔をくずさずにダンが答えた。
「じゃ、なぜ最初から言わなかった?」
「最初からわかっていたんじゃ、おもしろくないだろ。俺たちのゲームが役に立つってんだから、日本のコトワザにあるじゃないか。一石二鳥ってやつだぜ」
ダンが言ったが、昂胤はまだ何か納得いかなかった。しかし、それ以上追及しなかった。
「で、お宅らのお仲間って今、何人いるんだい?」
マイトがソンヒョンに訊いた。
「使えるのは、ヨンスの神龍隊百名です。これは、首領の特別警護隊です。特殊部隊から引き抜かれた精鋭中の精鋭です。第五隊まであり、各隊百名。そのうちヨンスの第四大隊が世直し党です」
ソンヒョンが答えた。
「それじゃ首領は物騒なヤツらに囲まれているってわけか。そのまま首領をやっちまったらどうだい」
マイトが言った。
「首領一人の命で済むのならそれでいいのですが、そうはいかないのです。首領は神格化されていますから」
ソンヒョンが答えた。
「しかし、神龍隊は首領に近いポジションなんだな」
ダンが確認した。
「ええ、そのとおりです」
「じゃ、使えるじゃねえか」
マイトが言った。
「でも、首領の警護に特殊部隊が二万人ついています」
ソンヒョンが言った。
「それと、神龍隊の四百だな?」
ダンが付け足した。
「はい」
「首領は、自分一人を二万人に守らせているのかよ?」
マイトが言った。
「はい。特殊部隊の二万人は精鋭です」
「なんて野郎だ」
マイトがはきだすように言った。
「だが、二万人の塊のど真ん中にいつも居るわけじゃねえだろ」
マイトが続けた。
「はい。それはそうですが」
「じゃ、何とかなるぜ。何とかしなきゃなんねえしよ」
マイトが言った。
「世直し党員ってそれで全部かい?」
ダンが訊いた。
「他には今のところ、自警団の百人くらいです」
「自警団?」
「はい。地方に行くと、たいてい自警団があります。官軍が人民を守ってくれませんから」
「自警団って普段は何してるんだい?」
「農業とか工業とか、普段は普通に働いています」
「じゃ、だめだな。じゃまになるだけだ」
ダンが言った。
「皆に言っておくぞ。今度は前みたいに甘くない。ここには、サラリーマン軍人はいない。全員、首領のためなら命を投げ出すという兵士ばかりだ。マインドコントロールされているからそのつもりでいろ」
ダンが注意をうながした。
それから、詳細についての打ち合わせが始まった。打ち合わせといっても、一切がダン主導で進められていった。
話しを聞きながら、昂胤は考えていた。これがアンダーソンの言ったダンの悪だぐみなのか。アンダーソンに連絡すれば、阻止せよと言うだろうか。しかし、ここまできてしまったら、仮に止めようとしても昂胤一人ではもう無理だ。むしろ、ソンヒョンの話しが本当なら、一緒に戦うべきではないのか。この国は、革命が必要だ。
相手は首領一人。首領は神様だ。警護している軍人は、神様のためには命を投げ出す。神様は、この狂信的な二万人の軍団に警護されている。今回だけは、並みの覚悟では太刀打ちできない。命の保証はない。
ダンの言うゲームがこの国のクーデターだとするなら、味方陣営は、ダンが作った混成チームとこの国の神龍隊百人だけだが、昂胤は参加する気になっていた。実際、傭兵時代に一度、ある国の政府を転覆させたことがある。ただしあの時は米政府命令であり、メンバーの気心を熟知している昂胤がひきいる隊の単独実行だった。報酬も半端ではなかった。
ダンはどうしてこの依頼を受ける気になったのだろうか。
報酬は出そうにないから、それが目的ではない。この国の実情を聴き、意に感じ、人民のためにやってみようという気になっているだけなのか。
アメリカでギャング団のボスをしていたほうが、はるかにぜいたくで、好きなことをして暮らしていけるのに、ダンはこんなところに来て危ない橋を渡ろうとしている。
依頼を受けたのが先か傭兵を集め始めたのが先か、昂胤にはわからない。もしかすると、依頼を受ける前からそのつもりだったのかもしれない。あるいは、韓国に入って訓練をしているうちに偶然その依頼を受けることになったのか。昂胤は、ダンの考えがよくわからなかった。
