12 少女と操られた心
突然の、セシリアに次ぐ実力者。クロエ=ウェストコリンの登場に、鈍っていたハルの頭が、急速に回転する。
――どうしてクロエ様が、この場所に。
通常であれば、置かれた状況とクロエ程の実力者の登場。助けが来たのだと喜ぶべきところだが、手放しでは喜べなかった。
なぜならこの少女、クロエ=ウェストコリンは四賢聖の中で最も考えが読めず、また子供の様な無邪気な残忍さを周囲に振りまく四賢聖なのである。
「へぇ、これがセシリアのお気に入りの体かぁ」
「〜〜〜〜〜ッ!」
「ふうん。喋れない魔法か……悲鳴を聞くのが楽しいのに」
そう言って、クロエはハルの頬を撫でる。ふんわりとクロエから香る、クラクラする様に甘いバニラの香り。
同時に、ハルの声を奪っていた魔法が解かれた。
「クロエ様、助けてくださいっ……! ここから出してっ」
「ん? 助けて欲しいの? 何で?」
「何でって…………」
「だってこんなに気持ち良さそうにしてるじゃない。」
――やっぱりこの人は、味方じゃなかった!
クロエがハルの耳をそっと舐めると、ぞわぞわとした悪寒が背中を流れる。
「ひ、いっ……」
「どうしよっかな〜」
クロエは、まるで遊びに行く場所を考える様な素振りで、ご機嫌そうに膝に肘をついた。
どう見てもその姿は、ハルをただ愉快なおもちゃとして値踏みしているようにしか見えない。
「ふふん、よし決めた! やっぱり私って四賢聖いちの天才ちゃんだよね」
クロエはそう言うと、文字通り一瞬で姿を消してしまった。
「へっ……?」
そして残されたのは、相変わらず全裸で床に拘束され、横たわるハル。
「まさか、帰った……?」
クロエの気配は、完全に消えている。
そして近付く足音――部屋に帰ってきたのだ。オーネットが。
「貴様、どうやって目隠しの魔法を外した?」
「ひっ」
「まあいい。私は今、貴様から奪った魔力で今までになく力が満ち溢れている。次は趣向を変えて、この力でお前をいたぶってやろうか。お前の体は、簡単には死なないのだろう?」
オーネットがそう言うと、ハルを拘束していた魔法が外れる。
必死に逃げようと、床を這いつくばるハルだったが、すぐにその両腕は、魔法によって作り出された植物の蔓によって、絡み取られてしまった。
「素晴らしい……この世のすべてのものが、手足のように扱えそうだ」
「オーネット、様っ……」
ハルが、オーネットの仄暗く染まった瞳をまっすぐ見る。澄んでいたかつての光は、もうそこにはなく。浮かんでいるのは、憎悪と欲望。
――だけどそれでも、そんなオーネットの身を案じる人がいることを、私は知っている。
「こんな事したら、ノア様が、悲しみます……もう、やめて下さいっ……!」
ハルの言葉を聞いた途端、オーネットの瞳が、憤怒のに染まる。
「貴様ぁぁぁ、貴様に、何が分かる!」
「わかりませんっ、昔のオーネット様の事も、今のオーネット様に何が起きているのかも……! でも貴方は、本当は誠実で、人を守る為に強くなった方だという事はわかります!」
「黙れぇぇぇぇッ――!」
オーネットが、ベッドの下から剣を抜く。
その瞳は狂気に染まり、以前のオーネットとは別人に成り果てていた。
そして、同時に理解する。今のオーネットは、真っ直ぐハルの命を奪う為に、その刀剣を振り降ろさんとしているのだと。
「――――ッ!」
目前に輝く、銀色の刀身。ギュッと目を瞑り、体に衝撃が走るのを身構えるハルだった。だが、その時だった――。
「そこまでよ。オーネット=ロンド」
オーネットの背後、開け放たれた扉から響く、冷たい声。
「セシリア……なぜここにいる?」
振り返る、オーネット。そこにはセシリアが、氷のように冷たい無表情のまま、立っていた。
「クロエが知らせに来た。いつものクロエの悪戯かとも思ったけど、見に行けとオリビアにせがまれたから来てみたの」
セシリアはそう答えると、後方に控えるオリビアへ「ノアを急いでここへ呼んで」とだけ言った。そしてゆっくりと、鞘からレイピアを引き抜く。
「その様子だと、完全に魔法にかけられている様ね。あなたはオーネットではない。私の知るオーネットは、もっと強く気高く、美しい人間だもの」
「黙れ黙れ黙れッ――!」
苛立った声と同時に、オーネットから業火が放たれた。崩壊する壁。爆炎が、セシリアを建物の外へと押し出す。
「セシリア! うあっ」
咄嗟に叫ぶハルであったが、オーネットに乱暴に掴まれた。
建物の外では、雑木林の一部が更地となり、黒煙をあげていた。そして、その中心に聳える氷壁。オーネットの攻撃を防いだセシリアが、立っていた。
「私には今、この咎人の魔力が流れている。いくらセシリアであっても、今の私には勝てるわけないだろう」
「勝てない? 確かにオーネットなら互角だったかもしれないけど、悪の手に落ちた貴方に負ける気はしないわ」
「減らない口をっ――!」
オーネットが、無詠唱で巨大な炎の渦を作り、セシリアを煉獄の中へ飲み込まんとする。
そんな圧倒的物量の攻撃に、セシリアは耐久戦は分が悪いと判断し、巨大な渦を飛び越えると、レイピアを構えて飛びかかった。
「グレース・ピア!」
セシリアの眼前に青い魔法陣が出現し、無数の氷の刃がオーネットへと降りかかる。だがオーネットはその全てを剣一つで撃ち落とすと、刀剣を構えた。
