ネコはミルクが嫌いなの
差し出されたものは、白く濁っていた。
「寒かっただろうね、ほら、あったかいよ。どうぞ」
理解できない音がした。ニャーとかニャンニャン言って欲しい。
舌でぺろって舐めてみると、なんだか生臭い。白濁したそれは、ぼくが舐め慣れないものだ。ペッと吐き出す。
草むらからここに連れてきたものは、ぼくとは違った生き物だった。二本の足で歩き、ぼくでいうところの前脚で、ぼくを抱えて、ここまで連れてきた。頭の上に降ってくる水の気配が、ある瞬間で消えた。ガラッと派手な音を立てた時だ。
その生き物は、ぼくの前にそっと何かを差し出した。それがこの、生臭い白濁した液体だ。
「好きじゃないかぁ。なら、これならどう?」
その生き物は懲りもせず、再び何かを出してきた。チュルッとした、柔らかそうなもの。嗅いだだけで、美味しそう。考えるより早く、口が動いた。
ぼくはどこかの草むらに置き去りにされた。おかあさんがいたけれども、数多いきょうだいを全て面倒見きれなくなって、ぼくだけを草むらに置いて行ったのだ。そのうちに迎えにきてくれるかなと思ったけれど、おかあさんは来なかった。とても寒く、ぼくを守るものは緑色の草以外何もなかった。そのうちに、体の上からたくさんの水が降って、その水がぼくを冷たくさせた。
そうしたときに、この生き物がやってきた。ぼくを発見して、頼りない腕でぼくを抱き抱えてくれた。抱えるものは細かったけれど、どうしようもなく暖かくて、どうしようもなく離れがたく感じた。
口の中が幸福で満たされる。
「なんだ、やっぱりこれは美味しいと思うんだね」
チュルチュルとそれを吸い取る。やっぱりこの生き物が発する音は理解できないけど、チュルチュルしたそれは、今まで食べたどんなものよりも美味しい。美味しい。さっきの白濁した液体よりも数億倍に。なんだ、この生き物は、こんな美味しいものを食べさせてくれるのか。それはとても悪くない。
こんな生き物とこれから一緒に暮らせるのだろうか。
それがぼくと今のご主人の出会いだった。
*
明るくなって暗くなってまた明るくなって、その間の半分をうつらうつらと眠っている。それはぼくの生まれた生物の習性。ネコという動物はそういうものなのだが、それを差し引いても最近眠たすぎる。カリカリとご飯を食べている最中でもふっともう目を閉じちゃってもいいかなと思うのだからこの眠気は凄まじい。動くのだって、ちょっとだるいのだ。
ソファの右端。フカフカの布団が重なって畳まれたところがぼくの定位置だ。たまにご主人がソファでごろっと眠ると、ぼくの背中とご主人の足がぴったりとくっつく時がある。それがなんともいえずに、腹を見せたくなる心地になる。
ぼくを拾ってくれたご主人は、ぼくをこの家に連れてきてそのままお世話をしてくれるようになった。ニンゲンという生き物のメスで、同じような生き物があと二人ほどいる。あと二人の生き物は、ご主人のお母さんとお父さんと言える存在で、拾われてから随分経ったけれど、ご主人と変わらずにぼくを可愛がってくれた。ぼくはこの家で、ぼくを捨てた母の代わりを得ることができた。
くあっと大きいあくびをする。眠い。あくびの反動で、ぼくは自分の匂いを嗅いだ。
ふんふんとぼくは自分の匂いを嗅ぐ。すると薄暗い、書いだことの無いような匂いが自分のからだに纏わりついていることに気がついた。ほこりのようなカビのような。終わりに向かって分泌されているような感じの。
この匂いはぼくは知っている。三軒先の豆腐屋のオレオを思い出す。豆腐屋のオレオは、2年前に亡くなった、白たびを履いた黒猫だ。最後に彼を見た時、こんな匂いを醸し出していた。
するとぼくはどうなるのだろうか。豆腐屋の奥さんとご主人のお母さんはとても仲が良く、良くオレオを連れて遊びにきた。オレオが亡くなったと語った奥さんは、大変悲しんでいた。
ご主人を悲しませてはならない。ぼくは、ご主人を悲しませたくない。ご主人も、ご主人のお母さんもお父さんも、きっと泣くだろう。そんな顔をさせるべきではないのだ。
ぼくは重くなった前脚、ちょっとだるい体をなんとか伸ばして起き上がる。最近からだも凝り固まって、動くのも億劫になっている。
