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03 少女と魔女裁判

 誰かの呼ぶ声がする……お母さん?

 ――――――ハル

 ……違う。聞いたことのない声。

 ――――――起きて

 ……私は、確か春からグラソン魔法学園に入学して。

 ――――ハルさん、起きて!


「あっ!!!!!」

 確か、魔法濃度測定のために訓練場にいて――そこまで思い出し、脇腹を引き裂いた剣や、レイピアに映った自らの漆黒の瞳が、走馬灯のように脳内で渦巻き、意識が急速に浮き上がる。

「やっと起きてくれましたね。」

 目を開くと、藍色の髪をした、可憐な花の様な少女が微笑んでいた。涙ボクロが特徴的な、真っ白な少女。

 少女は、海の底を思わせる青色の目を細め、和らげな表情で、ハルの瞳を覗きこむ。

「海の、精、霊………………?」

「まあ」

 覚醒したばかりであった事もあり、少女の神々しい姿に思わず呟くと、脇腹から強い衝撃が走る。

 くるくると回転する視界。体が、吹っ飛んだ。そう気づいた頃には、飛ばされたハルの体は部屋の隅の本棚にぶつかった後だった。

「うぐっ……うッ!」

「ちょっとオーネット!?」

 私の元いたであろう場所を見ると、私を蹴り飛ばした犯人と思われるオーネットが、文字通り虫を見る様な目で、こちらを見ている。

「調子に乗るな!」

「ゲホッゲホッ……」

 調子になんて、乗ってない。そう口答えしたかった私の声は、込み上げた胃液を堪えるので精一杯だった。

「まだ脇腹の傷、完全には塞がってないんだから!いくらオーネットでも怒りますよ?」

「どうせ殺すのだから問題ないだろう、ノア。」

 オーネットがいるという事は、きっとこの優しそうな人も、四賢聖の一人なのか。

 状況をいち早く理解するべく、ハルは必死に体を起こそうとするが、両手両足が魔法の枷によって拘束され、起き上がることすらできない状況である事を悟る。

「何ですか、これ。」

 オーネットを睨む。だが、ハルの質問への答えは、当然ながら返ってこなかった。

「ようやく目を覚ました事だし、裁判を始めよう。」

「裁判…………?」

 拘束された身を捩って、何とか周囲を見渡す。漸くハルは、自身が連れてこられた部屋の全体像を理解する事ができた。

 部屋の中央には、金色に縁取られた重厚そうな机が置かれており、それを囲む様に、ソファが三つあった。

 ハルの最も近くには、ノアと呼ばれた精霊の様な少女とオーネットが。机を挟んで向こう側、奥のソファには、無表情のまま腕を組み、窓から外を見つめるセシリア。

 そして、もう一人。窓から一番近いソファには、誰かが寝転んでいるのだろうか。肘掛けの上に、細い脚がだらしなく組まれているのが見えた。

 四賢聖、勢揃いって事?そうなると状況は、目を覚ますよりも悪いと言っていい。

 冷静になれ、と自分に言い聞かせる。

「それでは、賢聖の名の下もとに、ハル=リースリングの処遇を決める裁判を行う。」

 裁判なんて雰囲気ではない。裁判官も弁護人もおらず、一人はソファの上で寝そべっているのだから。

 不当だ。その不当さこそが、グラソン魔法学園の四賢聖そのものの存在なのだろう。

 ハルの脳裏に、気を失う前の血生臭い光景が蘇る。きっとあの時と同じか、それ以上の事が、これから起こる。そんな、悪い予感。だが、両腕両足を動かせない状態では、どうすることもできない。

 オーネットが、右手を真一文字に切る。

「な、何!?うわっ!?」

 床や壁、座っていたソファや中央に置かれていた机までもが、突然ペンキで塗りつぶしたように真っ白に染まる。まるでそれは、異空間のような世界だった。

 驚いているのも束の間、ハルの拘束された体に、鉛色の太い鎖が四本、五本と巻きついていく。

「はなしてっ、ぐ、うっ!」

「何度見てもクロエの作る魔法は悪趣味だな。」

「これでも公序良俗に譲歩を重ねた結果さ。」

 寝そべったままの少女が、苦言を呈するオーネットに片手を振って見せる。ハルの位置から見えるのは、ツインテールに束ねられた、銀色の長い髪のみで、その表情は窺い知れなかった。

 ハルの体に巻きついた鎖は、左右それぞれ四本ずつ。蜘蛛の巣のように縛り上げる。そして、ハルの両腕を拘束していた魔法の枷が頭上へと上昇するのに従って、ギリギリと細い体を締め上げた。

「肩が、取れるっ……!」

 関節に走る痛みに、顔が歪む。思わずハルは、真正面で、尚も視線を逸らしたままのセシリアに叫んだ。

「私、本当に何も知らないんです!片目の色がおかしかった事も、数値の結果がおかしかった事も認めます!でも、それが何だって言うんです!?咎人って、何なんですか!?」

 必死に叫ぶハルであったが、返ってきたのはオーネットからの冷たい返答だった。

「貴様の発言は、賢聖の求めがない限り認めない。」

 オーネットが人差し指で鞘を叩くと、ハルの喉の奥が、雑巾を絞るように締め付けられ、一切の声を出す事ができなくなってしまった。

 このままでは、誤解を解けないまま。よくて退学、悪ければ死罪。

 必死の形相で何かを伝えようとするハルに、先程オーネットにノアと呼ばれていた藍色の髪の少女が、遠慮がちに発言した。

「この子はずっと”知らない”って言ってるんですよね?勿論、その言葉をそのまま信じる訳にもいかないけど……咎人がどんな存在なのかくらい、教えてあげてもいいんじゃないかしら?」

 オーネットが、眉をひそめる。何かを考えているような素振りだった。

「咎人を、本当に知らないと言うのか。」

 ハルは必死に首を縦に振る。

「咎人とは、世を混沌に貶める賊の事だ。だが、それだけでは一般の大罪人とさして変わらない。咎人には、ただの罪人とは一線を画する、決定的な違いがある。」

 オーネットが、鞘から銀色の剣を抜く。測定検査の際に持っていた片手剣とは違い、それは見るからに重たそうな大剣だった。鈍く光る刃は、空気すらも切り裂くほどの魔力を宿しているのだろう。ハルの鼻先に向けられた剣先は、ビリビリと空気を震わせた。

「決定的な違いとは、並外れた魔力量。そして、それをもたらす《悪魔との契約メフィストフェレス》の有無だ。歴史上確認された咎人は数人いるが、近年確認されているのは二人。」

 悪魔との契約なんて、当然ハルには聞き覚えのない言葉であった。

「一人目は、百五十名に及ぶ大量殺戮を行い、先日処刑された大罪人。二人目は、革命軍を率いる首謀者。そして、悪魔との契約を行った咎人には、力の対価となる代償の他に、顕著な外的変化がある。それが、貴様の左目。濃紺色に染まった、悪魔の印だ。」

「………………っ!!!」

「貴様が何を求めて、何の悪魔と契約したのかは知らない。だが一度契約すれば、例え最初は清廉潔白な目的であったとしても、時間の経過と共にその魂は蝕まれ、やがて他人の血や悲しみ、苦しみを渇望するようになる。それ故、このグラソン王国において、悪魔との契約は最大にして最悪の禁忌なのだ。」

 悪魔なんて、物語の中だけの話。そう口を挟みたくても、ハルの口は魚のように、はくはくと空気を吐くだけであった。

 すると、これまで押し黙っていたセシリアが、机の上に肘をつき、口を開く。

「あなたは入寮初日の夜、私と学園内で会ったでしょう。あの日、オーネットの話した咎人、大量虐殺者のミスト=シュナウザーが処刑された。」

 違う、私は、関係ない。

 セシリアの話の行き着く先に、焦燥が浮かぶ。

「その夜、私は学園内に悪魔の気配を感じて、急ぎ旅先から学園へと引き返したの。そして、悪魔の気配を辿ったら、校舎を見つめて立つ、あなたがいた。」

「――――――――っ!!!」

 ハルは、声にならない声を必死に上げ、「何かの間違えだ」と頭を振った。

 だが、セシリアは無表情のままだった。

「私はあなたの話の全てが嘘だとは思わない。でも、咎人の烙印とも言える左目の発現と、オーネットの攻撃魔法すら防いでしまう力。そして、400を越える魔力量。これらを知った上で、あなたを生かして帰す訳には行かない。」

