01 少女と出会い
冷たい雨が降っていた。
降りしきる雨は音も無く野山を鈍色に染め、土路は泥の混ざった水溜りとなった。
漁を生業にする者すらも、船出を待つ夜明け前。普段は賑わっている商店通りは閑散としていて、人一人歩いていない。
「はっ、はっ、はっ」
全ての輪郭を曖昧にする、真っ白な雨。その中、全身を打つ雨粒を気にすることもなく、真っ直ぐにひた走る少女がいた。
「神様っ……万象の、大精霊様…………!」
息を切らし、道に転がる石や木の根に躓いては、荒い布で繕われた服が、泥だらけに染まる。
それでも少女は、ただひたすら走り続けた。
少女の向かう先は、村の外れ。旅人の足でも、一時間はかかるほどの距離にある、緩やかな丘だった。
なだらかな丘陵には、西方に扇状に広がる町を見渡す様に、一本の巨木が生えていた。
齢数千年とも思えるほどの、隆々とした節々。それだけでも、少女の身長をゆうに超えている。田舎の街外れには似つかわしくない佇まいは、神話の世界に聳え立つ大樹すらも思わせた。
少女は巨木の前にたどり着くと、力尽きた様に両膝から崩れ落ちた。そして、項垂れるように両手をつく。
「どうして……どうして、お姉ちゃんが……!」
その声には、生の心臓からあげたような、悲痛なものがあった。
一心不乱に駆けてきたために、呼吸をする度、胸が痛むのだろう。その小さな胸を、両手で抑えながら。少女は、掠れた声で叫ぶ。
「お願いします……大樹の大精霊さま……!」
少女を天から隠すように、巨木の葉が揺れる。雨の音を吸い込むように、沈黙があたりを支配した。
それでも、少女は額をぬかるんだ地面に擦り付け、叫び続けた。
「どうか私の力を全部、お姉ちゃんに……!お願いします、誰かに、私の力をあげる力をください!どうか、どうか……神様…………。」
叫び声は、だんだんと呟くような声に変わり、やがて、少女は気を失った様にその場に倒れ伏した。
雨の中残されたのは、泥だらけで眠る様に倒れた少女と、黙々と押し黙る巨木。
冷たい雨は止むことなく、一日中降り続けた。
* * *
春が来た。
人は、新しい任地や住処、職を選ぶとき、春を選ぶ。
それは花々が芽吹くとともに、新しい命を宿すこの季節が、過去の穢を禊ぎ、新地にて大成を祈るのに相応しいためだと人は言う。
そんな春の祝福は、都から遠く離れた小さな村に住む少女、ハルにも平等に訪れた。
大陸中部。グラソン王国の西の外れにある村、セモール村。人口2,000人余りのこの村に住むハル=リースリングは、この春より、都にあるグラソン魔法学園への進学が決まっていた。
「お昼のお弁当は持った?アイン山脈を超える列車は二本しかないから、間違えたらだめよ。もし分からなかったら、窓口で係員さんにこのメモを見せて──」
「この村初めての魔法学園への入学者だからな!初日から遅刻するなよ!」
入学する本人よりも、不安そうな表情の女と、興奮で沸き立ち、力強くハルの肩を叩く、筋肉質な男。この二人こそが、ハル=リースリングを育てた両親であった。
「はいはい、分かってるよ。もう子どもじゃないんだから。」
ハルは「やれやれ」とため息をついて、姿見に視線を移した。
そこに映るのは、落ち着いた風を装っても、湧き立つ期待を隠しきれていない少女。
今日のために整えた黒髪は、肩に触れない長さで切り揃えられ、水晶のような澄んだ桃色の瞳が、長い睫毛に支えられるように収まっている。
「書類は持った?あとお財布も。洋服は送ったけど、もし足りないものがあったら、いつでも手紙を飛ばすのよ?ああお母さん、ハルに何かあったらと思うと……。」
「大丈夫さ。ハルは見た目はちっとも似てねぇけど、中身は俺に似て頑丈なんだから、きっとどこへ行っても上手くやるよ。」
気を抜けば、今にも涙を流しそうな母。その肩に手を置いて、父が力強い目で続けた。
「でも、もし辛くなった時は、いつでも帰って来いよ。父さんも母さんも、お前の命より大切なものは何も無いんだから。」
「………………っ」
先程までの陽気な空気が、一気に”別れ”を思わせる切ないものに変わった。
父の言葉に、母が鼻をすすりながら、何度も頷く。