「成功させるためには、とにかく奇襲しかない。そして、首領がかぶっている神様の仮面をはぎ取る必要がある」
ダンが言い切った。
前回ダンが起こしたクーデターは、共産主義国ではなかった。かといって簡単に成功したわけではない。クーデターは、通常の軍事作戦とは異なる。空港などの交通施設、政府首脳の官邸、国防省や警察本部などの官庁、通信施設を攻撃目標として、反撃を受けないよう同時刻に制圧しなければならなかった。
バーレーン王国では、ほとんど無血入城している。そして、目標完遂と同時に速やかに撤収した。新政府を誕生させて維持させることは度外視していたからこそできたのかもしれない。
今回は、首領を排除し、各党などの権力の中枢にいる上級官僚を排除するか、もしくは従属させ、新政府を樹立し正常にスタートさせなければならない。本物の改革だ。神格化された首領の仮面を剥ぎ取り、人民の信奉を速やかに覚醒させることが最大重要事項だ。そして、新政府が人民の支持を確保する必要がある。
戦術的な局面では戦闘部隊が相手となるわけではない。だが、防諜の観点から、世直し党の人員は、技能だけでなく完全な信頼関係を基に絶対的に秘密裏に推進実行しなければならない。反撃を準備する猶予を与えず、短時間のうちに目標を完遂するための人員としては、 ヨンスの大隊とダンの傭兵団は最適と言える。自警団の出番はない。自警団が必要とされるのは、占領後になるだろう。
「では、攻撃対象は以上とする。万が一作戦が漏れたら、失敗する。ソンヒョン、大丈夫だな」
ダンが確認した。
「はい。大丈夫です」
ソンヒョンが断言した。
あとはいつ実行するか。これが肝要だった。
「ダンさん、お願いがあります」
ソンヒョンが、改まったようすでダンに言った。
「相手は全員、北朝鮮人民です。私は、いっさい血を流したくないのです」
ソンヒョンが、こわばった笑みを浮かべて言った。
傭兵は、情け容赦がないとソンヒョンは思っている。ダンのチームから見れば北朝鮮人は他国人だ。敵対者を排除するのに躊躇はないだろう。ソンヒョンがその点を危惧しているということが、昂胤にはよくわかった。
「そうしたいがソンヒョン。約束はできないな。だが、無抵抗な者まで殺しゃしないぜ」
ダンが言った。
「俺たちが相手にするのは、首領のためなら命を投げ出すって怪物くんたちだぜ。命を捨ててかかってこられたら、そんな悠長なことは言っていられないな。成功第一で行くぜ」
「わかりました」
ダンの言うとおりだ。ソンヒョンは、了解せざるを得ないだろう。
「では《殺生簿》を作ります。それに従っていただけますか」
ソンヒョンは、かすかに声を震わせて言った。せめてこれだけは約束させようとしているようだ。
「つまり、強制的に排除したい者がいるってことだな」
ダンが確認した。
無血入城をしたいと言っておきながら殺生簿を提案することの矛盾を、ソンヒョンは気づいていなかった。
「お方様に聞いてみます」
ソンヒョンが言った。
「おまえたちのボスか」
「はい」
「ボスに言っとけ。俺たちは抵抗しなけりゃ何もしないが、抵抗する者は容赦しないとな」
「わかりました」
会合はこれで終わりだ、とダンが言って立ち上がった。ソンヒョンとヨンスは、実行日が決まったらまた来ると言って帰った。
二人が帰ってから、昂胤はダンに訊いてみた。
「ダン。本当の狙いは何なのだい?」
「人助けに決まってるじゃないか」
笑ってダンが言った。ダンの笑顔からは何も感じ取れなかった。
「じゃ、そういうことにしとこう」
昂胤は、納得していなかったがそう言うしかなかった。
「ボス。Xデーまで俺たちここに居るんですか」
マイトが言った。
「ああ。訓練の一環で武道大会でもするか」
ダンが言ったので、歓声が上がった。
「よし。チーム総当たりと行こう!」
ダンの一声で決まった。さっそく明日から始めることになった。
9.殺生簿
グァンスの執務室は、上級管理職の執務室より少し広いだけで、机とかロッカーなどの調度品は、ほぼ一緒の物だ。ここにも、首領のスローガンが大きく貼ってある。
ここに、ソンヒョンを伴ってヨンスが入ってきた。ソンヒョンは、少し緊張しているようだ。ソンヒョンが執務室に来るのは初めだった。