 私は本当に知らない。何も、関係ない。

「それは、この世界の安寧を守る為でもあり、グラソン王国の為。」

 違う。何かの間違いなんだ。絶対に。

 ハルの心の叫びも虚しく、セシリアが続ける。

「私はハル=リースリングを、牢獄へ永久に封印すべきと考えます。」

 その冷ややかな声は、まさに絶零の魔女。ハルは言葉を発する意欲すらも失い、ぼろぼろと涙を溢して、俯いた。

 心のどこかで、「セシリアだけは、分かってくれるのではないか」と。そう思っていた。

 確かにセシリアは、入寮日の夜、ハルの命を奪いかけた。しかしそんな中でも、村人を蔑んだ発言に対する謝罪や、装置が異常値を示した際に、最初に装置の異常を疑った行動など、オーネットとは一線を画すような何かを、セシリアからは感じられていたのだ。

 しかし、セシリアの判断は、死ぬまでの投獄。

 家族や友人に会う事も叶わず、永遠とも思える時間を、寂寥の中、老いて死ぬという運命を強いるものだった。恐らく獄中に置かれた後も、ありもしない自身の罪を認め、知りもしない同胞の存在や咎人となった経緯を話すまでは、厳しい拷問に昼夜かけられる事は明白である。

 どうして。

 私はただ村を出て、この学園に入学しただけなのに、どうして。

 こんなことになるなら、私はずっとあの村で。お母さん、父さん。

 頬を伝った涙が、ぱたぱたと床を濡らす。

 涙で揺れる視界の向こうに、組んだ手の上に顎を置いたまま。視線を再び横へ向けたセシリアの姿が見えた。

「私はセシリアとは異なる意見だ。咎人の力は、時間と共に増幅する事が確認されている以上、ハル=リースリングは、即刻処刑すべきだ。何かあってからでは遅いだろう!」

 オーネットは、毅然とした表情で剣先をハルに向けたまま、セシリアに告げる。

「どうせ終身投獄するのであれば、今切り伏せても問題はないだろう?」

 淡々と述べるオーネットに対し、ノアがおずおずと片手をあげる。

「あの、この状況で言うと、私までオーネットに斬られそうだけど……私は、すぐに処罰を下すのには反対です。確かに、片目が染まってしまっていることも、測定器が異常な数値を示していることも事実。だけど、その二つが悪魔の契約によるものだという点まで事実とするのは、尚早なんじゃないかしら。」

「ここまで証拠が出揃っているのだぞ?」

「だけれど、もし事実が異なるものだったとしたら、取り返しがつかないわ。」

「それでも、だ。仮にここで見逃し、何百人、何千人もの人間の命が犠牲になれば、それこそ取り返しがつかない。そのためであれば、私は平気で命を天秤にかける。それは例え、そこで鎖に繋がれているのが、私自身であったとしてもだ。」

 本心からの言葉なのだろう。オーネットの茶色の瞳は、燃えるように深い赤茶色に染まっていた。

「むしろ、このハルという少女には、自らの危うさを自覚し、自害を求める程にも感じている。彼女の死には大義がある!」

 強く、真っ直ぐな瞳でオーネットは断言すると、ハルの首元の皮膚に触れそうなほど、その刃を突きつけた。

 自害しろ。

 容赦なく言い放たれた、オーネットの言葉。そして、突きつけられた剣に反射して映る、自らの醜く染まった左目。

 本当に自分は、彼女らの言うように、悪魔との契約をしてしまったのだろうか。

 もし、それが事実なのだとしたら。なぜ、オーネットの攻撃魔法を受けても尚、私は五体満足のままなのか。あの装置の数字。闇に染まった左目の理由。セシリアの言う通り、全て説明がついてしまう。

 悪魔や契約に関して、思い当たる事など一つもない。だがもしも、四賢聖の話が本当なのであれば、自分はいずれ悪魔に魂を食われ、先日処刑されたという咎人《ミスト=シュナウザー》と同様に、多くの罪なき命を奪い、償っても償いきれない程の悲しみを、産む事になる。

 それも、オーネットの言う通りだった。

 部屋には沈黙が流れ、重苦しい空気が張り詰める。緊張を破ったのは、部屋の空気とは対照的な、子どものような声だった。

「私も処刑に大賛成。よくわかんないけど、面白そうだから処刑してみようよ。セシリアの新しい一面が見れるかも。」

 面白そうだから?

 首元にオーネットの剣を突きつけられたまま、ハルが声の主の方へ視線を向ける。そこには、寝転んでいた少女があぐらをかき、愉快げな表情を浮かべていた。まるで、新しい玩具を買ってもらった少女のように。

「クロエ。いい加減、賢聖としての自覚を持て。」

 オーネットが、少女を睨む。

 だが、クロエと呼ばれた少女はオーネットの威圧に構う事なく、真っ赤に輝く瞳を細めると、見定める様な目でハルを見た。

「フンフンフフン〜」

 鼻歌と、十歳の少女の様に無垢な笑顔。クロエは今度はセシリアに向かって、挑発するように問いかけた。

「と、いうわけだからさ。処刑賛成が二人、投獄希望が一人、執行猶予希望が一人。多数決で処刑に決定だね!」

 クロエは、耳を塞ぎたくなるような高い声で笑うと、瞬きする間に、セシリアの座るソファの背に腰掛ける。まるで、サーカスの道化のような身のこなしだった。

「ねぇねぇ、セシリア!」

 クロエが、悪戯っ子の様に口の端を吊り上げる。セシリアの顎に指を添え、鼻と鼻が触れ合う距離に、顔を寄せた。

「セシリア、この子のこと気になってるんでしょ?いいの?このままだと、殺されちゃうよ?」

 煽るようなクロエの言葉。だがセシリアは、少しも表情を変えることはなかった。

「言葉に気をつけなさい。私が一人の人間に、私情を抱くことはない。」

 セシリアは添えられたクロエの手を払うと、顔面を蒼白とさせながら俯くハルに向かって、口を開く。

 それは、先ほどの言葉の通り、一切の感情も存在しない、氷のように冷酷で、機械のように無機質な声。

「ハル=リースリングを、明後日の朝に行う判決の上、無期限の投獄に課す。尚、投獄中の尋問の結果に応じては、直ちに死罪に処す。」

 言葉が、頭に入ってこない。まるで脳が理解することを拒否しているようだった。

 鼓膜を揺らす振動。現実が、遠くなっていく。ハルの小さな胸に、驚愕と絶望が濁ったような醜い泥が、際限なく押し寄せた。

 助けて。誰か。

 最後まで声を発する事は叶わず、ただ目の前の現実に、涙を流しながら。

 出会ったことも無い神へ、ハルはひたすら祈るのであった。



* * *


 

 一方的な蹂躙とも言える裁判の翌日、ハルは馬車に揺られ、山道を登っていた。


 グラソン王国では、裁判は二種類ある。

 決闘等によって当事者間で解決する方法と、第三者として裁判官が参加した上で、刑を確定させる方法。

 後者の場合には、判決が被告へ言い渡すまで、数日を要する。それは、囚人を迎え入れる施設側の準備期間としての役割もあるが、判決の確実性を高める為でもあった。

 しかしグラソン魔法学園は実質、治外法権。ハルの場合は、四賢聖によって既に判決が下されているようなものである。

 永久投獄、あるいは死罪。その判決が覆る可能性は、限りなく無いに等しい。

 そのため、ハルを乗せた馬車による旅路は、当然ながら、罪からの解放ではなかった。

 ハルの青白い両腕と両脚に嵌められた、屈強な魔法で作られた枷。首にもまた、労働奴隷かのごとく、魔法によって作られた青白い首輪が嵌はめられ、そこから伸びる鎖は、斜め向かいに憮然として座る蒼髪の騎士、セシリアに握られているのであった。


 馬車の中の重苦しい空気とは反対に、外の移りゆく景色は春らしく、風は冷たいものの、暖かい陽気に包まれている。

 草花はその生を喜ぶかの様に皮肉なまでに咲き乱れ、遠い大空を鳥が羽ばたいていった。

 あまりに奔放で、今置かれている状況とは正反対な景色。枯れるほど流したはずの涙が、またハルの頰を濡らした。

「……………………。」

「……………………。」

 沈黙を乗せた馬車は、軽快な蹄の音を森中に響かせながら、緩やかな山道を登っていく。

 セシリアとハルを乗せた馬車は、ハルが僅か一週間前に出立したばかりの故郷、セモール村へと向かっていた。

 当然これは、刑の一貫等では無い。

 四賢聖による理不尽な裁判の後、投獄されたハルが、「一度で良いから、両親に別れを言わせて欲しい。それさえ叶えてくれれば、何でも話す」と、泣いて看守や四賢聖に縋った結果、実現したものであった。