「大丈夫だよ。私は、絶対に強くなって、誰かを幸せに出来る、賢者になるから!」
それは、半分は自分自身に言い聞かせた言葉だった。
ハルは窓の向こう、神木が根をおろす方を見つめる。
遠く離れた丘の上に立つ大樹は、森に遮られていて、ここから見ることは叶わない。それでも、この村の人々を守る御神木として、何千年も昔から讃えられていた巨木であった。
きっと、私は大丈夫。父に言われた言葉を胸に、母の手を握る。そして、ドアを押した。
「お父さん、お母さん、行って来ます!」
* * *
二つの山といくつかの川を越え、ハルを乗せた列車がハルの入学する学園、グラソン魔法学園に到着したのは、お昼を少し過ぎた頃であった。
グラソン王国の首都、イスタニカにはいくつかの魔法教育機関があり、王国全土から苛烈な競争をくぐり抜けた優秀な魔法士が、日々勉学や鍛錬に励んでいる。
各校にはそれぞれ特色があり、所属する学生は自ずと思考や特技、進むべき進路を同じとする者が多く、ハルが進学するグラソン魔法学園もその例外ではなかった。
また、魔法教育機関の大きな特徴として、もう一つ。研究開発を主とするリューグル魔法学術院を除いて全ての魔法教育機関は、全寮制を強いていた。
それは、各魔法教育機関は国の軍事力に直結するものであり、各校の保持する機密を保全するという側面が強かった。
「ここが、英雄グラソンの遺産。」
列車の停車駅から、人の流れに沿って進むと辿り着いた正門。厳粛な雰囲気の門の先に広がるのは、丁寧に手入れをされた木々が生い茂る壮麗な庭園と、膨大な敷地を取り囲む、城塞都心を思わせるほどの壁。
そして、門から真っ直ぐ続く、道の先。堂々たる構えでそびえ立つ、青や白で彩られた、絵本の中に出てくるお城のような校舎。
「王宮よりも城っぽいって話は本当だったんだ……って、やばい!もうこんな時間!」
思わず、この夢の城のような校舎で始まる学園生活に、ぼうっと惚けていたが、腕時計の時間を見て慌てて駆け出す。
「新入生って、何人くらいいるんだろう。こんなに広いなら百人、いや千人いても…………うわ!?」
目の前に広がる、まるで非日常のような景色。走りながらも、つい左右に広がる庭園に視線を移し。そして案の定、石畳の段差に足を取られた。
重心が取れない。前のめりに転じた体は、ひっくり返るように倒れて、思わずぎゅっと目を閉じる。
入学初日に転ぶなんて、最悪だ。
走馬灯を二百倍に希釈したように、脳内がスローモーションになった。
しかし、いつまで経っても地面からの衝撃は来ない。
「………………へ?」
代わりにやって来たのは、昼間の陽にあたったお布団のような香りと、腕を優しく掴む感触。そして、浮遊感。
「浮いてる!?」
違和感に、バタバタと足を動かす。感じるのは愛しき母なる大地、ではなく、空気の海を泳ぐような感覚だった。
「大丈夫?いつか転びそうだなーって、後ろから見てたんだけど。まさか本当に転ぶとは。」
いつの間にか、目の前には見知らぬ少女が立っていた。少女は朗らかに笑うと、掴んでいた私の左手を、そっと離す。
「しっかりしないと、危ないぞ。」
途端にハルの体は、紙飛行機が着地するようにゆっくりと、地上へ足を着ける。どうやら浮遊力の正体は、彼女の風魔法らしい。
「ありがとうございます…………すごいですね!今の魔法!」
目の前に立つ少女は、ハルより更に幼く見える、ピンク色の癖っ毛のショートヘアをした、可憐な少女だった。
「人一人浮かべるのなんて、簡単簡単。寝ながらでもできるよ。」
そういうものなのだろうかと、ハルは首を傾げた。浮遊魔法自体はありふれたものだが、鞄くらいの大きさの物を浮かせるだけでも、中等魔法に位置付けられるくらいだ。それを、人にだなんて。
「それより君、新入生だよね?私はリア。私も新入生なんだ。これからよろしくね!」
リアは快活に笑うと、呆然としたままのハルの手を、ギュッと握った。
「リアちゃんも一年生なの!?あんなにすごい浮遊魔法が使えるのに……。」
リアの掴んだ手を握り返しながら、驚いた目でリアを見つめるハルを、リアは更に驚いた目で見返す。
「ええ?ここ、グラソン魔法学園だよ?」
