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07 少女と海の魔獣


「これより、セイレーン討伐を開始します。各チームは事前に決められたコースでポイントへ向かい、交戦して下さい。制限時間は二時間。もしも命の危険を感じたら、迷わず退避する事。それでは、健闘を祈ります!」

 講師はそう言うと、隠匿魔法によるものか、姿を消した。

 セイレーンの討伐は、あくまでも生徒主体。本当に危険な状況になるまで、講師は傍観者に徹するのだろう。

「なんか、緊張してきた……。」

「ハルは初めての魔獣討伐だもんね。」

 ハルのいるクラス、生徒二十人はグラソン王国の南部に位置する港町、テルテラの海岸へ来ていた。

 海岸沿いは殆どが岩場となっており、波は岩礁にぶつかっては真っ白な飛沫をあげて頬を冷たく濡らす。テルテラはグラソン王国でも比較的温暖な気候の地域に属す。しかしこの時期は北からの海流が流れ込み、海は黒く、不気味なうねりをあげている。

「行こう、ハル。」

 洞窟までの道は、鬱蒼とした霧が立ち込めていた。

 海岸は、入り組んだ岸壁で形成されている。その隙間にはいくつもの洞窟が存在し、セイレーンの格好の住処となっているらしい。ハルとリア。そして、他に二つのペアで形成された計六人のチームは、海岸沿いの岩場を道なりに進む。

「足手まといになるなよ、ハル=リースリング。」

「うん。」

 刺々しい視線を送るチームメイトに、ハルは頷く。

 今回の実践訓練では命の危険がある事から、リア以外とも会話が許されているのだ。

 正直、意外だった。てっきり、他の生徒との会話を許すくらいであれば、実践訓練への参加自体、セシリアは却下すると思っていたから。セシリアには、何か考えがあるのだろうか。いや、それは今考えることじゃない。

 セイレーンに集中、集中!

「ハルならきっと大丈夫だよ!使える魔法はイルアローゼだけだけど、色んな攻撃を編み出したんだから!……でも、急に魔法の操作が上手くなったよね。誰かのアドバイス?」

「うっ」

 ハルは魔獣討伐が五日後に迫っても、戦闘力になれそうな魔法は、身に着けることができなかった。

 それはもちろん、悪魔の契約によるもの。だがそれでも、何の役にも立てない自分に辟易したハルは、プライドを捨てた。王国最高峰の魔法士であるセシリアに、教えを請いたのである。

 だが当然セシリアが、無条件でハルに魔法の手ほどきをしてくれるはずも無かった。

 セシリアの出した条件は、セシリアの要求に一つ応える度、魔法操作におけるコツや、ハルの能力を利用した応用魔法を教えるというもの。そんな、圧倒的に理不尽な交換条件だった。

 そしてセシリアからの要求は、もっぱらハルの魔法譲渡の能力に関わるものであり、思い出すだけでも羞恥で涙ぐむような内容ばかりであった。

「ま、まあ、体を張った努力の結果、かな……」

 遠い目をして答えるハル。何も知らないリアはそれを言葉の通りに受け取ると、「えらいぞハル!」と、ハルの背中を叩くのだった。



* * *


 