 だが、ハル自身に身に覚えのある事など、何一つとして無かった。何でも話すというのはその場凌ぎの嘘に過ぎず、何も話す事ができないのは、目に見えている。

 両親への挨拶が終われば、嘘だという事なんて、すぐに看破されるだろう。あるいは、口を割らないものとして、何十年も続く拷問が待っているのか。

 いずれにしろ、待っているのは死よりも苦しい無限の苦痛である。

 また、両親への最後の挨拶は許されたものの、野放しというわけではない。

 当然ながらこの旅路には、多くの制約を課せられていた。


①四賢聖の剣の届く距離から出ない事

②両親以外の人間とは会話をしない事

③両親との会話は半刻以内とする事


そして、四つ目。

 

『永久投獄となる旨は公示済みのため、報告しても問題は無い。但し、叛逆と取れる行動が見られた場合には、即座に両親共、死罪とする事』


 上記に違反した場合には、当然セシリアがハルの命を奪うことになる。

 このような制約の上で、一体何を語らうというのか。セシリアを初め、ノアを除く四賢聖の三名は甚だ疑問であったが、ハルはその条件に涙を流して飛びついた。


 馬車の中、地面を蹴る蹄の音と、ハルが鼻を啜る音だけが響いた。そうしてセモール村に到着したのは、出発から半日。正午を過ぎた頃だった。

 そこは、グラソン王国でも、首都から遥か西に位置する小さな村。

 セシリアがハルの手の甲に触れると、ハルの両腕、両脚、首に嵌められていた魔法の枷が、空気に溶けるように、姿を消した。

「…………てっきり、村の中でも拘束したままなのかと思っていました。」

「最後の別れを不必要に邪魔する程、悪趣味ではない。それに枷なんて無くても、あなたの命は一瞬で奪える。」

「…………そうですか。」

 再び、沈黙が続く。ハルは馬車から降りると、なるべく人と会わない様にフードを深くかぶり、村の入り口から裏道を通って、家のある方角へ向かった。

 どうか、誰にも会いませんように。

 迷うことなく進むハルのすぐ後ろを、セシリアが続く。

 ――――両親以外の人間と、会話をしない。

 その条件の元、無用な問題は避けたかった。知り合いに会わないように。そう祈るハルであったが、どうやら神は、悉くハルを見捨てたらしい。

「お!ハルじゃん!」

 裏道を抜けた先、あと一回曲がれば生家に辿り着ける。そんな場所で、枝でチャンバラをしていた少女と少年が、ハルに気づいた。

「本当だハルだ!あれ、学校はお休み?」

「ちげーよ!ぜってぇハルの事だから、サボって来たんだよ!」

「えーそうなの?でも、ハルと会えて嬉しい!」

 少女が甘えたように、ハルの右腕に腕を絡ませる。

 もう一人の少年も、口では悪態をついてはいるものの、ハルに会えた喜びを隠せない様子なのは、同じであった。

「ま、まあハルがいなくなってから、新しい遊び考える奴もいねーし、暇だったんだよな。」

 この十二歳程の少年と少女は、ハルの近所に住んでいる子どもだった。よく魚の取り方や、近くにある洞窟の地図などを教えては、本当の兄妹の様に遊んでいた子ども達。

 少女はいつもハルのすぐ後ろを付いて回っては、ハルの真似ばかりをし、少年はハルにカッコいい所を見せようと無茶をしては、町の大人達に叱られていた。

 離れていたのは、僅か七日間程。

 それなのに、その間にハルの身に起きた出来事の凄惨さと、そんなこととは無縁な二人の穏やかな表情。その懐かしさに、思わずハルの瞳から涙がこぼれ落ち、言葉が漏れる。

「オルタ……アレン…………っ」

 しかし、両親以外と言葉を交わすのはルール違反。破れば、ハルの首は一瞬で刎ねられることになる。ハルに思い出させるように、セシリアの魔法によって、ハルの靴に冷たい霜が這う。

「………………っ」

 一気に現実に引き戻されたハルは、目を瞑ると俯き、押し黙った。

「ハル、どうしたんだ?」

「どっか具合悪いの?後ろの人は、ハルの知り合い?」

 久しく触れていなかったと感じる。純粋に、自分の身を案じてくれる言葉。

 ハルの胸は一層締め付けられ、すでに決まった未来を想像しては、どうしようもなくまた、涙が溢れ出した。

 どうにも言葉を発せず、だからといって、この場を動くこともできず。

 固まってしまったハルに助け舟を出したのは、意外にもセシリアであった。

「私の名前はセシリア。ハルさんと同じ学校に通っているの。実は私たち、ちょっと会いたい人がいてね。またすぐに戻らなくてはいけない。ハルの家に向かわせて貰ってもいい?」

 セシリアは、美貌を生かした完璧な笑顔を浮かべると、狼狽する子供たちの答えを聞かずに、ハルの手を取る。

「そこを左でいいの?」

 黙ったまま、ハルは頷いた。

 しばらく歩くと、『リースリング』という古びた立て札がかけられた、木造の小さな家屋が見えてくる。

「…………さっきは、ぐすっ、ありがとうございました。」

「勘違いしないで。両親に合わせるのが今の私の使命だから、ああしただけ。」

「…………それでも、ありがとうございました。」

 繋いでいたセシリアの手を、ハルが離す。

「私が一生投獄されるって話、すでに両親が知っていたりしないですよね。」

「それは無いに等しい。咎人である旨は伏せているから、公示上は罪人の投獄。この村のあなたの知り合いが、たまたま首都の酒場かどこかで公示を目にしない限りは、考えられない。」

「…………そうですか。」

 セシリアの回答が、ハルにとって嬉しいものであったのかどうか、セシリアには分からなかった。

 僅かな静寂の後、ハルはふっと息を吐くと、意を決した様にセシリアを見る。

「セシリア様。私、うまく笑えていますかね?」

 セシリアを見上げるハルの目は、馬車の中で泣き続け、村の子供を前に、一歩も動けなくなっていた人物と同一人物とは思えなかった。覚悟を持った、強い目。その桃色の瞳には、澄んだ空の様に、穏やかな静けさだけが、横たわっていた。

「…………どうかしら。」

 セシリアは、緑の羽のような瞳に、ハルの顔を映す。そして指の腹で、ハルの赤くなった鼻の頭に触れた。

「ブラン・ボナートス」

 それは、ハルの知るどの魔法よりも、優しい魔法だった。ハルの体を穏やかな白い光が包み、柔らかく消えていく。まるで、花束の中にいるように。温かくって、心地よい。

「今のは……?」

「目が真っ赤で不気味だったから。さあ、もう準備は済んだでしょう。さっさと済ませなさい。」

「…………ありがとうございます。」

 セシリアの言葉に、ハルは両手を胸の前で一度、強く握った。

 これが、最後の別れになる。正真正銘、十六年間毎日生活を共にし、一人では何もできなかった私に、この世界の全てを教えてくれた、両親との別れ。

 果たして私は、いくつの親孝行ができたのだろうか。もっと、伝えるべき言葉があったのでは無いだろうか。

 やりきれない思いや後悔は全て、一晩過ごした牢獄と、あの馬車の中に置いてきたつもりであった。

 だが、いざ両親の暮らす家を目の前にすると、様々な感情が蘇る。

 しかし、今のハルに出来る事は、この僅かな時間で、両親へ精一杯の愛を伝えること。

 ハルは、決心した。そして、あの日開いた扉のノブに、手を伸ばした。



* * *


 