「無駄だセシリア。剣技では互角。その上奴の力を奪った私には勝てない」
「それはどうかしら?」
途端にセシリアの足場の地面が凍りつき、セシリアを宙へと飛ばす。
「ニア・グランソル!」
セシリアが手をかざした方向、オーネットの足元に青い魔法陣が浮かび上がり、周囲の地面に氷が這う。
「くそっ……!」
セシリアの行動に気づき、急いで地面から足を離そうとするオーネット。その一瞬の隙をついて、セシリアのレイピアがオーネットの頰に傷をつけた。
「次は外さないわよ」
「……チッ!」
「貴方がどんなにハルから魔力を貰ったところで、私には勝てないわ。私はセシリア=セントリンゼルトですもの」
セシリアに切られたオーネットの頰から、わずかに血が流れ出した。
「貴方は誰? 一体何をされたの?」
「うるさいうるさいうるさい!」
オーネットの全身から、真っ黒な炎が舞い上がる。
「ッ!? オーネットッ!」
叫んだのは、駆けつけたノアだった。黒い炎を纏うオーネットの姿に、セシリアが咄嗟に距離を取る。
「黙、れ……私が、守るのだ……強くなって、私が、守るううううああああッッッ!」
漆黒の炎を更に燃え上がらせ、腕を振るうオーネット。
「オリビア! ハルを回収して。それからノアはオーネットの術を解いて!」
セシリアが、オーネットを囲む様に何重もの氷の壁を作りだす。
「セシリアさん! 恐らくオーネットに術をかけているのは、あの刀剣です! あれを壊して貰えたら、そこから漏れ出た魔法を私が解呪します!」
「ノア、わかったわ」
オーネットを囲う氷壁が真っ黒に染まり、砕け散った。瞬間、セシリアが駆け出す。
「守るのは、私、だ……」
全身に漆黒の炎を鎧の様に纏い、両目を灰色に染め真っ赤な刀剣を引きずるその姿は、まるで業火に身を焼かれる悪魔の様だった。
「オーネット! 目を覚まして!」
セシリアが、神速を保ったままオーネットに斬りかかる。だが、高速で叩き込まれるレイピアの連撃は、オーネットの振るう剣によって弾かれた。
「くっ……馬鹿力なのは変わらないのね!」
最後の渾身の一撃も弾かれ、セシリアは身を翻すとオーネットから距離を取る。
しかし、オーネットは反撃の手を休めなかった。地割れするほど地面を踏み込むと、真っ黒な炎をその刀剣に宿し、一直線にセシリアへ切り込む。
――あれを裁くのは厄介ね。
セシリアが避けようと構える。だがオーネットは、セシリアから距離を開けたまま。剣を振るった。
――この距離じゃ当たらな……いや、違うッ!
突然走る、斬撃の衝撃。咄嗟に展開した防御魔法がビリビリと音を立てた。
――この距離でこの威力。でも、隙がありすぎるわ。
セシリアは振り切ったオーネットの懐に一瞬で入り込むと、オーネットの刀剣をレイピアで抑え、魔法を唱える。
「スタン――ッ!」
レイピアの先から、青白い電撃が走る。それらはレイピアを輝かせ、一瞬にしてオーネットが握る刀身へと伝わった。
そして、弾ける音を響かせながら、オーネットの刀剣を激しく震わせる。
「――何をするつもりだ。貴様ッ」
異変を感じ、離れようとしたオーネット。だが、その剣を振り抜こうとしたのと合わせ、レイピアが、オーネットの剣を真っ二つに折った。
「お願いノア! あとは任せたわ!」
焼け焦げたような折れ口から、深い紫と緑が混ざり合った様な、毒々しい煙があがる。
ノアは、逃げるように立ち上る煙へ魔法を唱えると、巨大な白い魔法陣を展開した。
「エンシェントレグリーシオ!」
真っ白な光が、剣とオーネットへ、絡みつく。
「ぐっ、ああああああああッ!」
オーネットが苦しむ様に叫び声をあげて、膝をつく。だが、真っ白な光は決してオーネットを離そうとはしなかった。
「守る、強く…強さ、強さ…がァァッ!」
そして、真っ白な光に絡みつかれたまま。オーネットは地面を思い切り蹴った。折れた剣の向き先は、セシリアーーーではなく、オリビアに抱かれるハルであった。
「ハル……オリビア、ハルを……!」
セシリアが叫ぶ。だが、間に合わない。
ハルに迫る、オーネットの決死の攻撃。だがその剣先が届く前に。天から降り注ぐ巨大な落雷が、オーネットの体を貫いた。
それは、ノアが放った雷魔法であった。
「強さ、を……」
落雷に弾かれ、崩れるオーネットの体。
それでもまだ、うわ言の様に強さを求め、呟き続けるオーネットに、ノアがその体をそっと抱き寄せた。
「オーネットさん……もうやめて、もう、強くならなくていいんです……もう、ローラになろうとしないでください……」
ノアの藍色の瞳から、ポツリポツリと涙が溢れた。滴る粒が、オーネットの頰を濡らしていく。
「……ノ、ア……泣いているのか……ああ、私のせい、なのだな……」
オーネットの仄暗かった瞳が、徐々に焦げ茶色の光を取り戻していく。
「ローラ……そうか、私はまた、道を踏み誤ったのか……」
そう呟くと、オーネットはゆっくりと目を閉じた。
ノアの涙を隠す様に、ポツリポツリと雨が降り出した。
そんなグラソン学園の惨劇を、そっと林の中から見守る黒い影が一つあった。
「……ハル=リースリング。早くあなたと交わりたいわ♡」
そう呟いた女は、脇腹の刺青をそっと撫でると、夜の闇の中へと一瞬で姿を消した。