 岸壁からせせり出した洞窟の入り口。そこまでは何事もなく辿り着いた。

 水に濡れ、滑りやすくなっている岩盤を、六人は一列に並んで、ゆっくりと進む。

 洞窟の内部は薄ら暗く、外よりも数度気温が低いように感じる。陽光の入らない洞窟の奥は、前を歩く人の背中を見るのでやっとだった。

<みんな、そろそろ防音の魔法をしようか。ハルは耳栓つけて!>

 一番先頭を歩くリアが、魔法を使ったテレパシーで声をかける。ハルは緊張した面持ちで、準備していた耳栓を嵌めた。もちろん、セイレーンの使う幻術魔法への対策である。

 いつ、セイレーンに遭遇してもおかしくはない。一歩一歩と進むたび、チームに緊張が走る。

 異変は、すぐに起きた。

 一列になって進んでいた一行であったが、真ん中を歩いていた赤髪の少女が、突然足を止めたのである。

<ちょっと早く進んでよ!>

<足が……動かないっ……!>

 最後尾を歩いていた生徒が、先頭のリアに異常を伝える。

<イグテアが、幻覚にかかり始めてる!この近くにいるわ!>

 それを聞いたハルとリアは足を止め、持っていた松明で周囲を照らす。どこも、青黒くぬめった岩肌。動くものの気配はない。

<セイレーンは歌声で幻術をかける。だけど、歌声が効かないと分かると一般的な幻術も使う。みんな気をつけて!>

 リアが、そう警戒を促した直後だった。立ち止まっていた少女イグテアが、突然悲鳴をあげた。

<助けて!誰か助けて!殺される!>

<なんだ!?>

 叫ぶようなテレパシーに、リアがイグテアの立つ方を松明で照らす。だがそこには、怯えるイグテアしかいない。それでもイグテアは、纏わりついた何かを自身から離そうと、もがいていた。

<イグテア、落ち着いて!幻覚よ!自分の名前を唱えるの!>

<嫌!死ぬのは嫌っ!何も見えない!聞こえない!>

 イグテアにこちらのテレパシーは一切聞こえていないのか、悲鳴は止まらなかった。狂ったように真っ赤な髪を振り乱し、暴れている。

 通常の幻覚では、人は殺せない。戦闘不能にする程度である。もしもセイレーンがイグテアの命を狙っているのだとすれば。

<まずい!イグテアの幻術を早く解かないと!>

 イグテアの側にいた生徒が、幻覚解除の魔法をイグテアにかける。しかしその間にも、イグテアの発狂は悪化していた。

「何も聞こえない!誰か助けて!なんて言ってるのか……」

<だめだイグテア!防音魔法を解いたらっ……!>

 セイレーンの思惑に気づいたリアが、イグテアに向かって叫ぶ。だが、間に合わなかった。

 イグテアの上部に現れる、防音魔法を解除する魔法陣。

「しまっ…………」

 魔法が解除されるや否や、イグテアは一瞬にして、廃人の様に押し黙った。


 ♪〜〜♫♩〜〜〜


「呼んでる……みんなが、私の事を…………」

 イグテアはうわ言の様に呟くと、洞窟の脇、黒い海面が揺らぐ方へ、ゆっくりと歩き出す。

<止まってイグテア!>

<なんて馬鹿力なんだよっ>

 慌てて五人がかりで、イグテアの体を引き止める。だが、五人が全力でしがみ付くように引き留めても、その歩みは止まらなかった。

<これがセイレーンの幻覚……このままじゃ、本当に海に落ちるよ!?>

<イグテア……!>

 徐々に近づく、海との距離。真っ黒な海面の下には、セイレーンが餌を待ちわびているのだろう。

 だが、霧や魔力が洞窟内に立ち込めてるせいで、その気配はリアの魔法をもってしても、非常に探りづらかった。

<先生に連絡をっ……!>

<だめだ、間に合わない!>

 何とかして、セイレーンをおびき出す方法はないか。ハルは必死にイグテアの腕を引っ張りながら、思考した。一つだけある。リスクは高いが、確実にセイレーンをおびき出すことのできる方法が。

<みんな!あと十秒だけイグテアを止められる?>

<五秒が限界!>

<リア、セイレーンをお願いね?>

<待ってハル!何するつもり!?>

 ハルは一方的に「信じてるよ!」とだけ告げると、真っ直ぐ荒れる水面めがけて走り出した。そして次の瞬間、派手な水しぶきを上げて、敵の目前。真っ黒な海の中へと飛び込んだのだった。

<ハル!?>

 薄暗い洞窟。リアは、海に飛び込んだハルの姿を、すぐに見失ってしまう。しかし、波の一部だと思っていた影が不自然に動くのを、リアは見逃さなかった。ハルのあげた水しぶきの方へと、素早く迫る影。それは瞬く間に、ハルの落ちた方へと急速に接近する。

