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裏野ハイツ奇譚 <紹介編>

本作(「裏野ハイツ奇譚」)は、

「夏のホラー2016 六箱怪談」のお題を使用して、

イベントとは関係なく、書かせていただきました。

 東京都内の片隅の目立たない場所に、そのアパートは建っていた。目立たないとは言っても、徒歩10分圏内に、駅、コンビニ、郵便局、コインランドリーも揃っていたので、必ずしも不便な土地だったのでもない。

 そのアパートは、裏野ハイツと呼ばれていた。所有していたのは、専門の管理会社だったので、部屋を借りるに当たって、そこまで厳しい審査基準があった訳でもなかったようである。にも関わらず、裏野ハイツでは、頻繁に入居者が入れ替わっていたのだった。

 噂では、このアパートでは、何か怪しい事が起きているらしいと、ひそかに評判になっていた。それで、ますます、裏野ハイツのことを敬遠する外部者も増えていったみたいなのである。もっとも、それは、あくまで口伝えの噂話なのであり、はっきりした事を知っている人は、まるで居なかったのだ。

 裏野ハイツは、築30年の木造二階建ての、ありふれた風貌のアパートだった。各階に3戸ずつ、入居する事ができて、現在は、5戸までが埋まっていた。怪しい噂が立っていた割には、住人は存在したのである。ただし、その住人の中に、肝心の噂の当事者がいたのではないか、とも囁かれてはいたのだが。

 各部屋の間取りは共通しており、どこも1LDKで、9畳のリビングと6畳の洋室の他、バス・トイレ、洗面台やベランダも備わっていた。駐輪場もあったので、実際には、居住環境はかなり快適な方なのだ。家賃は、敷金なしの4万9千円だった。ヘンな噂さえ気にしなければ、むしろ、好条件だらけの穴場のアパートなのである。

 だからこそ、まだ空室だった203号室に、またもや、新たな入居希望者が現われたのだった。その人物は、難なく、部屋を借りる審査基準をクリアして、間もなく、裏野ハイツにと越してきた。

 一人暮らしの若い男性である。名前は、コバヤシと言った。リンゴのようなツヤツヤした頬っぺたと大きな目を持った、なかなかの好青年なのだ。こうして、これより、彼の、このアパートでの冒険が始まる事となったのである。

 引っ越して早々、コバヤシ青年が行なったのは、他の同居人の様子を探る事だった。「探る」と言う言い方が良くなければ、皆に挨拶回りをしに出掛けた、と言い直してもいい。とにかく、自分の部屋の外に出たコバヤシ青年は、さっそく、アパートの中を歩き回ってみたのである。

 しかし、彼の探究は、隣の202号室に出向いた時、いきなり挫折してしまったのだった。202号室の玄関には、表札が掛かっていなかったからである。これでは、このアパートに来たばかりの新住人であるコバヤシ青年には、この部屋に居住者がいたのかどうかも判断がつかないのだ。

 そうやって、コバヤシ青年が、202号室の前で突っ立って、戸惑っていると、ひょっこりと、201号室の玄関のドアが開いたのだった。そのドアの奥から顔を見せたのは、とても温厚そうなお婆さんである。腰も曲がっていて、少なくても、70歳は過ぎていたのではないかと思われた。

「おや、新しく引っ越してきたお兄さんですか。その202号室には関わらない方がいいですよ」と、お婆さんは、笑みを浮かべながら、優しく教えてくれたのだった。

「あなたは、201号室の方ですね。初めまして。203号室に越してきたコバヤシと言います」コバヤシ青年も、お婆さんに向けて、丁寧に挨拶したのである。

「あら。若いのに、礼儀正しいのですね。こちらこそ、よろしくお願いいたします。一体、どちらから、ここへ?」

「田舎の方から、大学に通う為に、上京したばかりなのです。都会は不慣れなので、いろいろ教えてください」

「そうでしたか。じゃあ、このアパートも、何も知らずに、選んだのですね」

「え?どういう事でしょう?」

「いえいえ。気になさらないで下さいな」

「ところで、この202号室は、どうなってるのでしょう?誰か住んでいたのでしたら、お隣ですので、きちんと挨拶しておきたかったのですが」

「そうですね。住んでるような、住んでないような。まあ、放っておいてもいいでしょう」

 お婆さんは、穏やかな口調ながら、言葉を濁してしまったのだった。コバヤシ青年の方も、合点のいかぬ表情になったが、これでは、それ以上の詮索もしづらいのである。

「お婆さんは、一人暮らしなのですか」

「ええ。もう、このアパートに住み始めて、20年は経つでしょうかね」

「何かありましたら、声をかけて下さいね。いくらでも力になりますので」

「ありがとう。若いのに、本当にお優しいですね。でも、心配なさらないで。私にも、息子夫婦はおりますから。孫だって、いるのですよ」そう言って、お婆さんは、楽しそうに微笑んだのだった。