昼間、ご主人は家にいない。家にいるのは、ご主人のお母さんだけだ。ふんふんと再び鼻を動かして、お母さんがいるかどうかを確認する。ご主人のお母さんは、いる。ぼくがいる部屋から離れた場所で、何やら忙しなく働いている。元気だなぁ。お母さんは。
扉の前にくる。ぼくは前脚を器用に動かして、肉球で扉を開ける。お母さんはおうちの仕事で忙しない。たまに、扉の締まりが緩くなっている時があるのだ。
久方ぶりの外の世界だった。ご主人はぼくが外に出るのをとても嫌がる。外は危なく、からだを壊してしまうからと言って、ご主人がいる時以外、外に出してはくれないのだ。たまにそれでも、太陽の光が恋しくなって、風の気持ちよさを身に感じたくて出てしまうんだけれど。そうするとご主人はぼくを捕まえる。ぼくは遊びたくてつい逃げてしまうけれど、結局はご主人の腕におさまるのだ。
今日は空気がポカポカしていて、日差しが暖かい。
ご主人はいない。出るなら今だ。
今までありがとう、ご主人。お母さん、お父さん。きっと近いうちに、ぼくはオレオと同じようになるだろう。そうなっても悲しまないでおくれ。
ぼくは二度と帰らないつもりで一歩外に滑りでた。
*
自分でも行ったことのない場所へ、4本の足でトコトコと歩く。特に当てもないけれど、できればご主人の家から遠いところまでは辿り着きたい。ちりんちりんという甲高い音。ゴーゴーと、たまにブルブルと振動する音にびくつきながら、ひたすら進む。あれに当たったら終わりだ。もうすぐにそうなるかもしれないけど、できればそれで亡くなりたくない。痛いのは嫌だから。それにもしご主人がそんな僕の姿を見たら、きっと悲しむ。これからいなくなる僕がそんなことを考えるのは、ちょっとわがままだろうか。
歩きながら、ぼくは今までの事を思い出す。ぼくを拾った時、ご主人の身体は小さかった。音でいう「チュウガクセイ」と言う身分だったらしい。抱っこする腕は細くて、今よりもだいぶ頼りなかった。ご主人に抱かれながら少しヒヤヒヤしたのも懐かしい。
今ではご主人は、「コウコウセイ」を経て、「ダイガクセイ」になった。その間にご主人はかなり変わった。頼りなかった腕は強くなり、身体もしっかりしてきた。
その間にぼくも少しは大きくなったのだ。子猫から大人になって、プニプニだった肉球は少しだけ弾力を持って、肉付きだって良くなった。活発に遊べるようになって、その時間はあっという間にすぎて、今では動くのだって億劫だ。だるい体を引きずるように、時折休みを挟みながら進んでいく。
ご主人の膝の上が好きだった。ご主人のお母さんの眠る布団の上で、前脚をふみふみするのが好きだった。ぼくが前足を動かすと、ご主人のお母さんはよしよしと撫でてくれた。その時のての優しさが好きだった。最初はぼくを嫌がっていたご主人のお父さんも少しずつ慣れてくれて、ボール遊びの楽しさを教えてくれた。ご主人の脛や胸に頭をすりすりさせると、彼女はぼくを持ち上げてよく可愛がってくれた。
いい思い出がたくさんあった。ポカポカした空気のような幸せの時間を思い出していたら、空気がスッと冷える。歩く影が、より一層暗くなった気がした。
不振に思って空を見上げると、分厚い雲が青を覆っていた。空から、生臭い匂いがする。自分から醸し出される終わりの気配ではなく、ぼくの体を直接濡らして冷やす、
ぽつり、と鼻先に当たった。一粒の水。空からの贈り物だ。
ぼくは慌てて、自分の身を隠せる場所を探した。この水はなるべくならば当たりたくない。懸命に足を動かして、見つけたのは木の匂いが強い古びた建物だった。どんどん、水が落ちてくるペースが早くなる。朱色の門のようなものを潜って、古びた、かびくさい軒下に身を隠す。神社という場所に、ぼくは初めて足を踏み入れた。神様がいるところ。
ぼくが軒下に入ったと同時に、水はバケツをひっくり返したかのような勢いになった。ドシャドシャと天から降ってくる音が、とにかく怖い。からだに纏っている水気が濃くて、それだけで寒気を感じた。
思わずくしゃみをした。