<ハル、本当に大丈夫なんだよね!?>

 二か所に関節を持つ長い腕が、鋭く尖った爪をハルに振るう。腕は青い鱗にびっしりと覆われており、間違いなく、セイレーンのものであった。

「行くよ!――――イルアローゼ・グラン!」

 ハルの両手から、四方に上がる水飛沫。その一粒一粒が凍りつき、襲い掛かるセイレーンとの間に、壁のように広がる。リアはその魔法を目にするや否や、瞬時にハルの考えている事を理解した。そして、散らばった氷の粒に向けて、松明を投げ入れる。

 松明の灯りが、ハルの作り出した無数に舞う氷の粒へ、反射する。その光はシャンデリアのように増幅し、ハルに迫らんとするセイレーンを、照らし出した。

「見つけたよ!私の友達に、手出しはさせない!」

 リアの両手から、渾身の風魔法が放たれる。両手に集まった緑の光が、リアの足元で木の根の様に張り巡らされる。凝縮された光が、狼の様な姿になってセイレーンに飛びかかった。

 ズタズタに引き裂かれる、セイレーンの鱗。セイレーンは真っ青な血を吹き上げながら、断末魔の叫び声を上げる。そして、せめてこの獲物だけでもと。その鋭い爪の先をハルへと伸ばす。だが、伸ばした先から、風の刃によって粉々に引き裂かれ、跡形もなく消し去られる。

「あら?私は一体、何を……?」

 リアによるセイレーンの撃破と同時に、正気に戻ったイグテアが呟いた。

 それまで、何とかイグテアが海に向かわないようにとしがみついていた三人は、気が抜けたように座り込む。

「とにかくみんな無事でよかった。」

 海から引き上げられたびしょ濡れのハルが、スカートの裾を絞りながら、微笑んだ。

 六人はようやく、誰も欠けることなく無事にセイレーンを倒せたことに、安堵するのだった。

 それからも、六人は洞窟内を警戒しながら更に奥へと探索を続けた。だが、この洞窟にいたのは先ほどの一匹だけだったらしい。他の魔獣の気配は無かった。

「確かこの洞窟を抜けた先で、十数人乗せた船が襲われたんだっけ?」

「そうらしいよ。でも、全然魔物いないね。」

 リアの言う通りだった。確かに、セイレーンは想像以上に手強かった。しかしあの一体だけで、船を襲えたとは思えない。しかし、洞窟からはもう、魔獣の気配は消えている。

「あ、見て見て!なんかキラキラした物が浮いてる!」

 先頭を歩いていたら二人が、洞窟の開口部付近に漂着物を見つけたらしく、駆け出した。

「何だろう。襲われた船に乗っていたものとかだったら、ちょっと不気味だよね。」

 そんな二人を遠目から眺めながら、ハルとリアは腕を組んで考える。

 船を襲ったということは、セイレーンが歌声で一斉に幻術をかけたのだろうか。だけど、一匹で十数人に同時に幻術をかける事は難しい。だとしたら、この洞窟には、セイレーン以外の魔獣がいるのだろうか。だけど、洞窟の中にそれらしい気配はないし……。

「魔獣の、気配…………。」

 ハルは一つ、最悪な可能性に気づく。

「二人とも、今すぐ海から離れて!上位の魔獣は、気配すら消す事もできる!」

 もしも、この間のドラゴンの様な個体が、この海域の付近に潜んでいるのだとしたら。今回はきっと、空ではなく――。

 ハルの仮説への答えは、早かった。洞窟の開口部。駆け出した二人が、海の側にたどり着いた瞬間だった。音もなく、不気味な灰色の触手が二本、水面から姿を現す。

 ゆらりと蠢く触手。それは、その存在に気付かず水面を眺める二人に向かって、真っ直ぐに振り下ろされる。

「危ないっ……!」

 ギリギリの所で、先ほどセイレーンの幻術にかかっていた少女イグテアが先に気づき、もう一人の生徒を掴んで地面を転がる。振り下ろされた触手は、空気が痺れるような轟音と共に、イグテアの隣に巨大なひび割れを作った。