そう言って、握手した腕をブンブン振ってくるリア。
「王国中のバケモノみたいな魔法士がみーんな集まるんだから、私なんて中の中!いや、上は狙えるかな……」
どうやら、ハルがセモール村で人伝いに聞いたグラソン魔法学園の話と、現実の学園の間には、大きな相違があるらしい。どうしてこんなことになっているのか……思い当たる節がないわけでもないけれど、今は一旦置いておく事として。
入寮手続きを進める道すがら、ハルは自分の認識と、現実との間の乖離を埋めるべく、学園について、リアに解説をしてもらった。
「まず、ここはグラソン王国の最高峰にして、最古の学園、グラソン魔法学園。生徒数は二百人で、他の学園と比較するとかなり少ないから、”少数先鋭”って言われてたりもする。流石にここまでは大丈夫だよね?」
「在校生、千人くらいはいるのかなって思ってました……。」
「全然だめじゃん!千人って、グルゴ・パランでもその半分だよ。」
やれやれと、リアは呆れたような顔でハルを見る。
「グラソン王国の首都には、四つの魔法教育機関があるのは知ってるよね?」
「えっ、三つじゃないの!?」
「ハルは一体どうやってこの学園に入ったのさ……一つずつ説明をすると、まずはさっき話した、グルゴ・パラン学院。ここは武闘派集団ってイメージだと、わかりやすいかな。生徒は五百人くらいいて、もっぱら魔法戦闘術が専門。卒業後は軍人になる生徒が大半だよ。ちなみに、グルゴ・パランには三割くらい男もいるらしい。」
「三割?そんなに少ないんだ……。」
武闘派集団と聞いて、筋骨隆々な男達を想像していたハルが聞き返すと、リアは眉間に皺を寄せた。
「逆だよ逆!三割は圧倒的に多いんだよ!魔法は剣術とは違って、女の方が圧倒的に魔力濃度が高いからね。グラソン魔法学園にも、男の人は一割もいないよ。だけどグルゴ・パランは魔法の他に、体術とか剣術にも重きを置いてるから、比較的男も多いんだよね。」
「大変勉強になります……。」
私の育ったセモール村で、まともに魔法を扱えるのは私くらいだった。なので、男女間の魔法量に差があることなんて、思いもしなかった。思えば、私に魔法を教えてくれたあの人も、女の人だったし、リアの言う通りなのだろう。
「二つ目は、聖レヴァンダ学園。ここは四校の中でも、一番新しい学校。というか、まだ設立してから7年しか経っていない。魔法以外の学問、政治やら外交やらにも力を入れてる、イケイケの学園。ちなみに学長は、元グラソン魔法学園の人だよ。」
「聖レヴァンダ学園かぁ。聞いたことないなぁ。」
「聞いたことないって、首都じゃ数百年ぶりに教育機関ができる言って、大騒ぎだったんだけど。」
ハルの情弱っぷりにも慣れて来たのか、リアはそのまま話を続けた。
「三つ目は、リューゲル魔法学術院。ここは他の三校と比べて少し特殊で、教育機関の面もあるけど、どっちかって言うと研究機関って感じ。三十代での編入も認めてるしね。魔法学研究が専門で、魔法技術や魔法薬学、魔法医学に分かれてるよ。ちなみにここは頭の良さ重視だから、男女半々かな。」
「リアって、すごく詳しいね。」
「今の内容、その辺の十歳の子供でも知ってると思うけど。」
「うぅ、世間知らずの田舎娘ですみません……。」
ハルが肩をすぼめると、リアはケラケラと笑った。
「最後が、我らがグラソン魔法学園!四校の中でも一番歴史が古くって、かの英雄グラソンによって設立された学園。魔法に纏わるものは全て最高の水準で身につけられる、というより、身につける事が求められる場所。そして、グラソン魔法学園の最大のトクチョーは……!」
リアは役者のように溜めをつくると、ポーズを決めた。かっこよくもダサくもない、何とも言い難い決めポーズだ。
「四賢聖の存在!だあっ!」
だあっと言われても、あまりピンとこない。学校の特徴といえば、修学旅行がどうとか、学食が評判でとか、そういった類のものであれば、すぐにピンと来るけれど。突然の、聞きなれない言葉。頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。
そんなハルの反応に、リアは再びがっくりと肩を落とす。