 木漏れ日が溢れる森の中、セシリアは馬車に揺られ、目の前で啜り泣く少女の声を聞いていた。

 ――この少女の人生は、事実上、明日で終わるだろう。

 同情しそうなほど、悲劇的な状況である。それでもセシリアは、何の感情も抱かない。抱いていないと、感じていた。

 彼女に執行される刑罰は、現状確認されている事実や民衆の命、リスクを天秤にかけた上で考えると、疑いようのないほど、最善の判断である。

 オーネットの言葉を借りれば、この決断には、大義がある。この一点に関して、セシリアは自身が下した判断を一切後悔していない。

 しかしながら、セシリアの心には、初めて感じる引っ掛かりを感じていた。

 それは、この無力な少女が本当に咎人なのかという本質的な疑問もあったが、それ以上に、他の生徒と違う振る舞いを、ハルの行動の節々に感じていたことが理由であった。

 この少女になら、私が壊せなかった”檻”を、壊す事が出来るのだろうか。

 しかし、その違和感は、真っ暗な洞窟で灯した一本のろうそくの様に、一息で暗闇に呑まれるほど小さく、曖昧なものであった。

 また、セシリア=セントリンゼルトは、不確かな事実、それも個人的な私情によって判断を間違える程、俗人的な価値観は持ち合わせていない。

 両親の前で、一体何を話すつもりなのかしら。

 セシリアは鮮緑色の瞳の端に、うな垂れ、微かに震える少女を映す。

 彼女が両親に対して並々ならぬ愛情を抱いている事は、必死の形相で泣いて縋るハルの表情から、感じ取っていた。今生の別れをするのであれば、身の上の話――明日、その命が裁かれる事を伝え、やり場のない悲しみや無力さを分かち合う場になる事だろう。

 四賢聖がハルの最後の旅路を許可したのには、いくつかの理由がある。その一つが、両親と面会した際のハルの発言や行動から、同胞の者を炙り出すためであった。もし、ハルの両親が咎人である場合には、迷わず切り捨てる必要がある。

 それは、例え咎人で無かったとしても。例えば、ハルの投獄を止めようと武力行為に走ったり、その兆候を少しでも見せた場合も、同様である。

 今日は何人殺すのかな。

 外で流れる景色に、再びを視線を移す。その頃には、先程まで感じていた心の引っかかりは、一分の隙なく形作られた正義によって跡形もなく消し去られていた。



* * *


 

 ハルは扉の前に進むと、緊張した面持ちで、ドアノブに手をかける。

 鍵はかけられていなかった。ハルは息を呑んで、開いた扉から、一歩。中へ踏み込む。

 見知った棚。無造作に置かれた、父の仕事用具。家族の写真。そして、懐かしい香りがした。

 玄関を抜けると、すぐに見えた。ずっと心に思い浮かべ、会いたいと願っていた二人が。二人も、驚きの表情を浮かべて、ハルの方を見つめている。

「た、ただいまっ、お母さん、お父さん……!」

 ハルの震えた声に、父と母が、持っていたフライパンやカップを置く。

 真っ先にハルの元へと駆け寄ったのは、父だった。

「ハル!?どうしたんだ!?学校は!?」

 突然の我が子の帰還。母と父の表情には、再会の歓びよりも、何かハルの身に不測の事態があったのではないかという心配の方が、圧倒的に強かった。

 心配そうな二人の表情に、ハルは思わず言葉を詰まらす。

「……ハル、どうしたの?何があったの?」

 母がそっとハルの前髪に触れた。良く見知った桃色の瞳が、見上げるようにこちらを見る。押し黙る娘の姿に、父は困ったような顔で、ハルの背中に腕を回した。

 話す事は、いくつも考えてきた。

 一連の出来事を打ち明け、どうすれば良いのかと泣きつけば、助けてくれるかもしれない。そう考えた事は、一度や二度では無い。

 だけど。確信があった。

 ハルが助けてくれと縋れば、この心優しい人達は、身を呈して、ハルを守ろうとしてくれるだろう。それこそ、命も顧かえりみない程に。

 それは間違いなく、ハルの望む所では無かった。

「私っ………………。」

 久しぶりの、無条件に受け入れられる優しさ。視界がまた、滲みそうになる。

 私は、本当に泣き虫だ。どうにか自分を客観視して、堪える。

 ここで泣いてしまったら、先程の子供達の様には誤魔化せない。なぜなら、十六年の間ずっとハルを見てきた人達なのだ。ただでさえ、突然の帰宅。ただ事ではない事が起きている事は、容易に感じ取られてしまうだろう。

 だけど。

 何度も考えてきたはずの感謝の言葉は、どうしても胸でつっかえて、ただ唇を震わせるだけだった。

 二分、三分と黙り続ける娘に、父と母は優しく声をかけた。

「お腹減ってない?あなたが好きなハツカ芋のスープとパンがあるわよ?」

「何はともあれ、無事にまたハルの顔が見れて安心したよ。」

 やめて、二人とも。これ以上、優しくしないで。

 無事にまた。父のその一言が、ハルの胸を一層引き裂き、無情な現実、逃げられない未来を、ハルに突きつけた。

 私、やっぱりこの人達と、もっと一緒に居たい。

 しかし、その想いは叶わない。

 自分のせいで、この人達を悲しませたくない。

 きっとその願いも、叶わない。

 それならどうか、私の事なんて忘れて、いつまでも健やかでいて欲しい。

 それが、ハルの最後の願いだった。

 胸が張り裂けるほど切実な、唯一の願い。それを叶える為、ふーっと、ハルは大きく息を吐いた。

「お父さん、お母さん。」

 父と母の目を、ゆっくりと交互に見つめる。

「実は、大事な話があって、帰って来たの。」

 やっと口を開いた娘の言葉に、二人は一言も聞き逃すまいと、真剣な表情でハルの次の言葉を待つ。

 少し後ろに立つセシリアも、ハルの言葉を聞いていた。

「私、グラソン魔法学園に入学して、本当に色んな事があったの…………ここでは語り尽くせないくらい、色んな事が。」

 父と母は、黙って頷いた。

「それで、ね。驚いたり怒ったり、悲しんだりせずに、聞いて欲しいの。」

 セシリアが、両親の不測の反応に備え、右手をレイピアに添える。左手は、いつでも三人の首を刎ねられるよう、目には見えない魔力が渦巻いていた。

 しかし、ハルの口から出た言葉も、その声も。全てが、セシリアの予想を裏切るものであった。

「私ね。魔法を使って、どうしてもやりたい事が見つかったの。」

 疑いようも無いくらいに闊達とした。少女の声だった。

「それは、普通に頑張るだけじゃ出来ない事で……だから、あのね。しばらく、家へは帰れないかもしれない……ううん。もう、いつ帰れるのかも分からないくらい、どうしてもやりたい事があるの。」

 ハルはそれだけ言うと、父と母の手を片手ずつ握り、ひと呼吸する。そして、満面の笑みを浮かべた。

「だから、しばらくお別れ!きっと今度会う時は、伝説の賢者になってるから!……それだけ、伝えにきたかったの。」

 その笑顔は、先程までの重苦しさも、弱々しさも、一切感じさせない程、純粋で。真っ直ぐな表情だった。

 突然の娘の告白に、母は一瞬唖然としながらも、ハルの手を両手で強く、握り返す。

「それは、本当なの…………?」

 ハルは母の目を見つめ、しっかりと頷いた。

「うん。もう、決めたんだ。」

 父が、ハルの頭に無骨な掌を置く。その表情には、困惑が見え隠れしていた。

「本当に、お前のやりたい事なんだな?学校では……ちゃんと元気でやれているんだな?」

 痛い。固まりきらないかさぶたを強引に剥がされたように、ヒリヒリとした痛みが、ハルの胸を締め付けた。

 父と母の不安げな表情が、痩せ我慢を積み上げたハルの薄っぺらい心に突き刺さる。しかし、それはハルが、散々自らに生きる意味を問い、導き出した決意に比べれば、大した痛みではなかった。