 よく見ると、彼女は、手に、大事そうに、小さな紙片を持っていた。けっこう年季の入った、ボロボロになった紙片で、コバヤシ青年も気になったのだが、さすがに、それが何なのかをズケズケと聞く訳にもいかなかった。

「もしかして、お婆さんは六箱さんですか?」と、コバヤシ青年は、ふと、関係ない事をお婆さんに尋ねた。

「え。違いますが。それが、何か?」お婆さんも、キョトンとした顔になった。

「すみません。違うのならいいのです」コバヤシ青年も、すぐに、その話をやめたのである。

「良い人が越してきてくれて、私も良かったです。そちらこそ、困った事があったら、気兼ねなく、相談して下さいね。同じアパートのよしみなのですから」

「ありがとうございます。そうさせていただきます。では、僕は、下の階の人たちにも挨拶してきたいと思いますので、この辺で」

 コバヤシ青年は、適当なところで、お婆さんとの世間話を切り上げる事にしたのだった。

 二人は、軽く会釈しあった後、別れた。お婆さんは、部屋の中に戻ってしまったのである。コバヤシ青年は、素早く、201号室の入り口を確認してみたが、そこにも表札は掛けられていなかった。うっかり、お婆さんの名前は聞き損ねてしまったのである。

 コバヤシ青年は、今、必ずしも、言葉のあやを用いて、会話を終わらせた訳なのでもなかった。彼は、確かに、このあと、下の階の住人の元へも出向いたのである。201号室のお婆さんと別れたあと、階下の方で、ドアを開く音が聞こえてきたので、1階にも誰かが住んでいたのは間違いなかったのだ。

 ただし、その前に、コバヤシ青年は、もう一度、202号室を探ってみた。202号室の玄関のドアに、そっと耳を当ててみたのである。すると、中からは、何となく、誰かがいるみたいな、かすかな音が聞こえてくるような気がしたのだった。でも、それは、ただの気のせいだったのかもしれない。

 そして、コバヤシ青年は、2階の廊下から階段を経由して、1階にと降りたのだった。

 1階に来てみて、彼は、また戸惑う事となった。1階の住人たちも、誰一人として、部屋の入り口に表札を出してはいなかったのだ。これでは、上階の202号室と同様で、声を掛けていいものかどうかも迷うのである。

 こんな事ならば、先に、201号室のお婆さんから、きちんと情報を仕入れておくべきなのであった。

 このように、コバヤシ青年が、廊下でウロウロしていたら、外から、ビシッと背広を着込んだ50代ぐらいの中年の男性が入ってきた。

「あれ。どうしましたか。あ、さては、新しく、こちらに引っ越ししてきた方ですね」と、その男は、コバヤシ青年の姿を見つけると、朗らかに話し掛けてきた。

「もしかすると、こちらに住んでいる方でしょうか」渡りに船とばかりに、ホッとしたコバヤシ青年は、その男に応じた。

「101号室に住んでます。今、仕事が終わったところでしてね」

「そうでしたか。203号室に越してきたコバヤシと言います。以後、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしく。若いのに、礼儀が身についているね。どこから越してきたんだい」

「ちょっと田舎の方から。都会で働いて、親に仕送りをしなくちゃいけないのです」

「そうなのか。感心、感心」

 この101号室の男性は、やたらと陽気であり、親しみやすそうな人物なのである。

「ところで、あなたは、六箱さんでしょうか?」と、男に、コバヤシ青年は尋ねた。

「え。違うけど。それが何か?」

「いえ。違うのでしたらいいのです」

「六箱さんという方を探してるのかな。でも、このアパートには住んでないよ」

「そうなのでしたか。見たところ、誰も表札を出してないようなので」

「まあ、それは気にしないで。そのうち、慣れてくるよ」

「1階の部屋は、全部、埋まっているのですか」

「一応はね」

「挨拶回りをしたいと思っているのですが」

「だったら、102号室は外してもいいよ」

「え?何か不都合でも?」

「あまり人付き合いを好まない男が住んでいてね。働いてないのかな。部屋からは、ほとんど外に出た事がない。私も、この男の姿は、年末ぐらいしか、見た事がないよ。だから、玄関のドアを叩いたところで、多分、出てきてはくれないだろうね」

「そうなのですか」

「ははは。不安がる事はないよ。ほんの少し、変わり者と言うだけだから」

「でも、2階にも、よく分からない部屋がありましたが」

「ああ、202号室ね。あそこについては、隣の201号室の婆さんが、よく知ってるはずだよ」

 男は、話好きなのか、ペラペラと、いろいろな事を教えてくれるのである。しかし、ここで急に彼は声を潜ませた。

「むしろ、怪しいと思うのは103号室に住んでいる家族かな。一見、若い夫婦で、小さな子供がいると言う話なのだが、それが本当なのかが、ちょっと・・・」

「え。何かの理由で、子供がいるフリをしてるとでも?」

「あ、いや。子供がいる割には、あまりにも静かすぎるってだけで。まあ、今の話は忘れてくれたまえ。深入りしなければ、決して嫌な人たちでもないよ。あとで、引っ越しの挨拶をダシにして、会ってみたらいい」