「まさか、四賢聖も知らないで入学する愚か者がいるとは。」
愚か者とまで言われるほど、そんなに立派なものなのだろうか。四賢聖というやつは。
「いい?賢聖っていうのは、このグラソン魔法学園で最も優秀な生徒に与えられる称号。優秀って言っても、ただ"すごーい"とか、"きゃーかっこいいー"とか言われてなれるものじゃあございあせん!」
そんな言い方をされると、まるで私が四賢聖になりたいみたいじゃないか、とツッコミたい気持ちを抑えて、大人しくリアの話を聞く。
「賢聖には明確な魔法濃度の基準があって、代によって二人だったり三人だったりする。ちなみに、今の代はかなり優秀で、過去最多に並ぶ四人が君臨してるから、四賢聖。」
「なるほど。ということは二人であれば二賢聖、三であれば三賢聖……ちょっと言いづらくない?」
私の間の抜けな返答は、完全に無視された。
「ここが一番大事なところ。グラソン魔法学園には、学長なるものが存在しない。」
「じゃあ、誰がこの学校を運営してるの?」
ハルが首を傾げると、今度は「待ってました」と、リアの声が明るくなった。リアはコロコロと表情の変わる、少し変わった子なのかもしれない。
「グラソン魔法学園は、完全に生徒自治もとい、四賢者が生徒を導く場所。そして、その中でも絶対的な権力を持ち、四賢者を取りまとめているのが、入学当初から常に第一位の座に君臨し続ける首席、セシリア=セントリンゼルト!別名、絶零の魔女なのである!」
フッ、完全に決まった。そんな声が漏れ聞こえそうな、スッキリした表情のリア。そのリアとは対象的に、その名前を聞いたハルの表情は、どんどんと曇っていく。
「リア。そのセシリアって人、髪は鮮やかな青色で、腰まであるロングヘア?」
「うーん、聞いた話だとそんな感じだったかな?でも髪なんて、伸びたり縮んだりするし。」
「瞳は川底みたいなグリーンで、腰には金色のレイピアを下げて歩いてる?」
「確かそんな感じ……やけにセシリア様のことだけ詳しいね。まさかセシリア様のファン?」
訝しがるリアに、ハル顔が具合の悪そうな青色に染まっていく。そして、今日一番のリアを驚かせる言葉を続けた。
「私、セシリア様に今朝お会いしたわ……。」
「………………え?」
それも、思い出すのを躊躇うほど、苦々しい出会いだった。
* * *
それは、完全に事故だった。それも、どちらかというとセシリア側の過失による事故。そうであると思いたい。
遡ること、ハルが生まれ育った村を出て、数刻ばかりが経った頃。
セモール村から最も近い街で馬車を降り、首都へと向かう列車の切符売りの列に並んでいると、一人の身なりの綺麗な羽帽子を目深く被った女性騎士が、列車の情報を記載した掲示板の前で、腕を組んでいるのが見えた。
どの列車に乗るか、迷っているのかな。そう思った。
なかなか切符待ちの列が進まず、ぼんやりとハルがその女性騎士を眺めていると、掲示板の周囲には多くの人がいるにも関わらず、何となく皆、その女性騎士を避けて歩いている様に見える。
誰か、助けてあげればいいのに。
しかし十分経っても、二十分経っても。道を行く人は誰一人として、声を掛けようとはしない。
ハルが切符を手にしてもまだ、女の騎士は掲示板の前で腕を組んだまま。
まだ列車の出発まで時間はある。声かけた方がいいだろうか。
強い人よりも優しい人になりなさい。それが、日頃の母の教えだった。ハルは意を決して、掲示板の前で腕を組んでいる女騎士に近づいた。
「あのー……」
ハルが、声を掛けようとした瞬間だった。
鈍い音と共に、掲示板の木製の板が、破裂するような音を立てて、めり込んだ。
「チッ」
なんと、女騎士は舌打ちをしながら、掲示板を右の拳で思い切り殴ったのであった。
それは、十六年もの間、村を出た事がなかったハルにとって、生まれて初めて目にする暴力。
女騎士は隣で目を丸くして硬直する少女ハルに気が付くと、少しだけ眉間の皺を緩めた。
「何か用?……あぁ、掲示板を見るのに邪魔だったかな。」
じっと目を丸くして突っ立つハルに、特段注意を払うべき印象を感じなかった女騎士は、そのままハルから視線を逸らすと、歩き出した。