「………うん。だから、心配しないで。」

 怖くないわけがなかった。

 だが、心からの言葉だった。心配しないでほしい。そして、出来るならどうか、私の事は忘れてほしい。

 それが、どれほど自分勝手で無理な願いなのか。二人の愛をその身に受けて育ったハルは、誰よりも分かってしまう。

「二人とも、ずっと健康でいてね。誰よりも、長生きして。」

 ハルは、両親からそっと手を離す。

 自分のできる、最高の笑顔。あなた達の元に生まれ、これまで味わった様々な幸福を感じさせる、精一杯の笑顔で、最後の別れを告げる。

「それじゃ、もう行くね!」

 ハルは振り向くと、入り口に立つセシリアの方へ進む。これ以上、二人の顔を見ていることに、耐えられなかった。

 一晩の間で取り繕った十六歳の少女の心は、限界を越えて。堰を切ったように、涙が溢れ出す。

 背後から、父の声が呼び止める。

「ハル、待ってくれ。後ろにいるその人は誰なんだ?」

 ハルはセシリアの隣で足を止めると、振り返らないまま、答えた。

「この方は、セシリア=セントリンゼルト様。グラソン魔法学園の先輩で、とっても偉大な方なんだよ。」

 ハルの発言に、セシリアはほんの少し目を見開くと、ハルの父に向かって軽く会釈をした。偉大だなんて、この状況でよく言えるものだ。そう、感心したためだった。

 ハルの言葉に、これまで涙を啜っていた父が突然、床に膝を付いた。両手を前に着けて、頭を床に擦りつける。

「セシリア=セントリンゼルト様ぁ!この娘、ハルは自由奔放で頑固な所がありますが、十六年間、優しさだけを教え、大切に大切に育てて参りました!!!」

 土下座の姿勢のまま、父はセシリアに向かって叫び続ける。

「魔法が殆ど使えない私たちのもとで、人一倍努力をし、誰よりも心優しく、強い子に育ちました!そして娘は今、私や妻では、共に歩けない道を進もうとしています!どうか、身勝手なお願いなのは重々承知ですが、どうかこの、私達の命よりも惜しい我が子を!!!お護りください!!!」

 普段はふざけてばかりいる父の、聞いたことも無い力強い声が、ハルの背中を打つ。

 セシリアはハルを一瞥すると、額を頭に擦り付けて嘆願するハルの父を、真っ直ぐと見据えた。

「その願い、確かに聞き受けました。必ずや、ハル=リースリングが正しき道を歩ける様、この身を捧げます。――――行こう。」

 セシリアに手を引かれ、ハルは静かに生家を後にした。

 二人が立ち去り、扉が閉まる。

 静かになった部屋。それでもハルの父はいつまでも、床に頭をつけていた。

 我が子の無事を、ただ祈り続けて。



* * *



 家を出ると、セシリアはハルの腕を掴んだまま、木材置き場となっている空き地を見つけ、ハルを引き入れる。

 そこは、セシリアとハルの他に誰もいない、静かな場所だった。

「あううううっ」

 ハルは、糸の切れた人形の様にしゃがみ込むと、爪の隙間に土が入ることも構わず、地面を何度も何度も引っ掻いた。やり場のない悲しみ、後悔、恐怖、寂しさ。その全てが、ハルを突き動かしていた。

 それは、少女の中で堪えていた全てが、決壊した瞬間だった。

「うううぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 溢れ出す涙。どんなに涙を流しても巻き戻せない時間と、変えられない現実。先ほどの凛々しい姿が嘘のように、ハルは蹲ると、赤子のように泣き叫び、肩を震わせた。

 このまま、涙で溺れて死んでしまえたらいいのに。

 だが、今のハルには、自死を選ぶことすら許されてはいない。

「馬車へ戻るよ。」

 全てが、終わった。

 ハルの中にはもう、何も残されていなかった。ただ魂が抜けた人形の様に、項垂れたまま、セシリアの後ろを歩くだけ。

「あなたの投獄と尋問は、明日からオーネットが行う。知っている事は、早めに全部、オーネットに話しなさい。それが一番苦しまないで済む。」

 前を歩くセシリアの言葉は、希望を全て失ったハルの耳には、何一つとして入っては来なかった。

「乗って。」

 セシリアが右手をハルにかざすと、行きの際と同様の魔法の枷がハルの両腕、両足、首を拘束した。

 馬車が走り出すと、徐々に空が夕焼け色に染まる。塗装された道は、徐々に小石の多い土道に変わった。

 丁度、そんな頃だった。魂の抜けた廃人のように外を眺めるハルに、セシリアが口を開いた。

「なぜ両親へ本当の事を打ち明けなかったの?」

「………………。」

 俯くハルはまるで、何十歳も年老いたかのようだった。肌に血色はなく、美しかった桃色の瞳は、輝きを失って、暗く沈んでいる。

 窓にもたれかかるハルに、セシリアの声は届いていないのだろうか。ハルからの答えはなかった。

「答えたくないならいい。意味のない質問だから。」

 セシリアはそう言って、視線を再び外に向ける。

 カラカラと車輪の回る音。リズミカルに地面を叩く蹄。セシリアの問いかけから、しばらく経ってから、ハルの掠れた声が聞こえた。

「…………私にできる事は、それだけだったから。」

 車輪の音にかき消されそうな程、か細い声だった。

「このまま私が投獄されて死ねば、きっとお父さんやお母さんは、私を学園に送った事を、後悔する……。もうあの人達から、何も奪いたくない。それに、もしも本当に私が、あなた達のいう咎人なのだとしたら」

 ポツポツと語る声は、弱々しい。とてもオーネットの魔法を跳ね返した人物と同じ人物とは、思えなかった。

「……逃げる事が正しいことなのかも、私にはわからない。」

 ハルが永久に投獄され、拷問されると知れば、心優しい両親は自分達を責め続けるだろう。

 そして、もしかしたら学園や、その決定を下した賢聖を恨み、憎み、誤った行動を起こしてしまうかもしれない。

 何より、例え牢獄から何らかの方法で逃げ延びたとしても、左目の悪魔の印や異常な力を持ってしまっている事が事実である以上、自らが咎人でないという確信も、今後その力で絶対に誰も傷つけないという自信も、摩耗したハルの心には、持ち合わせていなかった。