ぼくは長い間、洪水になるんじゃないかと思われるぐらいの大量の水が流れる様を、軒下から震えながら眺めていた。その間に、少し明るかった空気が、一気に暗闇に飲み込まれる。ただただドシャドシャとした恐ろしい音だけだ響いていく。
……身を隠しながら、本当はこの水の奔流に当たりまくってその時を迎える方が良かったのかもしれない、とも考えた。ご主人はぼくの姿を見ずに済むだろうし、ぼくはぼくで、痛みも苦しみもなく、穏やかな気分でオレオと同じになれる。
でもこの水に当たりたくないと、ぼくの幼い記憶に刷り込まれた本能が叫んでいたのだ。これに当たりたくない。これは冷たくて痛くて悲しくなるから。
おかあさんに選ばれなかった時を思い出すから。
どうしてぼくは、お母さんに咥えてもらえなかったのかな。他にもたくさんきょうだいはいたけれど、だったら同じように連れてってくれてもよかっただろう。
他のきょうだいより容量が悪くて、いつもお腹を空かせていたからかな。
他のきょうだいからもよくいじめられて、おとなしかったからかな。
おかあさんは弱い子が嫌いだったのかな。
おかあさんからみて、他のきょうだいとぼくは、何が違ったんだろう。
この水は嫌いだ。ぼくを一人ぽっちにさせる。冷たくて寂しい気分に、否応なくさせられるから。
……でも、そろそろオレオと同じようになるのに、どうしてこんなことを考えてしまうのだろうか。
うとうととしながら、水から身を隠す。思い出したくないけど、ぼんやりと生まれたての時を思い出す。冷たい。冷たい。寒いーー
「クッキー!」
ぼくはいつまで、どれぐらいうとうとしていただろうか。
「やっと見つけた! 一体どこに行こうとしたの!」
聞き覚えがある音が、水と一緒に降ってくる。
大きい手のひらに掬い上げられる。さっきうとうとしていた場所が遠ざかる。むわっとした草の匂いではなく、代わりにほんのり安心するあたたかさに包まれる。嗅ぎ慣れたにおい。
「だめよクッキー、勝手に外に出ちゃ。もう。心配させないでよ」
相変わらず理解できない音。でも音や身から出てくるにおいはわかる。この声の主は、ぼくのことを本気で案じてくれている。においはその生き物の気持ちを表すから。
ぼんやりした瞳に入ってくるのは、ご主人だった。おかあさんじゃなくて。ぼくを見つけて、草むらから抱き上げてくれた優しいニンゲン。美味しいものをくれて、あったかい布団で寝かせてくれて、いつも一緒にいてくれた。
そうだ。おかあさんは迎えには来なかったけど、ご主人はいつも、ぼくが家からうっかり出た日も、いつだって見つけてくれたんだ。
ご主人の目に水が溜まってる。この水を落としちゃだめだ。落ちてくる水は悲しいものだから。ご主人はそんなものを、ぼくの上に落としてはいけない。
……ああ、ぼくがご主人にそうさせたのか。
悲しませるつもりはなかったのに。
ぼくはご主人の顔にぼくの顔を近づけて、ご主人の目から落ちる水を舐めとってみる。ごめんなさいと、ありがとうを伝えるために。猫が舐めるには、それはしょっぱすぎる気がした。
*
ぼくにとっての大冒険の距離は、ご主人にとっては一瞬の距離だったらしい。ぼくはご主人に抱かれながら、ご主人の家に入った。あったかいタオルでもみくちゃにされる。ソファに座ったご主人の膝の上で丸くなる。
「はい、クッキー。とりあえずこれね。飲んで」
ご主人は、白濁した液体が入った水のみを、自分が座った横に置いた。つい、尻尾を丸めてしまう。
ああご主人よ。ぼくはミルクが嫌いなんだけどなぁ。本当は、あのチュルチュルした食べ物が欲しい。あっちの方が、百億倍美味しいから。
でも今日は、少しだけ飲んであげてもいいかなぁ。お腹も減ったし。しっかりしたご主人の膝がとっても嬉しいし。……あの時みたいに迎えに来てくれたし。
眠い、眠い。そして、暖かくて気持ちいい。
もう少し、この優しいまどろみの中にいてもいいのかもしれない。もう少し、もう少しだけ。
ぼくはご主人の胸に、おでこをすりすりと擦り付ける。そして、ぼく用に温めてくれたミルクに鼻をつけてみた。
水銀あんじゅさまよりいただきましたお題「猫」で書かせていただきました。ありがとうございました。