しかし、その瞬間。がしっと音が出そうな程、強い力で右肩を掴まれた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!!!」
無論、女騎士の肩を掴んだのはハルであった。
女騎士は少しだけ驚いた顔をした後、めんどくさそうな顔をして、ハルの方へ向き直る。
「見知らぬ人を引き止めるにしては、力が強すぎるのでは?」
女騎士は、自らハルの方へ距離を詰めると、鼻の頭が触れそうな程に、顔を近づける。
「っ!?」
急な接近と、余裕あふれる立ち振る舞い。田舎から出てきたばかりの、一般的には「世間知らずの箱入り娘」に分類されるであろうハルは、すぐに圧倒されて、次の言葉を失った。
更に悪い事に、たった数秒程の出来事であったにも関わらず、周囲には騒ぎを聞きつけたのか、人だかりができ始めていた。注目の的になってしまっていることが、よりハルの焦りに拍車をかける。
だけど、と。ハルは真っ直ぐに、相手の目を睨みつける。
公共のものを殴って立ち去るなんて、絶対にいけない事なんだ。そう、はっきり言わないと。しかもこの人、絶対に常習犯だ。顔を見れば分かる。帽子でよく見えないけど……。
「それとも、人違い?」
女騎士は、羽帽子を片手でゆっくり持ち上げた。仕舞われていた髪が、舞うように広がる。
深い青色の、長い髪。それは、日光を反射しながら細かい線となって、放射状に散った。その様はまるで、浅瀬の波が、岸へと寄るかのように美しくて。思わず見入る。
冷たい印象を与える端正な風貌とは似つかない甘い香りが、広がった髪からほんのり漂う。
その仕草は、流麗そのものであった。
外した帽子を胸元に当てつつ、もう片方の手で、腰に据えたレイピアの宝石を撫でる。
「私の名前はセシリア。セシリア=セントリンゼルト。」
玩具で遊ぶ犬のように、翠色の瞳が笑った。
* * *
事の顛末を話し終えたハルは、華々しく扉を開けたはずの舞台が、突如としてスリル満点のアトラクションになったような絶望を感じ、陰鬱な溜息を漏らす。
「ほら!ばったり会っちゃっただけだし!怒鳴りつけた訳でも無いんだから、元気出しなよ!ね!明日からまた頑張ろう!」
「…………怒鳴っちゃったんだよね、その後。」
「…………まじ?」
リアの慰めの一言は、よりハルの心を抉る刃になってしまったのであった。
* * *
想定外の事件はあったものの、入寮や入学に関する手続きは滞りなく終わり、ハルとリアは、街路樹に囲まれた道を、食堂から寮に向かって歩いていた。
「はぁ〜、食べた食べた〜」
「人生で食べたご飯の中で、1番のご馳走だったかも。」
「そう?ハルそんなに食べて無かったから、てっきり嫌いなものばっかりなのかと思った。」
「それはリアが食べ過ぎなんだと思うよ。」
二人が食堂を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。西の方に、白く光る星がわずかに見える。セモール村と比べれば、星の数は四分の一も無いだろうか。そんな景色に、随分と遠くまで来たんだなと、今更ながら実感が湧いた。
「ねぇ、ハルはなんでグラソンに来たの?隠匿魔法を使ってる訳でも無さそうだし、魔力量だけで弾かれそうだけど。」
「…………うっ」
隣を歩くリアは、こちらの様子を伺いつつ──いや、全然ハルの方なんて、見ていない。ハルの心のデリケートな部分に触れるような質問かどうかの配慮なんて一切ない、ストレートな質問だった。
無論、この質問は他愛もない志望理由や将来の夢、身の上話を学友と語りあう様なものではない。
なぜ、知識も魔力も家柄もないお前が、この名門と広く謳われる高貴なグラソン魔法学園へ“入学できたのか”という質問である。
一見無遠慮な質問にも聞こえるけれど(実際に無遠慮なのだが)、不思議とリアには、ナイーブな話に切り込まれても、嫌悪感を抱かせない、むしろ何でも打ち明けられてしまいそうな信頼感を感じさせるものがあった。
恐らくそれは、彼女の質問が、好奇心やハルを貶すような気持ちは欠片もなくって、どちらかと言うと、ハルの今後を心配している気持ちからの質問であったせいでもあるだろう。