「後悔はしてない。でも…………」

 ハルの細い喉が、何かを飲み込むように、小さく動いた。

「…………オーネットの拷問って、痛そうだな。」

 精根尽き果てた表情で、ハルはセシリアに、微かに笑いかけるのだった。

 セシリアはハルの弱々しい笑みから目を背ける様に、窓の外を見る。

 ハルも、セシリアに答えなんて、期待していなかった。

 窓の外では、一定の速度でただ、木々が後方へと流れていく。再び訪れる、重苦しい沈黙。

 あとどれほどで、学園に着いてしまうのだろうか。このままずっと、馬車に揺られていられたらいいのに。

 いっそ、この命が尽きるまで……。

 悪路を進む馬車が、小石を蹴った。車体ががくんと飛び上がる。ハルの頭が、馬車の窓枠にぶつかって、コツンと、間抜けな音を立てた。その時だった。

 全てをかき消すような轟音が、馬車を飲み込むように響き渡る。

「な、何!?」

 爆発だろうか。

 強い振動と、地割れの様な音。馬が暴れ出し、何とか道の脇に馬車が急停車をする。

「何が起きたの?」

 セシリアが馬車を降りると、馬を操っていた従者が、慌てた様子で振り向いた。

「セシリア様っ!後方より、かなりの黒煙が上がっています!それに、大きな飛行型の獣が……!」

「後方……後方って、セモール村!?」

 従者の声に、ハルが慌てて立ち上がろうとする。だが手足にかけられた拘束魔法によって叶わず、座席の上で転倒し、転がった。

 セシリアは、ハルの首につけていた拘束魔法を消し去ると、遥か後方を睨む。

 確かにそこには、無数の黒煙が上がっているのが見えるが、村なのか森なのか。この距離では、判然としない。

「様子を見てくる。貴方は罪人を乗せて、学園まで行って。到着次第、オーネットに身柄を引き渡す様に。」

「ちょっと待って下さいっ!」

 ハルは転げ落ちるように馬車から降りると、セシリアの足元に這いつくばった。

「お願い、私も連れて行って!あの村は、お年寄りや小さい子どもたちばかりなの……お願いします……!」

「却下するわ。貴方にその自由は認められていない。」

 ハルを、一瞥する事もなかった。後方では、今も爆音が轟き、空気が揺れた。

「大人しく馬車に乗りなさい。」

 セシリアが、右手で魔力を放つ。手の平から無数に伸びる青い光は、地面に横たわるハルの首に絡みつくと、その体を持ち上げた。

「ぐっ………!!!」

「あなたにこうして時間を使っている間にも、誰かの命が犠牲になっているかもしれない。それは、貴方にもわかるはず。」

 魔力による首の締め付けが、一層力を増す。ハルは、拘束されたままの腕で何とか解こうともがくが、その指はただ、青い光をすり抜けるばかりで。触れる事すらできなかった。

「ぐ、ぁ…………!」

 息ができない。頭に、血が巡らない。

 徐々に、指先の感覚が失われていく。

 それでも。割れる程の頭痛の中、ハルは必死に声を絞り出す。

「もし、このまま私を、馬車で送り返するのなら……私は、そこの従者の命を、奪いますっ……!」

 もちろんそんな事をするつもりなんて、ハルには毛頭ない。だがハルの言葉に、セシリアの瞳は鋭さを増した。

 セシリアの姿が、ハルの目前から一瞬で消える――少なくとも、ハルからはその様に見えた――だが、直後にはハルの背後に立ち、その右手を、ハルの胸に押し当てる。

「えっ…………あがっ!?」

 心臓を直接握りしめられたかの様に鋭利な痛みが、ハルの胸部を突き刺す。

「私を脅すつもり?そんなに死にたいのかしら。」

 セシリアの手が、ハルの肋の骨をなぞる。

「ぐ、うっ……!?」

 まるでナイフをゆっくりと体内に埋め込むような激痛。痛みで思わず呼吸が止まる。

「肋を三本砕いた。次はどこがいい?折った骨を、肺に突き刺してもいい。それとも、大腿骨を割って馬車に引き摺られて帰る?」

 セシリアの指が、ハルの太ももの付け根をなぞる。

 セシリアは、本気だ。冷え切った瞳に、ハルはそう確信する。

 だが、ハルの心は折れなかった。気を抜けば、すぐにでも意識を失いそうな痛みが、全身を駆け巡る。それでも、と。セシリアの冷たい瞳を、ハルは睨み返した。

「私を連れて行かないのなら、従者を、殺すっ……!」

 ハルの様子に、セシリアは不思議そうな表情を浮かべた。肋骨を粉砕しているのだ。呼吸する度に、相当な激痛が走っているはず。気絶していても、おかしくはない。これも、咎人であることが関わっているのだろうか。

 セシリアは僅かばかり無言で思案すると、ハルから手を離した。

 同時に、ハルの首を締め上げていた魔法も解け、地面に落とされるたハルが、呻き声を漏らす。

「……本当に面倒ね。いいわ、貴方を連れていく。ただし、少しでも妙な真似をすれば、あのドラゴン諸共、貴方の手足も捥ぐ。」

「あ、ありがとうございま……………え、ドラゴン……?」

 セシリアが手を振ると、胸部と背中に走っていたハルの激痛が、嘘のように和らいだ。同時に、ハルの両腕と両足を拘束していた魔法も消える。

「飛行型魔獣という情報と、この轟音。それに、私ですら接近に気が付けなかった。そんな魔獣は、ドラゴンくらいでしょ。」

 ドラゴン。それは、伝説や神話の中だけの生き物だと、ハルの村では信じられていた。

 お祭りの神具やモニュメントとして、ドラゴンのモチーフを使用する事はあっても、その生態は、雲の上に住んで世界を守る神の遣いとも、あるいは、遠い北の国で永きに渡り封印された、悪の存在とも言われていた。

 しかしセシリアは、その存在が今、ハルの生まれ育った村に襲い掛かっていると言うのである。

「ドラゴンなんて、伝説上の魔獣じゃないんですか?」

「確かに、伝説と言われてもおかしくない程の力を持っているけど、その存在は事実よ。ドラゴンは極寒の気候を好む魔獣で、魔力の源は魔鉱石。通常であれば、北の国境付近の山脈地帯や、雲の上にしか生息しない。」

 その生態を聞く限り、やはり伝説のような魔獣としか思えない。

「もちろん、稀に地上に降りてくる個体もいるけれど、首都には頑丈な結界が張り巡らされているし、地上に降り立つ前に、高等魔法師によって、元の住処へ追い返される。だから、普通の人間が目にする事はない。」

「それじゃあ、一体どうして…………。」

 セシリアが、小脇に抱えるようにして、ハルの体を抱えた。

「考えられるのは、ドラゴンを呼び寄せる術を使った者がいるか。もしくは、高等魔法士の探索魔法を掻い潜るくらいの力を持った個体か。まぁ、見ればわかるでしょう。」

 セシリアが、軽く地面を蹴る。僅かに体が浮いた。と、思った時だった。

「ひいいいぃ!?」

 頭が取れそうな程の重力と風圧が、全身を襲う。先程まで乗っていた馬車は、一瞬にして爪の先程の小ささに縮んで、それが、セシリアのジャンプによって空を飛んでいる為だと気付いた頃には、あまりの高さにセシリアにしがみついていた。

「セシリア様!これ、死にます!明日を待たずして、死んじゃいますって!!!」

「黙ってないと舌噛むわよ。」

「もう噛んでます〜〜〜〜!!!」

 やばい。意識が飛ぶ。それに、この高さからどうやって着地するつもりなのか。

 ぐんぐんと、懐かしき地表が近づいた。

 黒煙が上がっている場所。それは、セモール村の神木が祀られている場所の、すぐ側の民家であった。地面に落ちるまで、残り数秒もないだろう。

 屋根が見える。原っぱに咲く花も、解像度を増して。落ちる。死ぬ。死ぬ。ああ、もうダメかも。

 瞬間、セシリアは掌を地面に向けると、呪文を唱える。

「ニアスルス」

 落下先の地面が光り輝き、セシリアとハルに向けて、大量の水柱が上がる。それはまるで、セシリアとハルを包みこむように球体を作ると、地面への落下速度が一瞬にして和らいだ。

「すごい…………。」

 あの距離を、一瞬で。

 第一位の実力は、何度もその身で味わってきたハルであったが、思わず感嘆の声を漏らす。しかし、目の前で黒煙を上げる民家を前に、すぐに我に返った。

「みんなっ!村の人は!?」

 駆け出そうとしたハルの腕を、セシリアが掴む。

「両親以外との会話は認められていない。それに、今最優先で対応すべきなのはあれ。」

 セシリアが、自分達が飛んで来た方向とは、反対側の空を指さす。それは、まるで大空を支配するかのように、大きく弧を描き、高速で旋回する影。

「あれが、ドラゴン…………。」

 ハルとセシリアが立つ場所からは、大分距離があった。禍々しい赤胴色の鱗に、皮膚を隙間なく覆われ、その身体の倍はあるであろう翼をゆっくりと羽ばたかせる。それは、伝承の本に描かれたドラゴンを何倍もの大きさにした魔獣の姿であった。

「あの大きさと、翼や尻尾の変色。それに、角の数……高等魔法師の監視を潜り抜けたようね。」

 ドラゴンは獲物を選ぶように旋回すると、山が割れるほどの声で咆哮した。そして、セシリアとハルの存在に気がつくと、一直線に飛び掛かる。

「ドラゴンが人や村を襲うのは、決まって魔力の高い人間を捕食する為。狙いはきっと私か貴方だけど――今回は、私のようね。」

 セシリアが、ドラゴンに向かって両手をかざす。

「私の後ろから、一歩も動かないで――グレース・ピア!!!」

 セシリアの前に青い魔法陣が出現し、そこから無数の細い氷の刃が、高速で放たれる。

 刃は翼や首、胴や腕などに無数に突き刺さるが、真っ直ぐに我々を狙うドラゴンが、スピードを落とす気配は無い。

「グランシェル!!!」

 更にセシリアが叫ぶ。ドラゴンに突き刺さっていた刃から氷が花のように開き、ドラゴンの半身を氷漬けにするように覆い尽くす。片方の翼が凍りついたためか、ドラゴンは速度を落とした。しかし、こちらまでの距離は、すでに間近に迫っていた。

「貴方はここから動かないで。」

 セシリアはレイピアを抜くと、膝が地面につきそうな程、腰を落とす。何かしらの魔法がかけられているのだろうか。周囲の気温がみるみると低下し、ハルの吐く息すらも、真っ白に染まった。

「すぐに終わらせる。」

 青白い光が、レイピアの切っ先から溢れた。それはセシリアの体を包み込み、足を伝って地面へと広がる。その紋様は、まるで地面に描かれた絵画のように散って、濃い青紫色に大地を染めた。青い光に照らされたセシリアの姿は、広く知られた「絶零の魔女」というよりも、どこか儚げな硝子細工に近い。