 そこまで喋ると、男は、ようやく話をやめたのだった。彼は、コバヤシ青年に、軽く会釈をすると、それで別れて、自分の部屋へと帰っていったのだ。

 男は、素早く、玄関のドアを開くと、さっさと、その中へと入って、すぐドアを閉めてしまった。コバヤシ青年は、チラとも、101号室の内側の様子を見る事もできなかったのである。

 このあと、コバヤシ青年は、躊躇しながらも、103号室の方へと足を向けてみた。

 すると、コバヤシ青年が、103号室の玄関の手前に来たのと、ちょうど同時ぐらいに、そこのドアが開いたのだ。

 中から、顔だけ出してみせたのは、30歳ぐらいの若い女性だった。素朴な顔つきだったが、決して不美人だった訳でもない。

「新しく引っ越して来た方ですね。何やら、廊下から声が聞こえてきたものだから」と、その女は、不安そうに顔を歪めた。どうやら、この女性が、例の若い夫婦の妻の方らしかった。

 開いたドアに隙間ができていたものだから、コバヤシ青年は、さりげなく、中を覗いてみた。奥の方に、一瞬だが、3歳ぐらいの男の子の姿が見えたような気がした。

 それで、コバヤシ青年も、ややホッとして、会話を始めたのだった。

「203号室に越してきたコバヤシと言います。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくね。ところで、あなた、今まで、101号室の会社員と話をしていたのかしら」

「そうですが」

「やだわ。あの人、明るいのはいいんだけど、作り話が好きでね。私たちのことも、何か、変な事を言ってませんでしたか?」

「いえ、特に何も」

「私たち、共働きをしてますの。でも、まだ小さな子供が居ますので、夫婦かわりばんこに家を空けるようにしてますのよ。私も、これからパートに行かなくちゃいけないんですけど、今は、夫が会社から帰ってくるのを待ってるところでしたの。ただ、それだけですわ」

 103号室の奥さんは、自分たちの生活を、聞きもしないのに、詳しく教えてくれた。あるいは、そのへんに関しても、前に、変な噂を吹聴された事があって、神経質になっていたのかもしれない。

「むしろ、おかしな隠し事をしているのは、101号室の会社員の方じゃないかしら」

「え。そうなのですか」

「あの人は、独り者に見えますけど、どうやら、ほんとは同居人がいるみたいなのですよ。しかも、その同居人の姿こそ、まだ誰も見た事がないの」

「それは本当の話ですか。202号室にも、誰かが居るような話でしたが。201号室のお婆さんが事情を知ってるとか」

「201号室の婆さんねえ。あの人も、よく分からない人だわ。あの婆さんのところに、家族や親戚が訪れたところを見た事がないのよ。ねえ、あの人が、いつも、小さな紙を持ち歩いているのには、気が付きました?」

「ああ。そう言えば」

「あれって、お孫さんの写真らしいのよ。でも、それにしては、古くなりすぎてるわよね。いつ撮った写真なのかしら。それ以前に、あの人って、まだ家族はいるのかしら」

 どうも、この103号室の奥さんは、やたらと噂話が好きみたいなのであった。

 これ以上、聞かせてもらっても、よけいな話みたいな感じもする。コバヤシ青年は、適当なところで、お喋りを中断して、引き上げたのだった。

 こうして、この日の昼間は、コバヤシ青年は、自分の部屋へと戻ったのである。

 彼の住む203号室には、家具が全く置かれていなかった。ガランとした空き部屋の状態のままなのだ。引っ越してきたばかりなのだから、そう言う事だって、ありうるだろう。

 いや、実を言うと、この部屋に、家財道具が持ち込まれる予定はなかった。もともと、彼は、別の目的があって、このアパートにと潜入してきたのだ。

 夜もだいぶ更けてから、一人の男性が、コバヤシ青年の部屋へと訪れた。コバヤシ青年よりも、一回りほど年上で、お洒落なスーツを小ぎれいに着こなした紳士だ。

 彼のことを、コバヤシ青年は、嬉しそうに迎え入れたのである。

「コバヤシくん。首尾の方はどうだい?」来訪した男が、にこやかに、コバヤシ青年に尋ねた。

「バッチリです。必要な情報は、一通り、聞きだしました。待っていましたよ、アケチ先生」と、コバヤシ青年も、男に対して、しっかりと答えたのだった。

(「裏野ハイツ奇譚 <解決編>」に続く)

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