「うーん、詳しく話すと長くなっちゃうんだけど……私、推薦で入学したんだよね。だから、学科も実技も受けてないし、地元がほんっとーに田舎で、魔法を日常で使ってる人なんて私くらいの村だったから、何も知らなかったと言いますか……。」
「ふーん。推薦入学か。だとしたら、すごい人だったんだね、ハルを推薦した人って。ハルはどんな魔法が使えるの?」
「簡単な治癒魔法だけだよ。一つだけ水魔法が使えない事もないけど……。」
「一つ?それって何?まさか、推薦と何か関係あるの!?」
水でできたらドラゴンとか、巨大な滝をつくり出したりとか。言葉にはしないけれど、そんな事を考えていそうなキラキラとした視線を、リアはハルに向けた。
「いや、本当に大したことないと言いますか……。」
罪悪感から、リアの向ける視線に耐えきれず、ハルはリアから目を背ける。
本当のことを言ってしまうべきか。いやでも、本当のことを言えばリアは幻滅するだろうし。
ちらりと、リアを振り向く。リアの見つめる瞳は、今か今かとご主人の投げるフリスビーを待つペットのような、つぶらな表情だった。
何とかはぐらかせないかと思案するハルであったが、これ以上先延ばしにしても、事態は悪くなる一方である事を悟る。そして、堪忍したように口を開いた。
「絶対に笑わないって、約束してくれる……?」
「絶対笑わない!笑うわけないじゃん!大事な友達の魔法を!」
一体、どんな魔法なのか。未知の魔法か、それとも神話に出てくる様な特殊魔法や、失われた古代魔法の類か。
口に出さなくても、期待が表情に出ている。言いづらいにも、ほどがある。
ハルは横を向きながら、ぶっきらぼうに呟いた。
「イルアローゼ…………。」
「え?」
「だからぁっ!イルアローゼ!花に水をあげる魔法!!!」
「えええ……!?」
学友の告白に、一瞬思考が追いつかなかったリア。だが、ハルの言葉をようやく脳が処理できた頃には、驚きよりも思わぬ魔法の登場に対する笑いが優ってしまっていた。
「ふふっ……イルアローゼ、ははっ」
「もう!だから笑わないでって言ったじゃん!」
リアは目に涙を浮かべて、「あーお腹痛い」とケラケラ笑っている。全くひどいやつだ。「大事な友達の魔法を笑わない!」なんて、格好つけていたくせに。
だけど、リアの反応は最もだった。イルアローゼは、手から水を作り出し、それを近隣の植物──もっぱら、側にある花へと飛ばすだけの、使い道が殆ど無い魔法である。
昔は農業を生業とする人々からの需要があったらしい。しかし、広範囲に水を撒ける魔法具の登場により、使用される頻度はめっきり減ってしまっており、現在では幼児が水魔法に触れる際、最初に習得する魔法。それ以外の役目は無い、なんとも寂しい魔法なのであった。
「あはは……本当にハルは面白いね。一緒にいて絶対に飽きないって、いま確信したよ。」
リアは目尻の涙を拭うと、「そりゃどうも」と、不貞腐れるハルに謝った。
「さっきは笑っちゃったけど、きっとハルにとっては、何か意味のある魔法なんだろうね。唯一使えるのが、花に水をあげる魔法。繊細そうなハルの印象にぴったり。」
ハルの頭を撫でるリアの目つきは、まるで大事な弟や妹へ大切な事を言い聞かせる姉のようで。自らの唯一の魔法を笑われて拗ねていたハルの機嫌を取り戻すのには、十分だった。
「リアはもう寮に戻る?」
「そうだね、家族に手紙出さなきゃだし。ハルはどうする?」
「うーん、私はもう少し散策しようかな。」
「二十時を過ぎると裏口からしか入れなくなっちゃうから、気をつけてね。もし迷子になったら……流石に魔法鏡は使えるよね?」
「使えます!花に水やりしかできないけど、魔道具は普通に使えるから!」
「あはは、ごめんごめん。冗談だって。」
食堂の前でリアと別れ、ハルは寮とは反対側。学園の中央にそびえ立つ、校舎へと歩き出した。こんな時間のせいか、夜の校舎へと続く道には、人ひとりいない。
道を進む度に灯る青白い街灯は、きっと何かしらの魔法によって作られているのだろう。よく見れば、頭上で垂れるようにぶら下がる灯りには、妖精のような生き物が戯れるように発光していた。