 空気が重かった。それは、感じた事がない程に濃縮された、魔力によるもの。

 セシリアが、素早く大地を踏み込んだ。目で追えない速さで、ドラゴンの翼に5箇所、胴に4箇所。練り込んだ魔力で穿つように、レイピアを突き刺す。

 突き刺された穴からは、青い炎が吹き上がり、やがてドラゴンのもう片方の半身を凍らせていく。

 思わぬ攻撃に、ドラゴンは距離を取ろうと翼をはためかせるが、凍りついた体は自由にならず、周囲の木々にぶつかりながら、のたうち回る。

「思う様な食事をさせてあげられなくて申し訳ないけれど、元の巣へ帰りなさい。」

 だが、ドラゴンは最後の悪あがきとばかりに、自由に動く右腕を、セシリアへ振り上げる。子どもの身長程はありそうな鋭利な鉤爪は、風を起こしながらセシリアに襲いかかった。

「無駄よ。」

 セシリアのレイピアから広がる防御魔法がドラゴンの巨大な爪を弾く。だがそれでも、ドラゴンはその巨躯からなされるエネルギーを爪へ乗せ、防御魔法ごとセシリアを叩き飛ばした。

「…………っ」

 弾かれたセシリアは、宙を翻り、数メートル後ろへと着地する。その僅かな間を、狡猾な魔獣であるドラゴンは見逃さず、着地する直前のセシリア目掛け、炎のブレスを吐きだした。

 咄嗟に展開されたセシリアの防御魔法は、燃え盛る灼熱のブレスを、寸前で方向転換さる。だが同時に、再度ドラゴンの鋭い爪がセシリアへと振り下ろされる。

「っ…………!」

 攻撃は、レイピアによって防がれた。だが、体勢が整っておらず、背後へと再び弾き飛ばされてしまう。

「厄介ね。」

 膝をついて着地したセシリアに、休む間もなく灼熱のブレスが襲いかかる。ブレスでセシリアの防御魔法を封じては、二度、三度と爪を振り下ろす。ドラゴンは、このパターンであればセシリアに攻撃の間を与えないことを、学習してしまっていたのだった。

 防御魔法に、ドラゴンの爪による物理攻撃は、相性が悪い。だからと言って、レイピアを使って爪を弾き続ければ、更に背後へと追いやられてしまう。このまま後退を続けれていれば、後ろの家屋に叩きつけられ、隙を作ってしまう可能性がある。

 一度、敢えて物理攻撃を喰らい、ドラゴンが油断した隙に魔法を叩き込む。それが最も得策だと、セシリアは判断した。

 ギリギリと、爪による攻撃をレイピアで凌ぎながら、一瞬ブレスが弱まったタイミング。その瞬間を、セシリアは見逃さなかった。

 わざと、爪とブレスによって押し切られたように、防御魔法を解除する。防御魔法を割って巨大な爪が押し込まれ、セシリアの肩を抉る。急所までは届かない。計算通りの、完璧な角度。

 そのはずだった。

「セシリア様!!!」

 突如、セシリアの身体が押し飛ばされる。

 驚いたセシリアが振り向くと、そこには、ドラゴンの攻撃を真っ向に受け、爪の斬撃と吹き飛ばされた衝撃によって全身から血を流す、ハルの姿があった。

「ハル=リースリング!?」

 セシリアは叫ぶと、倒れるハルに追い討ちを掛けようと迫るドラゴンへ、レイピアによる攻撃を仕掛ける。それに気づいたドラゴンは、地面を蹴って高く飛び上がった。

「あなた、一体何のつもり!?」

 セシリアは上空を警戒しながら、ぐったりとしたハルの体を、空き家の陰に運んだ。

「セシリア、様……無事で、よかった……ゲホッゲホッ」

「無事って、私が負ける訳ないじゃない。何を考えているの!?」

 セシリアの頭に、怒りで血が昇る。自分の計画が失敗するはずなんて、ないのだから。だがそんなセシリアに、ハルは弱々しく微笑んだ。

「セシリア様が考えている事、分かったんです。でも、もし万が一の事があったらって思ったら、見てるだけなんて、できなかった。」

「万が一の事なんてあるわけない!私は四賢聖よ?」

「でも、回復魔法は万能じゃない。気を失えば使えない。人を生き返らせることもできない。」

「ドラゴンに裂かれるくらい、何て事ない。それより、回復魔法は使えるんでしょう?早く傷を治しなさい。」

 ハルの頭部の傷は、出血は酷いが意識の混濁は見られない。致命傷ではないだろう。それよりも、先程セシリアが治癒したばかりの肋骨をはじめ、ドラゴンに叩き飛ばされた衝撃によって、胴の複数の骨が折れている。内臓にまで達していれば、命に関わるものだ。

 特に、直接爪の攻撃を受けた右肩は、左腰にかけてざっくりと大きな傷を作っていた。ドクドクと絶えず溢れる血から、右腕が胴と繋がっているのが奇跡な程である。

 セシリアも、ハルの傷口へ治癒魔法による応急処置を行うが、今も尚、出血は止まらなかった。

「すみません、セシリア様……お手を煩わせて。」

「喋らなくていい!早く治癒魔法を。」

「この間も、見ていたかもしれませんが……私の回復魔法、昔から、なぜか自分には使えなくって……だから、私はもう、いいですから……セシリア様、ここは危険です。早く、行ってください。」

「自分にだけ使えない回復魔法?そんなもの、ある訳――――」

 そこまで言って、セシリアははっとした。

 セシリアの中に積み上がっていた、このハルという少女のもたらす、小さな違和感。それらが、今のハルの発言によって、一つの仮説に結びついてゆく。

 ハルの言ったことは、嘘ではない。魔法量測定会の騒動の際、オーネットに深い傷を負わされ、回復魔法を使おうとして失敗していた。

 回復魔法と言えば、もちろん大小はあるが、自らに施すのであれば、魔法量との依存関係は低く、難易度も高くはない魔法だ。

 そんな簡便な回復魔法すら、自らには使えない少女。

 だが、人に施す事はできると言うのだから、おかしな話だ。そして、もう一つ。彼女の目には濃紺の悪魔の紋章が顕現している。それはつまり、悪魔の契約を行ったという事。

 何かしらの力を求め、その代償を負わせる契約。その代償が《自らを回復できない》というものだったのだろうか?

 否、その可能性は極めて低い。悪魔の契約における代償は、授かる力の大きさと表裏一体なのが原則。魔法量測定で出した、400以上の数値の代償が、そんなに小さなものであるはずがない。

 そして、ハルに出会った時からずっと感じていた、最大の違和感。それはこの少女から、一切の魔力すらも感じない事であった。

 そこでセシリアは、一つの可能性にたどり着く。

 彼女はなぜ、唯一花に水を与える魔法は使えるのか。

 セシリアはハルに回復魔法をかけつつ、話しかけた。

「私達の状況は、絶望的よ。」

「私はもう走馬灯三周目くらいなのでわかりますけど、どうしてセシリア様も……?」

「私はあれくらいのドラゴンには殺されない。目を瞑ってでも消し炭にできる。但し、グラソン王国には、他の同盟国と結んでいる盟約があるの。」

「盟約?」

 ドラゴンの存在すら知ったばかりのハルに、そんな盟約の存在など、知るはずもなかった。

「近隣諸国には、ドラゴンを神と崇める国もある。その力の強大さから、ドラゴンを虐げて軍事力にしようとした国もあった。その時は何千人もの人が、命を失ったわ。」

「それが、この状況とどんな関係が?」

「この国は、”ドラゴンには絶対に手をかけない”という盟約を結んでいるの。」

「つまり、殺しちゃダメってことですか……?」

「そうよ。通常であれば、レイピアでひと突きでもすれば、自ら巣に戻っていく。だけど今回ばかりは、苦しい事になった。」

 だめだ。失血を重ね過ぎたせいで、だんだんと視界が朦朧とする。

 セシリア様にも、敵わないものとかあるんだ。四賢聖の事だし、盟約くらい破りそうだけど。

「あのドラゴンも、もう少しダメージを与えれば、巣に帰るはず。だけど、さっき中途半端に攻撃してしまったせいで、しばらく接近戦は無理ね。きっとこっちの攻撃が届かないくらい上空から、遠距離攻撃を仕掛けてくる。」

 返事でもするかの様に、頭上からドラゴンの咆哮が響いた。

「撃ち落とすことは出来ないんですか?」

「できるわ。ドラゴンを跡形もなく、消し炭にしてもいいのならね。撤退させる程の攻撃だと、あの距離では届かない。あの個体、相当知能が高い。だから手負いのあなたを抱える私を追わないで、上空に飛んだ。」