 奇襲に失敗した魔獣は、小賢しい罠での狩りは諦めたのか、ドドドドと骨まで響く重たい振動とともに、水面から巨躯を露わにする。

「そんな……あれって…………。」

 纏わりついた黒い海水が、灰色の粘液に覆われた体を流れ落ちた。あまりの大きさに、海面には渦潮が発生し、赤い光が二つ浮上したかと思うと、それは、人が両手を広げた程の大きさの、眼球だった。

 先ほど岩盤を叩き割った二本の触手の他に、七本の触手が、洞窟いっぱいに伸びる。

「クラーケン…………。」

 あまりの巨体と、禍々しい魔力。ハルの膝が、恐怖で小刻みに震えた。横目でリアを見るが、恐怖に心を支配されているのは、リアも同様であった。その目には絶望が浮かんでいる。

 クラーケンがその存在を知らしめる様に、洞窟が崩れそうな程の雄叫びを上げる。そして、高らかに振り上げた触手で、ハルたちの背後、洞窟の上部を攻撃した。

「しまった、入り口が……!」

 崩れた岩が、洞窟内部に積み上がる。それは一瞬で、天井までの隙間を埋めてしまった。

「こんなの、もう終わりじゃない……みんなあの化け物に食べられるんだ……ああ、ああ…………」

 ハルの背後で一人の少女が、希望を失ったように啜り泣く。

 他の生徒たちの反応も、同様であった。

「やだ……死にたくない、いやっ…………!」

 洞窟を覆い潰す、残酷な恐怖。クラーケンが鋭い歯を鳴らす音と、それを煽るように荒立つ波の音が、洞窟内に反響した。

「…………イルアローゼ・グラン!!!」

 絶望の中、震える足を何とか押さえつけ、一歩前に出たハルが叫ぶ。しかし、低級魔法に位置付けられる氷の粒は、クラーケンの体に届く事も無く、四方に霧散してしまう。それでも、ハルは諦めなかった。

「イルアローゼ・グラン!イルアローゼ・グラン!イルアローゼ・グラン!」

「ハル無理だよっ……こんなの、勝てないよ……!」

 リアの声は震えていた。しかし、ハルは止めない。止めるわけには、いかなかった。

「みんなを絶対に死なせない!イルアローゼ・グラン!イルアローゼっ…………あがっ」

 必死に魔法を叫び続けていたハルの声が、一瞬にしてかき消される。同時に、リアの顔に付着する一滴の液体。

 それは、ハルの血液だった。

「ハル………………?」

 触手によって叩き飛ばされたハルは、腹部を深く抉られ、洞窟の壁に打ちつけられている。

「ハル!ハル!しっかりして……!」

 リアの呼びかけに、ハルは応じなかった。壁にぶつかった衝撃の為か、意識を失っている。その間も腹部からは止めどなく血が溢れ、致命傷であることは疑いようがなかった。

「ハル!今、回復するからっ、お願いっ!ハル……!」

 リアは涙を流し、半狂乱になって叫ぶ。しかしハルの体は悪魔の契約によって、あのノアでさえ回復魔法が効きづらいと称するほど。リアが回復魔法でハルの傷を塞ごうとしても、流れ出る血は止まるどころか、増える一方だった。