奇妙な場所だ。知っていることよりも、知らないことの方が、圧倒的に多い場所。それは、セモール村という小さな村で生まれ育ったハルにとっては、生まれて初めての経験だった。
不安がないといえば、嘘になる。
昨日までは、毎食が硬い麦パンとスープの様な田舎で、革職人の両親の元、真面目に薬草や作物、動物に関する勉学に励んでいた。
それが今では、ご馳走でお腹を満たし、星空の下、少しの解れすら無い制服を身に纏って、王国最高峰と謳われる地で歩いている。
もちろんこれまで、首都がどんな所で、学園がどんな場所なのか、想像を膨らませた事は何度もあった。
だけど今、目の前で輝く、どこからが星空か分からなくなるほど壮観な青と白の校舎。そして、寸分の狂い無く整えられた石畳の道と、噴水から迸る水しぶきの輝き。
それらはどれも、田舎娘の想像では及ばない、まるで空想の世界かの様であった。
今朝の出来事、切符売り場での思わぬ人物との出会いから、今この瞬間までを振り返る。
「本当に、夢みたい…………。」
喜びとも、寂しさともつかない感情が込み上げて、思わず呟いた。
誰もいない噴水の広場。
ハルの声は、本来は木々の間に消えるはずだった。
だが、呟かれた言葉に、背後。それもハルのすぐ後ろから、返答の声が上がる。
「そうね。まるで今朝のあなたとは、夢みたいに違う。」
「えっ」
思わぬ声と、リアから聞いた、四賢聖の話。
頭の中が、一瞬の間にめまぐるしく働いて。収束するように、その声の主に辿り着く。
咄嗟にハルは振り返ろうとするが、
「動かないで。」
首に、何の前触れもなく感じる冷たい金属の感触。同時に、先程とは全く異なる、返答を許さないような冷たい声。
「あのっ……これっ……」
「黙りなさい。」
状況を整理しようと出した声は、首へ押し込められるレイピアの刀身と、鋭い一喝によって打ち消された。
「何故、あなたがここにいるの?回答によっては串刺しにする。嘘をついても串刺しにする。」
「く、串刺しの確率の方が高くないですか……?」
「それが嫌なら、潔白を証明しなさい。」
首元に突きつけられたレイピアが消えたかと思うと、瞬きする間もなく、ハルの視界が反転。地面に叩きつけられた。
「ぐ、うっ……!」
気道から、鈍い声が漏れる。だがその頃には、首元へレイピアの切っ先が押し当てられている。
「目的は何?その服はどこから手に入れた?どうやってこの場所に入り込んだ?」
「うぐっ」
背中を地面に叩きつけられた鈍い痛みに唸りながら、揺らぐ視界に堪えて、空を見上げる。
満点の夜空を背景に、今朝鼻を付き合わせた緑の双眼──セシリアが、じっとハルを見据えていた。
綺麗……じゃなくて、何これ絶対絶命じゃない!?
何か言わなきゃ。そう焦るものの、何を伝えれば良いのかが分からない。何を説明すれば、この危機的事態から脱出できるのか。何せ、今は人生に一度訪れるかの命の危機、回答を間違えれば「間違っちゃった☆」では済まされない状況なのだ。
私を見下ろすセシリアの目は本気だ。よく見る御伽話では、別の場所でばったり会った騎士様が助けてくれる展開なのだが、私の場合は今、その張本人がまさに私の命の灯火を消そうとしてるのだから、助けは望めない。
「答えられない?沈黙は肯定と受け止める。私はノアみたいに優しくはないから。」
「あの、待って、待ってください!今朝はあなたが誰か知らなくて、街の掲示板を殴っていたから、悪い人なのかなって」
「では、なぜこの制服を来ているの。ここの全生徒の顔は把握している。それに、今朝のあなたはボロくさい服を来た、田舎娘だったはず。」
「…………っ」
ボロくさい田舎娘。
その一言に、ハルの頭にカッと血が上った。セシリアのその発言は、ハル自身の生い立ちを明らかに侮辱する発言に他ならない。そしてそれ以上に、これまで自身を大切に育ててくれた両親や村の人たちをも貶けなす発言だった。相手が四賢聖だからといって、許せるわけがなかった。
「ボロくさいって何ですか!貴方の服やそのレイピアだって、全部貴方がボロくさいと罵った人が作ったものなんですよ!?」
セシリアの瞳をキッと睨み、ハルは気圧されまいと言い放つ。だがセシリアは、その無表情とも言える表情を少しも変えなかった。