「でも、このままじゃ……」

「村は跡形もなく、焼け野原になるわね。」

 ハルの腹部の傷は、漸く出血がおさまった。

 しかし、依然として状況は芳しくない。そんな状況を打破するための切り札として、セシリアは先程到達した一つの仮説を切り出す。

「一つだけある。村に被害を出さずに、ドラゴンを生かしたまま、追い払う方法。」

「本当ですか!?」

「それは……あなたから、魔力を貰うこと。」

 セシリアからの不可思議な提案に、ハルは首を傾げる。

「魔力を、貰う……?」

 セシリアが魔力をもらうという事は、私がセシリアに魔力を与えるという事。果たしてそんな事が、可能なのだろうか。

 魔力の授受を行う方法は、現在の魔法学では解明されていない。

 一部の新興宗教では「魔力を授ける」と謳っている教祖もいるらしいが、本当にそんなものがあれば、それは一国の軍事力を、根底から覆すものにも成りかねない。

 しかし、無表情でハルの回復に当たるセシリアの表情は、真剣そのもの。

「これはあくまでも、私の仮説。貴方がもし本当に、悪魔と契約をした覚えが無いと言うのなら、恐らく貴方はどこかで、《魔力を与える力》を欲したはず。身に覚えはない?」

「……確かに、幼い頃にそれに似た事を祈った事はあります……でも悪魔にだなんて!」

「そう。詳しい状況を聞く時間はないわ。だけど、今の貴方の答えで、この仮説の可能性は高まった。貴方はどこかで《魔力を与える力》を手に入れ、その代償に《魔力を与える力》以外の全てを失った。」

「全て……?」

 断言するセシリアの言葉に、ハルの中で、次々と思い当たる節が浮かび上がる。

「貴方は、花に水をあげる魔法しか使えないと言っていたけど、この仮説が正しければ、他人への身体強化魔法も使えるはず。」

 再び、ドラゴンの猛声が響き渡る。ハル達を探しているのだろう。

「試している時間はないようね。」

 どこかに火球が落下した振動が響いた。

「あなたの魔力を貰う。その魔力があれば、あの上空のドラゴンへ、手加減した魔法をぶつける事ができる。」

「でも私、力の渡し方なんてっ」

「見当はついてる。」

 セシリアは、壁にもたれかかったハルの顎を掴んだ。

 一体、何をされるのだろうか。そういえば、前にオーネット様が、魔力を奪われた人は死ぬという話をしていたような気がする。

 顔を引き攣らせるハルに、セシリアは顔を寄せる。

 星空のように、青い火花が散った。前髪に僅かに隠れた翡翠色の瞳が、ハルの目前で瞬く。

 唇に、柔らかいものが触れる。

「………………っ!?」

 ハルは思わず目を見開くが、その眼前には、長い睫毛が揺れているだけで。

 こ、ここここここここれって、キ、キキキス!?

 そそそうだ、魔力。魔力を渡さないと。

 急激に高まる心拍数。息を止めたまま、セシリアの袖を掴む。そして、自らの中で蠢く僅かな魔力の気配に呼びかけた。

 だが願いとは裏腹に、ハルの体の奥底でずっしりと横たわる魔力は、ハルの呼びかけに一切応じる素振りを見せない。

 セシリアの仮説が、間違っていたのだろうか。或いはやはり、受け渡し方に問題が。

 そう焦り始めた時、痺れを切らしたセシリアが、唇を僅かに離し、今度は片手でハルの後頭部を抑えると、さらに深く、口付けをした。

 気が動転するどころではなかった。ハルの薄い唇を、丸ごと食む様な感覚。歯の隙間から差し込まれた、柔らかく温かくて甘いもの。

 思わずハルは身を引こうとするが、後頭部に添えられた腕が、それを許さなかった。

「ま、んうっ…………!?」

 変化は、すぐに訪れた。

 全く呼びかけに応じなかった、ハルの奥底で眠る魔力の表面が、さざめき出したのだ。

 まるで、水面を風が通ったかのように魔力が震え、やがて振動は濁流の様にうねりを帯びて、ハルの体の中を駆け上がった。

「んんぅっ!?」

 体が、熱い。

 湧き上がった魔力が、ハルの体内を暴れる様に膨れ上がり、セシリアへと流れ込んでいく。

 その激しい勢いと、体を内側から嬲られるような、初めての感覚。ハルは耐えるように、必死にセシリアに縋りつく。

「ふっ、ぐうっ……!」

 どれくらい時間が経っただろうか。セシリアが唇を離す頃には、ハルは涙目になり、息をするだけでやっとな状態にまで、体力を消耗していた。

 魔力は、ちゃんと渡せただろうか。

 頬を紅色させて肩で息をするハルを、セシリアが一瞥する。そして、黙ったまま。先ほどドラゴンと対峙していた広場へ歩き出した。

 ようやく現れたその姿に、上空のドラゴンは雄叫びの様な鳴き声をあげ、地上にいるセシリアに向かって燃え盛るブレスを吹き付ける。

 眩しい豪火が、ハルとセシリアの元へ迫り来る。だがそれは、セシリアが上げた人差し指によって、一瞬にして細かな氷の粒となり、消失した。まるで、時間が止まったかのようだった。

 二発三発と、連続して放たれる炎のブレス。そのどれもが同様だった。

「すごい………。」

 防御魔法すら、展開していない。一体どんな魔法を使ったのだろうか。

「さっさと終わりにするわよ……ニア・セルーユ」

 セシリアの詠唱とともに、手の平が眩く発光し、強大な水の柱がドラゴンの胴体を突き上げた。まるで、神の放った雷のように、巨大な水柱に押し上げられたドラゴンは、セシリアに向けてブレスを吐こうともがく。だがそれも叶わず、巨体ごと水の柱に飲み込まれると、彼方へと押し上げられていった。

 その様はまるで、強大な水が生み出した魔獣によって、ドラゴンすらも捕食されているような様であった。

「終わっ、た………?」

 ふらふらとした足取りで立ち上がるハル。

「死んではいないはず。これでしばらくは町を襲う事もない。」

 よかったと、ほっと胸を撫で下ろす。だが、その安堵は長くは続かなかった。

「やはり、私の仮説は合っていた。」

 セシリアがハルの方を振り向く。その表情は、普段と変わらぬ無表情で。

「ハル=リースリング、あなたは咎人。野放しにする事はできない。」

 再び、ハルの両腕両脚は魔法の枷によって拘束されたのであった。



* * *



 ドラゴン退治を終え学園に到着した頃には、辺りはすっかり真っ暗になっていた。

 ドラゴンによって負わされた傷はノアによって治療がなされ、それが終わると、元いた牢獄へ返された。

 ノアという四賢聖は、四賢聖の中でも取り分け良心的な存在なのだろう。

 ハルとの別れ際、青い瞳を潤ませながら、「これくらいの事しかできなくてごめんなさい」と、ハルに謝罪をしてきた。

「ノア様のせいでない事は、分かっています。」

 ハルは笑顔を浮かべたつもりだったのだが、その痩せた表情は痛々しく、よりノアの胸を締め付けた。

 だが、「分かっている」と言ったのは、ハルの本心でもある。

 ハルを酷く糾弾したオーネットも、ハルに特別な恨みがある訳ではない事はわかっていた。この学園や、ハルの知らない世界の秩序を守るべく、ハルを処断しただけなのだろう。

 実際、セシリアに力を譲渡した際に気づいた、自分の中で戸愚呂を巻くように蹲っていた、強大な魔力。あんなものが自らの中に眠っていた事に対して、ハル自身、驚きと共に、恐怖を感じたのも事実であった。

 この学園に来ていなければ、いつかこの力で、誰かを傷つけてしまっていたかもしれない。あるいは、何者かに悪用され、より悲惨な結果になっていたかもしれない。

 ハルは、牢獄の遥か頭上にある隙間を見上げた。本の背表紙ほどしかない隙間から差し込む、月の光。儚い光に、自らの手を翳す。

 セシリアはこの力を知り、どう思ったのだろうか。

 順当に考えれば、この力の存在こそが、ハルが咎人である確固たる証拠となる。

 場合によっては、明日の判定で極刑が下される事になるかもしれない。

「もう、痛いのは嫌だな……。」

 呟いた声は、冷たい牢屋の石壁に消えた。

 一人、思い浮かべるのは、ドラゴンの爪によって負った傷を癒してくれた、真っ白の指。そして、最後に感じた、温かで優しい、唇の感触だけであった。

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