二人から、ダンたちとの会合の内容を詳しく説明された。 説明したのは、主にソンヒョンだった。
「私は無血入城したいと言ったのですが、無理だと言われました」
ソンヒョンは、説明の最後に付け加えた。
「それは、やむを得んだろう。無血というわけにはいくまい」
グァンスは、立ち上がって窓辺に寄った。枯葉が舞っていた。
「ええ。それでなんですが、《殺生簿》を遵守して欲しいと言ってあります」
「そんなものがあるのかね」
グァンスは上半身だけ振り返り、ソンヒョンを見て言った。視線が一瞬、鋭くなった。
「いえ、ありません。早急に作ります」
「必要ない」
また外を見て、グァンスが即座に言った。
「は?」
「そんなものを作るなと言ってるんだ」
「クム・グァンス中央党書記同志!」
ソンヒョンは、つい声が大きくなった。反対されるとは思っていなかったようだ。
「連中は、抵抗すれば容赦なく殺しますよ」
ソンヒョンはグァンスの背中に向かって言った。納得できない。無血入城できないならせめて《殺生簿》を、と。
「ソンヒョン同志。簡単に事が成ると思ってはいけない。軍に激しく抵抗されるだろう。そうなれば、無血で済むわけがない」
グァンスは、窓の外を向いたまま言った。
「兵士は上官の命令に従っているだけだ。 高級官僚も兵士も、命の重さは同じなんだよ。 同志の作る殺生簿に誰を載せるつもりかね。仮に載せたとして、傭兵軍はそれをどうやって見分ける? 赤いリボンでもついているのかね」
グァンスが、応接セットに戻ってきて言った。
「殺していい人間など、この国にはいないんだよ」
ソンヒョンは、下を向いた。
「ソンヒョン同志が人の殺生を決めるのかね」
グァンスが静かに言った。その言葉は、重くソンヒョンの胸に響いたようだ。
「わかりました、書記同志。私が間違っておりました」
ソンヒョンは、自分の考えが足りなかったことを詫びた。
「ソンヒョン同志。重要なのは成功させることだ。同時に国民の覚醒だ」
グァンスも無血入城したいのだ。できるならだ。
失敗は、許されない。絶対に成功させなければならないのだ。ヨンスもソンヒョンも、同胞に対し非情には成りきれないだろう。一瞬のしゅんじゅんが命取りになる。 その点、ダンのチームなら間違いない。
問題は、決行日をいつにするかだ。
首領が首領邸に居るときは警護が厚すぎる。仮に成功したところで、それで人民が覚醒するとは思えない。
北朝鮮の人民は洗脳されているのだ。
自分たちは食べるものがなくて飢えているのに、首領に食べ物の差し入れをする人がいまだに後を絶たない。人民は直接謁見できないので、中央党官邸の門前にこっそり食べ物を置いて帰るのだ。
しかし、差し入れされた食べ物が首領の口に入ることは絶対にない。首領への差し入れとはいえど人民が食べるような粗末な物を首領に出そうものなら、その担当官の将来は閉ざされて再起不能になることは目に見えている。だから、官邸の下働きの者にまわされる。
だが、これはいいほうで、ほとんどが廃棄処分となる。こういったことを人民は当然知る由もない。
グァンスが頭を悩ませているのはこの点だ。首領だけ排除しても、成功したとは言えない。人民の心を自由世界に開放しなければ意味がない。
やはり、人民の前で神の仮面を剥ぎ取る必要がある。
もう一つある。
首領の側近、兄弟姉妹、親戚筋の処遇だ。どこまで粛清すればよいのか。
李王朝時代、第七代王世祖は、敵対派の官僚を一人残らずすべて粛清したのにとどまらず、自分の兄弟や甥、義父や従兄弟にいたるまで徹底的に粛清した。時代が違うとはいえ、北朝鮮は李朝鮮時代と何ら変わるところがないのだ。世祖に習ってこそ成功といえるのではないのか。
しかしグァンスは、最高権力が欲しくて立ち上がるわけではない。首領はグァンスの従兄弟だが、首領はともかく、自分の親戚筋をすべて粛清できるかとなると、グァンスには自信がなかった。というより、はっきり言ってグァンスには無理だった。
※まだまだ続きます。
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