「ふん。革命軍に下った、貧民街育ちの孤児あがりって所かしら。」
この人は、一体何を言っているのだろうか。
全く予期せぬ返答。だが、想定とは正反対の解釈をされた事だけは、明らかだった。
「どっちにしろ、ここで仕留めておかない理由にはならない。」
「……っ!」
レイピアを握る手に力が入るのが、視界の片隅に映る。
何で!?そもそも、把握している全校生徒の中に私がいないって、どういうこと。
そこでハルは、ふと一つの可能性に思い当たった。
この人は、今朝、セモール村のそばの駅で出会ったばかり。そこから学園までは、列車でも半刻近くかかる。もし、どこかから戻って来たばかりなのだとしたら。
それに何より、「私は絶対に間違ってない」って信じ切ってるこの感じ。これはもしかして、もしかすると……。
「私、今日入寮したんです!明日からこの学園に入学するんです!」
セシリアはハルにレイピアを突きつけたまま、怪訝そうに眉を寄せた。
「入学?たしかオーネットもそんな事を……」
「きっとそれです!そのオーネットさんが、ぐぶっ!?」
生命の危機からの解放の兆し。それを逃すまいと矢継ぎ早に弁明しようとしたところで、突然口の中に、大量の水が溢れ出した。
恐らく、セシリアが水魔法でハルの口内に大量の水を流し込んだのだろう。
「黙りなさい。私の学友、それも四賢聖の名前を気安く呼ぶなんて、例えここの学生でも次はない。今度同じ真似をしたら、今度こそこの手でその命の幕を下ろしてあげる。」
「がぼぼごぼっ、ぼがっ(すでに今、幕が下りそうなんですけど!?)」
息ができず、鼻の奥にも水が逆流しはじめたところで、ようやく水の流れは止まり、吐き出した。
「ゲホッゴホッ」
「魔法耐性も無いなんて、本当にうちの新入生なのかしら。」
必死に酸素を肺に取り込みながら、目の前に立つ青い悪魔を涙目で見やる。
「ようやく、信じてもらえた……?」
「いいえ。でも、仮にあなたが嘘をついていたとしても、何もできそうに無いし。」
「なっ!?私だって、少しくらいあなたを出し抜く事くらい、できるんですけど!」
「じゃあやっぱり、貴方はここで始末しておこうかしら。」
「ひっ!?違うんです!言葉のあやというか……!」
セシリアの手が再びレイピアを握るのを見て、慌てて誤解を解く。
「冗談よ。本当に入学生なのかは、明日になればはっきりするでしょう。今朝の一件は、これでチャラにしてあげる。」
「えっ私の方の比重重くないですか!?」
「何?文句でもある?」
「いや、何でも無いです…………。」
青い悪魔――セシリアはレイピアを腰に戻すと、髪を星空に吸い込ませる様に、身を翻す。
そして、そのまま立ち去るかの様に思えたが、5、6歩進んだ所で歩みを止めた。
「あと、ボロくさいって言ったのは嘘よ。」
詳細な表情は、影となっており伺えない。だが僅かに、街灯の光を反射してチカチカと煌めく、萌葱色の瞳が見える。
その瞳はハルを映すのを恥じらうかの様に、左脇の街灯を見つめている様であった。
「ボロくらいって言ったのは、あなたの本心を揺さぶるためであって、私は民衆を大切に思っているし、あなたが言った事も理解している。」
「う、うん……じゃなくて、はい。ありがとうございます……?」
「流石に、あんなに焚き付けられるとは思わなかったけど。もっと命を大切にしなさい。」
言いたい事を伝えて満足したのか、セシリアは音もなく地面を蹴ると、空へと飛び立った。
「一位になると、空も飛べるんですね……」
一人残された私は、地上に座り込んだまま。空に輝く星を見上げる事しか出来なかった。
* * *
夜の広場での、嵐のような出来事。それが嘘だったかのように、その後の時間は平穏そのもの。
翌日の入学式も滞りなく行われ、壇上で粛々と祝辞を述べるセシリアは四賢聖らしく。まるで昨晩、新入生の命を掠め取ろうとした時の表情とは、全くの別人であった。
そして、ハルの入学から七日が経った今日。
世界は、ハルの人生、グラソン魔法学園の命運、王国の未来を揺るがす、全ての発端を迎える。
だがそのことを知る人は、四賢聖をもってしても、誰一人いなかった。