「ハルっ、死んじゃだめ!しっかりしてっ……!」

 しかし、ハルの瞼は開かない。

 そんな二人の惨状に、クラーケンの罠に嵌った一人、赤髪のイグテアが立ち上がると、クラーケンに向かって剣を構えた。

 クラーケンは、そんなイグテアを嗤う様に高い声をあげて、二本の触手を飛ばす。

 何とか剣と地属性魔法の壁でクラーケンの触手を捌くイグテアであったが、更に二本の触手が追加されると、形勢はあっという間に逆転されてしまう。

 クラーケンは触手の連打によってイグテアの体を弾き飛ばすと、その体を高く掴み上げた。

「ぐ、うっ……!」

 クラーケンが、イグテアの体を顔の前に引き寄せる。大きく開く、鋭い歯が並んだ口。

 触手の締め付けに身動きができないイグテアは、圧倒的な力の差に、自らの最後を悟った。そして洞窟の入り口に向けて片手をかざすと、呪文を唱える。

「…………デル・ガイア!!!」

 地震の様な地響きと共に、大きく揺れだす洞窟内部。

「な、何っ……?」

 崩れた洞窟の入り口を見ると、揺れによって岩が動き、上部に人一人であれば通れそうな隙間ができていた。

「先ほど、セイレーンから助けていただいたお礼ですの……!私が、もう少し時間を稼ぎますからっ、皆さんは早くその隙間で……!」

 イグテアはそう叫ぶと、自らを締め付ける触手へ、最後の力を振り絞って剣を突き刺した。

 多少は効いたのか、イグテアを締め付けていた触手が緩む。だが、それはほんの一瞬だった。

 反撃に怒り狂ったクラーケンの攻撃はより早く、苛烈になる。更にそこに、水のブレスによる攻撃が加わった。

「ぐがああっ……!」

「イグテアっ!?」

 正面からのブレス攻撃を食らったイグテアが、背後の壁に吹き飛ばされる。しかしそれでも、またすぐに立ち上がると、落とした剣を拾って再度クラーケンへと攻撃を仕掛ける。

 イグテアの決死の攻撃に、逃げていいものかと困惑する少女達。

「何をしているんですか!早くお逃げなさいっ!」

 血を滴らせながら叫ぶイグテアの気迫に、少女たちは涙を流しながら頷くと、岩をよじ登る。その最後尾には、ハルを背負ったリアがいた。

「ハル、もう少しだから、がんばれっ!ハル……!」

 ハルの瞼が、ほんの少し動いた。その様子に、緊迫した状況ではあるが、リアは僅かに安堵した。

 先頭で岩を登っていた一人目の少女が、ようやく隙間に手をかけたとき、背後から再び、割れるような轟音が響く。

「ああ……イグテア…………」

 振り返った少女達は、目の前で繰り広げられる凄惨な光景と、あまりにも明らかな力の差に、嗚咽まじりに呟く。

 イグテアは剣を落とされ、全身血塗れの状態で、洞窟の床に倒れていた。迫り来る触手を、その場しのぎで作り出した土の壁で防ごうとするも、なけなしの魔力では強度が足りない。イグテアの体は、あっという間に、その体を触手に絡め取られる。

「私、ここまでみたいですわね…………」

 両腕を動かす力も残っていないのか、それとも、骨が折れているのか。だらんと紫色に変色した腕を垂らしたまま。イグテアの体が、クラーケンの鋭い歯の目前に晒される。

「でも、私の命一つで、皆さんが幸せになるのなら……死ねて満足ですわ……」

 イグテアはそう呟くと、目前で鈍く輝く強大な鉛色の歯に、諦めた様に微笑を浮かべる。

「死ぬのは、痛いのでしょうか……」

 あんぐりと開けた真っ黒な口の中へ、触手はゆっくりとイグテアを運ぶ。イグテアはぎゅっと目を瞑り、その身が引き裂かれ、痛みから解放される瞬間を待った。 

 イグテアが、死ぬ。イグテア自身も、泣きながら洞窟の隙間を通る少女たちも、皆が思った。

 しかし、クラーケンへと衝撃が走る。それは、金属同士がぶつかる様な、重たい音。

「させないっ……!」

 驚き、咄嗟に目を見開いたイグテア。その目の前で、腹部から大量の血を吹き出しながら、クラーケンの歯を剣でギリギリと押し返しているのは、

「ハルさん!?」

 黒髪の華奢な少女、ハルであった。

「やめて下さい!ハルさんまで死んでしまいますわ!血も、こんなにっ!」

「“死ねて満足”なんて、絶対に言わせない。」

 ハルが、渾身の力でクラーケンの歯を押し返す。だが、力比べでこんな巨大な魔物に勝てるはずもなく。徐々にクラーケンの口は、ハルごと噛み砕いてしまえと閉じていく。

「相手はクラーケン!私達で勝てる相手では無いんですのよ!」

 しかしハルは必死な形相のまま。吐血しながら、歯を食いしばる。

「私達なら、勝てないっ…………でも、絶対!私が死ぬのなら、絶対にあの人が来る!それまで、誰も死なせないっ…………!」

「助けなんて来ませんわっ!ハルさんだけでも、早く外へ!」

 しかし、断固としてハルは頷かなかった。その気迫に、イグテアも気圧される。

 ――絶対に、誰も死なせない。

 呪いにも似た想いだけが、ハルの意識を保っていた。その想いだけが、ハルの限界を超えた力を引き出す。

 血管なのか、筋肉の繊維なのか。全身から、不快な音がする。しかし、ハルは止めなかった。力尽きる、その瞬間まで。絶対に力を抜かない。

 業を煮やしたクラーケンが、二本の触手で隙だらけのハルを鞭の様に殴打した。

「ぐうっ……!」

「ハルさん!!!」

 しかし、強烈な触手による一撃を受けても尚、ハルは一切その場所から動かなかった。

 裂かれた背中は血で染まり、口の端からは血が溢れ出す。それでも、剣を握る手を離さないハルに、イグテアが叫ぶ。

「もうやめて下さい!本当に死んでしまいますわ!」

「やめないっ!」

 予想外に硬直した状況。だが、終わりの時は近い。

 クラーケンがハルにトドメを刺すように、最も太い触手を、高く振り上げた。

 瞬間、洞窟内に、巨大な星が落ちたような爆発音が響く。バチバチと鋭い音を立てて迸る、青い電光。

 一体、何が起きたのか。その場にいる誰もが、何もわからなかった。ただ一人、ハルを除いて。

 イグテアを締め付けていた触手が、力なく解ける。その先端は切断されたように、真っ黒な海の底へと落ちていった。

「なんですの……!?」

 突然の爆音と解放。イグテアの体は何者かの浮遊魔法によって、洞窟の地面に下ろされていた。

 一体誰が。クラーケンの方を見上げる。ハルに振り下ろされるはずだった触手は、根元付近で焼き切れている。

「間に合った、とは言えなさそうね。」

 そこには、凍りついたクラーケンの頭の上に立ち、紺碧の髪を靡かせる少女が、ハルを抱き抱えていた。

「遅すぎて、また一つあなたが嫌いになりました……。」

 抱き抱えられたハルが、薄く開いた瞳に、暗闇の中でも翡翠色に輝く眼差しを映す。そして、安心したように瞳を閉じた。

「これでも、全速力で駆けつけたのだけれど。」

 抱き抱えたハルに、簡易な回復魔法をかける人。あのクラーケンの触手を、一瞬で。そんな人間、この世界には数えるほどしかいない。

「セシリア、様……。」

「クラーケンはもう死んでいるわ。この辺り一体の海は凍らせているから、落ち着いたら退却しなさい。」

「ハルさんは大丈夫なんですの!?」

「あなたが知る必要のない事よ。それと、今後ハル=リースリングとは一切関わらない事。」

 セシリアはそれだけ一方的に告げると、姿を消した。

 なぜ、あのセシリアがこのタイミングで、こんな場所に。ハルとセシリアの間には、何か自分の知らない繋がりがある。イグテアがそう考えるのは必然のことだった。

 だからこそ、関わるなとセシリアは言ったのだろう。ハルは、自分の命の恩人なのに。

 やり場のない悔しさ。取り残されたイグテアは、ただ拳を強く握り、血が出るほど強く、唇を噛み締めた。

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